医者が患者をだますとき ロバート・メンデルソン

医者が患者をだますとき 目次

ロバート・S. メンデルソン (著), Robert S. Mendelsohn (原著), 弓場 隆 (翻訳)

はじめに 私は告白する
序章 現代医学は宗教である

ほとんどの人たちは、先端医療とはすばらしいもので、その技術を駆使する名医にかかればきっと健康になれると思い込んでいる。けれども、それは大変な思い違いである。医療の当事者である医者、彼らこそが人々の健康をおびやかしている最も危険な存在なのだ。

第1章 医者が患者を診察するとき

健康診断は儀式である | いいかげんな機器 | レントゲンによる被曝の儀式 | 医療検査は神のお告げ | 数字に振り回される医者 | 教材としての患者たち | 病気は医者が作り出す | 医者は過激な治療が好き | 健康診断にまつわる幻想 | 医者の基準、患者の基準 | とにかく医者に質問を | 医者からわが身を守るには

第2章 医者が薬を処方するとき

抗生物質のウソ | 抗生物質が細菌を鍛える | 医者と薬の危険な関係 | 副作用で死んだ人々 | ステロイドの苦しみ | DES訴訟事件 | ピルは病気を呼び寄せる | 医者は降圧剤を飲むか? | 新薬の怪しいカラクリ | 薬漬けにされる子供たち | 医者と患者と製薬会社 | 医者が薬にこだわるわけ | 「毒性のない薬は薬ではない」 | 薬の作用、副作用 | 薬と仲よくつきあう前に | 薬害からわが子を守るために | 医者の倫理、世間の常識

第3章 医者がメスを握るとき

意味のない手術 | 出産に医者がかかわる理由 | 出産は「9時から 5時まで」? | 「医学の進歩」という幻想 | 医者の都合と手術 | 儀式としての手術 | 手術からわが身を守るには

第4章 病院にいると病気になる

子供はなぜ病院が嫌いか | 病原菌だらけの病院 | 清潔という落とし穴 | 院内感染を生み出すもの | 取り違えられる患者たち | 栄養失調の患者たち | 病院にいると病気になる | 患者の権利はどうなっている | 病院のほんとうの姿 | 病院からわが身を守るために | 大学病院をめぐる迷信 | わが子を入院させたとき | 患者と付き添いの絆

第5章 医者が家庭にかかわるとき

家庭に攻撃をしかけるもの | 出産に介入する産科医 | 母乳とミルクと小児科医 | 小児科式二重思考 | 育児ノイローゼになる母親たち | 保育園と早すぎる独立 | 学校と子供と精神科医 | われわれが失ってきたもの | 医者から家庭を守るには | かげがえのない家族

第6章 死のための医学

医者が仕事をしないと病人が減る | 現代医学は生命に関心がない | 死を奨励する医者たち | 老いは病ではない | 慈悲による殺人 | クオリティー・オブ・ライフとは

第7章 医者というものの正体

あきれた聖職者たち | いんちきな医学研究 | 自分を治せない医者たち | 恐るべき医学部教育 | 悲しき医学生 | なぜ医者は不正を行なうのか | 医者がかかえる 2つの病理 | 「医者は失敗を棺桶のなかに葬る」 | 「患者に何がわかるというのか」 | 自分の体は自分で守る

第8章 予防医学が予防しているもの

病院の倒産を予防する医学 | 予防接種に警戒せよ | 集団接種はひとつのバクチ | 乳がんの集団検診の危険 | 医者は健康とは何かを考えない | 決まり文句は「手遅れ」 | 真の予防医学とは | いま望まれる医学

第9章 私の考える新しい医学

「生命」の核心に向きあう | 生命を祝福する医学 | 豊かな人生を送るために | すべては家族から始まる | まわりの人々とともに | 新しい医学の手応え

おわりに 新しい医者を求めて
訳者あとがき
解説 -- 新田国夫 (新田クリニック院長)

●医者が書いた現代医療の告発書

医者が患者をだますときという本のロバート・メンデルソン医師はもともと現代医学というカルト宗教にどっぷり浸かり、その悪の道で出世してきた医者であったが、のちに自分のやってきた医療行為の9割以上のほとんどは悪化させたり、患者を苦しめて殺しているだけの有害な治療によって稼ぎ出すビジネスであることに気づく。 医学研究や臨床も根本からウソ八百のインチキであることに気づき、産業犯罪による殺人に手をそめ続けた良心的呵責から現代医学を告発した警告書が本書である。
ロバート・メンデルソン医師は現代医学は死を招く宗教であり、現代医学の治療にはまったく治癒効果など無いこと、病院に行けば行くほど、病気は悪化していくこと、医者は危険な死に神であると警告する。
これらは医学部の教授にまで上り詰めたロバート・メンデルソン医師にとっては、究極の自己否定である。
人は自分がやってきたことだけは否定できず、ズルズルと自分がやってきた医療行為の部分だけは肯定し続けている者が多い。これは多くの人が持っている弱さである。
自分の人生でやってきたことをまっこうから自己否定して告発したことは大いに称賛に値する。

●過去の殺人事件ををわびたロバート・メンデルソン医師

この本に書かれていることは、懺悔の告白書であるから、あまりボカして遠慮しながらは書いていないが、それでも当時の社会情勢や出版にまつわるさまざまな制約があることを考えると、すべてをホンネや言いたい事実をストレートにありのままに全部書けていないことも考慮しながら、何を言わんとしているのかを考えて読まなければならない。
ロバート・メンデルソン医師自身も相当多くの患者を殺害し、傷害を負わせてきたはずだが、そのことについては少ししか書かれていない。

●すべてのホンネは本では書けない

このような本は通常は報復を恐れて、出してくれる出版社がなかなか見つからないものである。
そのためにたとえ、著者に覚悟が出来ていて、最終的に出版にこぎ着けることが出来ても、訂正や削除を迫られ、著者が言いたいことをすべて告発することは、ほとんど不可能である。
もともと原稿に書かれていたことがすべてそのまんま出版できた可能性は低い、妥協によって削除されていることも多いと思われる。
出版で書けることは限られているのである。当時は当サイトのように露骨にストレートに真実を書くことはきわめて困難なことであったが、
「現代医学のほとんどが有害な治療である」
「死者の大半は現代医学によって悪化させられ、殺されている」
「現代医学の医学理論はほとんどが金儲けのために採用したデタラメ」
「医者が働かなくなるとほとんどの人の健康状態が改善する」
「医者がストライキをして仕事をしなくなったら死亡率が半減した」
「医者こそが人間の中で最も知能が低く狂った滑稽な生物である」
これらの当サイトの主張とロバート・メンデルソン医師のホンネは当サイトと同様であったと思われる。

●ロバート・メンデルソン医師は大半のカラクリには気づいていた可能性がたかい

具体的に殺害人数や割合などは書いていないが実態は国民総死亡者の大半は現代医学というカルト宗教の医療犯罪が悪化させて殺していることや、最期に治療と称したビジネスがトドメを刺していることを認識していたと思われる。
このようなことはひとつ気づくと連鎖的にドミノ倒しに他のことも気づく。
おそらくガン産業の闇や抗ガン剤と称したガン治療薬、放射線などがわざと発ガンさせて稼ぎ出す悪魔の陰謀であることにも既に気づいていた可能性がたかい。
ガン治療のうち、手術に関してはそのほとんどが利益目的のために行われている悪徳ビジネスであることは書かれている。
医者に近寄ると命が危なくなる言うことだ。医者が真顔で警告するのだから、その深刻さがわかるはずだ。
なぜなら医者というのは、死に神を崇拝するカルト宗教であり、危険な殺人狂育を施された人間の中ではもっとも危険な存在だからである。

●本書の証拠能力

本書は証拠能力としてはきわめて高い。なぜなら現代医学の現場でドップリ浸かって大学教授にまでなった人間が命の危険を冒してまで、ウソや捏造で自分がやってきた人生の功績を全面否定するメリットなどまったくないからである。
さらに出版された時期も重要である。1979年と言うことはその時期にはこのサイトと同様の認識をしている人が潜在的にはけっこういたということだ。それを経済至上主義社会の情報産業は取りあげることは出来ないだけなのである。

●悲劇は有害な学校狂育からはじまる

ロバート・メンデルソン医師は、この狂った現代医学を生み出している学校狂育の本質についても述べている。
「そもそも学校とは、学問によって知識を一般に解放するためにあるのではなく、管理しやすい社会性のある人間を生み出す制度なのだ。」と。
端的に言えば、殺す獲物に殺すロボットを作るための家畜ロボット工場であると言うことだ。
しかし、その本音が見抜かれたら、獲物が罠にかからなくなるから、それを子供のためという美名に置き換えているに過ぎない。
つまり、理科にしろ、社会にしろ、その本当の目的は理科を教えることとは無関係で、ロボット化の口実として、理科という教科を利用しているだけなのである。
ロバート・メンデルソン医師は晩年、自分の人生がそんなロボット工場のベルトコンベアに乗せられてきた虚構の人生であったことに気づかれたのだろう。
はやく気づいていれば人生を棒に振らずに済んだのだ。
現代医学の本質に気づいてみれば連鎖的に、その産みの親である現代狂育の本質にもすぐに気づけるはずである。そのすべては子供のため、患者のためという美名に隠れて、無知蒙昧な獲物を都合の良いカネヅル奴隷にしているのである。

●人間をもっともわかっていないのが医者である

ロバート・メンデルソン医師は、病気とは何かがまったくわかっていないもっともたるものが現代医学の医者であると言う。わかっていない人間であるからこそ、現代医学の現場にいつまでも居るのだ。
これらの警告は自分の人生のほとんどを否定する究極の自己否定であるが、ここまで医者が気づいて発表したということは画期的なことである。
通常は気づいたとしても発表することはいろんな意味で困難である。ロバート・メンデルソン医師にとっては、このような告発書を出さなければとうてい自分のやってきた悪業を清算できないと思われたのかもしれない。
当サイトで書いていることを既に30年近く前には出版で同じことを告発していた医者がいたこと、また、その告発書が全米でベストセラーになっていることからすれば当サイトで書いている名前は明かせない良心的医者の証言の数々が真実であることに気づかれるはずである。
たとえそれに気づいていたとしても発表することや発信することはきわめて難しいのである。ましてやインターネットのなかった時代はなおさらである。
このようなことは気がついた人々の間では認識されていることであり、経済至上主義社会の中で、わかっている人がいても、そのようなことを発表出来るメディアがなかっただけである。

●ロバート・メンデルソン医師は暗殺された可能性がたかい

多くの医者が躊躇する理由のひとつは暗殺や嫌がらせである。
この本の著者であるロバート・メンデルソン医師も最期は毒殺のような症状で不審な死を遂げており、病死ではなく、真実が広がることを恐れた医療業界によって暗殺された可能性があると噂されている。
告発者への暗殺や妨害を繰り返し、社会に真実が広がるという火種を消すことによって、この壮大な残酷ペテンビジネスは、獲物から吸い上げた莫大な利益によって情報産業を支配し、あたかも崇高な天使の集団であるかのように演出され、獲物が阿鼻叫喚地獄へと吸い込まれていく悲劇が続いてきたわけである。今も民放やNHKの正体は彼らの檻へと追い込むめのワナが仕掛けられているのである。彼らは莫大な利益をたたき出す医療産業を持ち上げ、演出することによって、その巨額の利益のおこぼれで生活しているのだ。
このようなことは現代も続いている恐るべき医療産業、狂った現代文明の真実である。
読者がこれらの事実にまで踏み込んで、この恐るべき社会の真相に気づかれることを願ってやまない。

医者が患者をだますとき ロバート・メンデルソン 弓場隆 訳 草思社

健康とは何かをいちばんわかっていないのが医者だ。現場の医師が現代医学を厳しく批判して全米ベストセラーとなったのが本書。診察から各種の検査、薬の処方、手術、入院、医者の習性から医学教育にいたるまで、患者の知らない、知らされていない問題点が痛烈なユーモアをこめて明かされる。
現在の医療の九割がそもそも不要だ。
健康診断を受けると具合が悪くなる。病気の基準は医者が発明している。医者が仕事をしないと病人が減る。病院に行くと病気になる……などなど、患者の立場に立った貴重な指摘が満載の一冊。

はじめに

●私は告白する

私は現代医学を信じない。私は現代医学に異をとなえる異端者である。私がこの本を書いたのは、世の人々に現代医学の呪縛から解き放たれてほしいと思うからである。
とはいえ、私も初めから現代医学を信じていなかったわけではない。それどころか、かつては熱烈な信者だった。
医学生だったころ、DES(ジエチルスチルベストロール)という合成女性ホルモン剤の研究がさかんに行われていた。現代医学を信じていた私は、この薬になんの疑いも抱かなった。ところが二十年後、妊娠中にこの薬を投与された女性が産んだ子供たちに、膣がんや生殖器の異常が多発したのである。これは当時の私は、夢にも思わなかったことだった。
研修医だったころ、未熟児に対する酸素療法が最新の医療設備を誇る大病院で行われていた。
しかし、この治療を受けた未熟児の約九割に弱視や失明などの重度の視力障害(未熟児網膜症)が起こつていた。そのことは知っていたが、治療法に原因があることを見抜く努力を怠っていた。一方、医療水準が劣ると言われていた近くの病院では、この病気の発症率は一割を下回っていた。発症率になぜこれほどの差があるのか教授たちに聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
「あの程度の水準の病院では正しい診断法がわかっていないから、症例を見落としてしまうのだ」
私はその言葉を信じた。
未熟児網膜症が高濃度酸素の投与で引き起こされることがわかったのは、それから一、二年後のことだった。経済的に豊かな病院は、最新式の高価なプラスチック製保育器を置いていたから、酸素は漏れずに器内に充満して未熟児を失明させてしまった。だが、「あの程度の水準の病院」で使われていたのは旧式の保育器だった。すきまだらけのブタがついた浴槽のようなしろもので、酸素はかなり漏れていたが、これが結果的に未熟児を失明から救っていたのである。
こんなことがあっても、私は現代医学を信じつづけた。
その後、私はある研究グループに加わって科学論文を作成した。テーマは、未熟児の呼吸器病にテラマイシンという抗生物質を使うことについてだった。論文のなかで私たちは「この薬には副作用がない」と主張した。当然だろう。副作用が現れる前に論文を書いてしまえば、どんな薬でも「副作用がない」と言い切ることができる。
実を言うと、その後の研究で、テラマイシンをはじめすべての抗生物質は、未熟児の呼吸器感染症にはあまり効果がないこと、そればかりかテラマイシンを含むテトラサイクリン系抗生物質によって数千人の子供たちの歯が黄緑色に変色し、骨にテトラサイクリンの沈着物ができてしまうことが確認されている。
それでも、私は現代医学を信じつづけた。
私は扁桃腺、胸腺、リンパセツの治療に放射線療法が効果があると信じていた。この治療法について、教授たちは「放射線の照射が危険なのは言うまでもないが、治療に使う程度の線量ならまったく無害だ」と断言するので、私はその言葉を信じたのである。ところが、「まったく無害」な線量でも十年から二十年後には甲状腺腫を引き起こしうることがその後の研究で判明した。
現代医学がまいてきた無数の不幸の種を刈り取る時期が到来した。私がようやくそれに気づいたとき、かつて自分が放射線で治療した患者たちの顔が思い浮かんだ。あの人たちの何人かが首にしこりを患って、いつか再び私のもとに戻って来るのではないか。その思いが私をさいなんだ。
なぜ戻って来るのか。あなたたちの苦しみの原因を作ったのは、この私なのだ……。
私はもう現代医学を信じない。

序章

●現代医学は宗教である

ほとんどの人たちは、先端医療とはすばらしいもので、その技術を駆使する名医にかかればきっと健康になれると思い込んでいる。けれども、それは大変な思い違いである。医療の当事者である医者、彼らこそが人々の健康をおびやかしている最も危険な存在なのだ。
現代医学の治療は効果がないことが多い。それどころか、当の病気よりも治療の方がはるかに危険だということがよくある。本当は病気ではない患者にも、医者は十分に考えもせず危険な治療を行うから、その危険性はいよいよ高くなる。医者、病院、薬、医療機器という、現代医学を構成するこれらの九割がこの世から消えてなくなれば、現代人の体調はたちどころによくなるはずだ。それは私の確信である。
本来なら重症患者にしか行わない特殊な治療が、軽い病気に対してもあたりまえのように行われている。現代医学は一日二十四時間年がら年中、濃厚で過剰な診療に明け暮れて、しかもそれを誇りにまでしているのだ。一例をあげよう。『クリーブランド病院のすばらしい医療現場』と題する機関誌には、世界でも有数とされるこの心臓病治療センターの過去一年間の業績が誇らしげに掲載されている。

・臨床検査の総数 1300000回
・心電図検査 73320回
・CT検査 77700回
・レントゲン検査 210378回
・かいきょう手術 2980例
・手術の総数 24368例

いずれの処置も健康の維持または改善が可能かどうかという裏付けがないものばかりだ。この記事はいっそ「医療興行記録」と呼んだ方がふさわしいしろもので、高額な処置であることは誇っていても、そもそもこの「業績」によって救われた患者がいるのかという点については何も触れていない。
なぜか。それは病院が「医療工場」になってしまっており、しかもそこでは健康など生み出されていないからなのだ。
この工場では、患者は健康状態を改善しに来た人間とは見なされない。患者は医療工場の経営状態を改善するための材料と見なされるのだ。医療工場の現状をつぶさに見ればそれは明らかである。
妊婦は病院を避けた方がいい。病人として取り扱われるだけだ。医者にとって妊娠・出産は、九カ月から十ヵ月におよぶ「病気」であって、妊婦とは患者でしかない。点滴装置と分娩監視装置の装着、各種薬物の投与ばかりか、必要もないえいん切開と称する治療を押し付けられ、あげくのはてに医療工場の極め付きの商品が待ちかまえている。帝王切開である。
風邪をひいても医者に行かないほうがいい。医者はたいてい抗生物質を投与するが、抗生物質は風邪やインフルエンザにはあまり効かず、それどころか薬が原因で風邪をこじらせてしまい、体調をさらにくずすことがある。
落ち着きのない子供が教師をわずらわせるからといって、医者に連れて行くともっと大変なことになる。薬の過剰投与が重なって、あげくに我が子を薬物依存症にされてしまう恐れさえあるのだ。
新生児が母乳をまる一日飲まず、育児書通りに体重が増えないからといって、医者の言うままにする必要などない。医者は母乳の自然な分泌を抑制する働き(乳汁分泌抑制作用)のある薬を母親に飲ませるかもしれない。母乳が出にくい体質に変えられてしまった母親は、空腹の赤ん坊をミルクで育てるように指示される。これは危険なことである。
健康診断は意味のない行事である。受付で不作法に扱われ、医者に近寄って緊張すれば、患者の血圧も平常ではいられない。結局、血圧を下げるために降圧剤を処方され、しかもそれを大量に買わされて帰るはめになる。こうして性生活にピリオドを打つ人が増えていく。インポテンツは心理的な原因よりもむしろこうした降圧剤などの薬の副作用によるものが多いのだ。
年をとり、人生の最期を病院で迎えるのは不幸なことである。病院に行けば、医者はまずこう言う。
一日五〇〇ドルも入院費を払えば、最新の医療機器が完備した病室で、医療スタッフがあなたの最期の言葉を聞いてくれるから安心しなさい」
だが、医療スタッフというのは、つまるところ家族に代わって高齢者の最期を看取る賃金労働者にほかならない。誰でも自分の死に際に赤の他人に言い残したいことなどあるはずがない。もし「最期の言葉」があるとすれば、心電図モニターが発する信号音くらいのものだろう。
人問にとって家族とは何か。家族とはかけがえのない存在である。なぜその家族を引き離そうとするのか。だが、医療工場にとっても家族はかけがえのない存在だ。入院費を払ってくれるのは家族だからである。
「お医者さんは怖いことをするからいやだ」
子供はそう言って医者を恐れる。しかし、これは正常な反応だ。子供の曇りのない感性は本能で危険を察知して、医者が怖いことをする存在であることを見抜いているのだ。
では、大人はどうか。恐怖心はそう簡単に消えるものではないから、実は大人も医者が怖いのだ。
ただ、大人はそれを他人に対してはもちろん、自分自身でも認めようとはしない。そこで、医者そのものではなく、医者に行かなければならないと感じさせる自分の体の変調を恐れるようになる。
人は怖いことがあると、避ける、無視する、逃げる、たいしたことではないと無理に思い込もうとする。その結果、誰か適当な人を見つけて心配してもらおうとする。こうして、結局は医者が主導権を握ることになる。患者が医者にそうさせてしまうのだ。
患者は医者の前でだいたいこんな意味のことを言う。
「先生、私の体はどうなんでしょう?私はもう自分の健康を管理できません。私の健康管理は先生におまかせします。先生が必要と思うことをしてください」
そこで、医者は「必要と思うこと」をするのである。
薬の副作用を説明しないことを指摘されると、医者はこんな言い逃れをする。
「もし正直に説明すれば、医者と患者の関係が損なわれてしまう」
これはどういう意味か。それは、医者と患者の関係は、知識ではなく信頼に基づいているということである。患者が「私は医者が正しいことを知っている」という言い方をせずに、「私は医者を信じている」という言い方をするのはそのあらわれなのである。
医者がそれに気づいていないなどと思ってはいけない。それどころか、医者はそのあたりを十分に計算しているのだ。患者の信頼なくして医者は何もできない。もし患者の信頼を裏切ろうものなら、ある事実が明るみに出てしまう。それは、医療のうち少なくとも九割は不必要であり、その不必要な医療には人を死に至らしめる危険性すらあるという事実である。
現代医学は患者の信頼がなければ存在しつづけることができない。なぜなら、現代医学は人を癒す医術や科学ではなく、一種の宗教だからである。
宗教とは、人間の心の世界あるいは日常生活における不可解で神秘的な現象に組織立って取り組むことと定義できる。この定義に従えば、「現代医学教」は生と死、それに肉体に生じるあらゆる生理的変化という、最も不可解で神秘的な現象を扱っているということになる。
イギリスの人類学者ジェームズ・フレーザーは『金枝篇』のなかで、宗教を「自然のあり方と人間の生き方を方向づけて管理することができると信じられている、人間を超越した力にすがろうとする営み」と定義した。
この定義に従うなら、現代人は人間の生き方を方向づけて管理する力にすがろうとして、現代医学教に年間数千億ドルにもおよぶ巨額の「お布施」を献上していることになる。医療費と呼ばれるこの莫大なお布施は、本当は何か別の目的に使われる性質のものではないだろうか。
いずれの宗教も、視・聴・嗅・味・触という人間の五感を超越したものが存在すると教えている。
現代医学教の本質に迫るには、この教えに従って「それはなぜか」という質問を医者に投げかけてみることだ。
「なぜ、この薬を飲まなければならないのですか?」
「なぜ、この手術をするのですか?」
「なぜ、この治療が必要なのですか?」
こうした質問を医者に繰り返していると、ついには信仰に亀裂が入り、医者と患者の関係が損なわれる事態になりかねない。そこで、医者は専門知識をたてに取ってこう言う。
「患者は医者を信頼していればいいのです」
ともかく、「それはなぜか」という質問をしてみることだ。現代医学の呪縛から抜け出すためのこれが第一の方法である。そして第二は、この質問に対して「医者を信頼していればそれでよい」という返事が返ってきたときの対処法だ。体調が許すなら一刻も早く医者から逃げ出すこと、これに尽きる。なぜなら、医者がこのせりふを吐くときこそ、患者に十分な説明もせずに危険な治療を行おうとする瞬間だからである。
ただ、医者から逃げおおせる人はほとんどいない。たいていの人が医者に屈服する。人は医者がまとう呪術師の仮面とその奥に潜む未知なる雰囲気に恐れおののき、自分の体にいま起こっていること、これから起こりうることに底知れぬ不安を抱かされる。そして、ついには医者の巧みな説明に畏敬の念を込めてあえなく同意するのである。
だが、医者と称する呪術師の思うがままに操られてはいけない。現代医学の呪縛から自らを解放することは可能であり、しかも、その方が身のためなのだ。診察室や診療所、病院に準備のないまま近づくことほど危険なことはない。準備と言っても、生命保険に入れというのではない。医者に出会って生還を果たすために必要な知識や技術、駆け引きを身につけうということだ。
まず、医者を知ることである。現代医学が宗教であることがわかれば、より効果的に自分を守ることができる。もちろん、現代医学は自らを宗教とは絶対に呼ばない。病院という建物にしても、宗教に捧げるためのものではなく、人を癒す医術または科学のためのものであるかのように常に偽装している。
現代医学教は、患者の信仰がなければ存在しつづけられない。宗教というのはすべてそうだが、現代医学教の場合は信仰に依存している度合いがきわめて高く、人々がたった一日でも信仰を忘れてしまうと、医療制度全体が崩壊してしまうほどである。それは次の三つの疑問について考えてみればすぐに理解できる。

・ほかの状況であれば当然、疑いの目を向けられるはずの行為でも、それが医療行為であるというだけで公然とまかり通っている。これは一体なぜか?
・手術についてほとんど理解していないのに、患者は麻酔で眠らされ、自分の体を刃物で切り裂かれることに同意している。これは一体なぜか?
・人々は薬の成分である化学物質にどういう作用があるかほとんど知らないのに、毎年総量何千トンにもおよぶ薬が消費されている。これは一体なぜか?
なぜか?それは、人々が現代医学教を信仰しているからである。
現代医学は、治療法の正当性を客観的に明らかにする必要に迫られることがない。本書の意図はまさしくそこにある。現代医学が身をまかせるに値しない宗教であり、人はこのような宗教を信じてはいけないということを私は根拠を示してはっきりと立証しよう。
医者が一般の人々に隠している数々の事実に興味がある方や、かかりつけの医者が危険かどうかを判別する方法を知りたい方、自分の身を守る方法を学びたい方はこのまま本書を読み進めていただきたい。貴重な知識が得られるだろう。

第2章 医者が患者を診察するとき

●健康診断は儀式である

病気の自覚症状がなければ、わざわざ健康診断を受けることはない。また、自覚症状があったとしても健康診断は避けた方がいい。それは、診察室に入った瞬間から処方箋や専門医への紹介状をもらって診察室をあとにするまで、そのすべてが、決まり切った手順でこなされる「儀式」にすぎないからである。
医者に身をまかせて言われる通りにしていれば、それなりにいいことがある。検査は受ければ受けるほど、しかもその検査が徹底していればしているほど体はよくなる。ほとんどの人はそう信じ込んでいる。
だが、それは思い違いだ。医者の診察というものは、信頼するのではなく疑ってかかるべきである。
診察にはなんらかの危険が伴い、一見なんでもなさそうなことでも、体にはなにかしらの害がある。
これは知っておいていただきたい。
診察に使われる道具は、それ自体が危険を秘めている。例えば聴診器は、医者が聖職者としてそれらしくふるまうための小道具にほかならないものだが、人の肌に直接触れる聴診器によって感染症にかかることもあるのだ。
重い病気であれば、聴診器など使わなくても視診で判断がつく。先天的に心臓を病む新生児の場合、肌は青みがかっているのでひと目でそれとわかるし、また、これ以外の心臓病の診察では、何カ所か脈をとればいい。例えば大動脈縮窄症という病気ならば、鼠践部(太腿の付け根)にある大腿動脈の脈拍数が減っているので、診断に聴診器を使わなくても触診で十分だ。
聴診器で聴けるものは、患者の胸に耳を当てても聴こえる。医者が聴診器を使うのは、医者にとってその方が便利で上品に見えるというただそれだけの理由である。だから、集音部を患者の胸に当てるだけで、挿耳部(イヤホン)を耳に入れず、首に巻いたままの医者さえ本当にいたのだ。
以前は、それは少しひどすぎるのではないかと私も思っていたが、最近はそうでもなくなった。というのも、患者の方も聴診器にべつに効果など期待しておらず、儀式のひとつとして求めているようだからである。患者のこんな心のうちを知っているのかどうかは別として、医者は臨床の場でそれを敏感に感じ取っているのだろう。
それだけではない。聴診器による診察は、結果として患者に害を及ぼすことがある。とくに危ないのが、母親が子供を定期健康診断に連れて来たときだ。
子供の場合、聴診器による診察で心雑音が確認されることがよくある。これは心臓の拍動に雑音が混じる現象で、子供では三人に一人の割合で見られるものだ。
医者はそれを発見した時点で母親に告げるかどうかを決めなければならない。以前なら医者にしかわからないように黙ってカルテに印をしておけばよかったのだが、最近では患者に情報を開示する動きが出てきたため、そうもいかなくなった。医者が患者の知る権利を尊重しているからということもあるが、それよりはむしろ、あとで別の医者がこの症状を見つけて自分より先に親に報告しようものなら、初診医としての立場が危うくなるからである。
そこで、医者は母親に子供の心雑音のことを告げることになる。その際、「それはなんでもない現象だから心配はありませんよ」と言って親を安心させようとしてもむだである。母親も子供も「たいへんなことになった」と動転してしまうからだ。
このときの驚きと不安は、その親子に一生ついてまわる恐れがある。病気を徹底的に究明しようと、母親は心臓学に詳しい小児科医を探しまわり、子供に心電図検査と胸部レントゲン検査を何度も受けさせ、はては心臓カテーテル検査まで頼み込む。これは細長いプラスチックの管を血管に差し込み、心臓のなかまで通して心血管系の血圧や血液の成分を測定する心臓病の検査のことである。
いくつかの研究によると、子供の心雑音を指摘された家庭では、その後、子供の運動を制限してスポーツを禁止させ、栄養摂取に気をつけて以前よりたくさん食べさせるようになるという。だが、この生活習慣こそが最悪の事態をもたらしてしまう。運動不足と食べ過ぎで子供は太りだし、本当に心臓に異常を抱えてしまうだろう。

●いいかげんな機器

心電図を記録する心電計は、聴診器よりもはるかに高級でいかにも先進医療であることを感じさせる装置だが、これも電気じかけの高価なおもちゃとでも呼ぶのがせいぜいのしろものである。
ある調査によると、同じ検査結果を判読させたのに、専門家によってその結論が二〇パーセントも食い違ったという報告がされている。しかも、同一の検査結果をもう一度判読させると、誤差はさらに二〇パーセントも拡大していた。
心電図の結果は、検査時の活動状況や時間帯など、心臓以外の多くの要因で変わってくるものだ。
心筋梗塞の患者の心電図検査について報告する研究では、心臓に異常ありと認める正確な診断が得られたのはわずか二五パーセントだった。全体の五〇パーセントは、正常なのか異常なのかはっきりしないあいまいな結果しか得られず、残りの二五パ…セントは「まったく異常なし」という誤った結果が出されたという。健常者の心電図記録の過半数を「重症」と誤読したという報告すらある。
それでは、医者をはじめとする医療従事者は、心臓病の検査法として心電図検査に依存しなくなっているかというと、現実はまったく逆で、ますますこれに頼る一方である。
私はこんな想像をする。心臓発作を起こした患者が冠動脈疾患集中治療室で横になっている。いまこの患者はきわめて安静で落ち着いている。そこに注射器を持った看護婦が近づいてくる。それを見た患者は動転する。看護婦は言う。
「心電図が異常を示していますので、応急処置を行います」
この看護婦は、心電図にかなりの誤差が生じることや、心電計の漏電によって心電図が異常を示すことがあることを指摘する研究報告がいくつも出されていることを知らない。
患者は必死になって訴える。
「看護婦さん、お願いだ。私は正常なんだ。脈をとってみればわかる」
しかし、看護婦はこう答える。
「脈をとっても意味はありません。心電図の方が絶対に正確です」
そう言って看護婦は患者の腕に注射をする……。
これは空想ではない。現実に起こりうることなのである。冠動脈疾患集中治療室に設置されている心電計は、電気ショックが必要だと判定すると、患者の鼓動を自動的に調整する仕組みになっている。
だが、調整の必要などなかった例は実際に数多くあるのだ。
脳波計を使って行われる脳波検査は、ある種のてんかんとけいれんの診断、それに脳腫瘍の診断と位置測定には効果が認められている。だが、この脳波検査にも限界があることを知っている人は多くない。
こんな報告がある。てんかんと診断された患者の約二〇パーセントが脳波図にまったく異常を示さず、逆に健常者の一五~二〇パーセントが異常を示したというのだ。脳の活動状態を測定する手段として、脳波検査が信頼できるかどうかを調べるため、ある研究者がマネキンの頭にゼリーを詰めて脳波計を接続してみた。すると「生きている」という結果が出たという。
誤差が生じることが明らかであるにもかかわらず、それでも脳波検査は子供に起こるさまざまな障害を調べる主要な臨床検査のひとつと考えられている。器質性の学習障害(LD)や軽度の脳損傷、注意欠陥・多動性障害(ADHD)という、いずれもあいまいな定義しかされていない活動過剰、機能充進、注意力欠損症などの二〇~三〇種類の症状について使われているのである。
論文を書く必要に迫られた小児神経科の医者たちは、こぞって脳波検査の重要性を指摘するが、脳波図の数値と子供の行動との関係については、見解は一致していない。科学的な根拠がこれほど欠けているというのに、脳波計の普及率は急激に伸びており、脳波検査の数は増加傾向にあってとどまるところを知らない。
意識的かどうか、最近では、教育者、医者、それに親までが一緒になって子供の問題行動を医学の問題として取り扱おうとしている。それはたいていこんなパターンをたどる。
まず、子供は教師から面談の通知をもらって親に見せる。面談に向かった親は教師から、「お子さんは器質性の脳障害の問題、軽度の脳損傷、注意欠陥・多動性障害かもしれません」と言われる。親は急いで医者のもとに子供を連れて行き、脳波検査を受けさせる。医者は正確さに疑問のある脳波検査に基づいて診断をくだし、教師が最も管理しやすい鋳型にはめるため、子供に「多動児」や「学習障害児(」D児)」の烙印を押す。その結果、その子は薬漬けにされてしまう。

●レントゲンによる被曝の儀式

医者があつかうさまざまな医療機器のなかでも、いちばん普及していて、しかも危険度においてこれに勝るものがないものといえば、レントゲン装置である。だが、危険とは知りつつも、レントゲンがもつ宗教的な意義は大きい。医者にとってレントゲン装置と縁を切ることほどつらい別れはないだろう。
何しろ自分では見られない体のなかを透視できるのだ。そのレントゲン装置を自在にあやつる医者に、患者が畏怖の念を抱くのも無理はない。医者は患者のこの心理を見抜いている。それに陶酔した医者は、ニキビが発生するからくりから胎児の成長の神秘まで、ありとあらゆる検査にレントゲン装置を使いまくるのである。
小児白血病が胎児のときの医療被曝、つまりレントゲンと深い関連があることはすでに実証されていることだが、医者はそれには無頓着を決め込む。二、三十年前に頭部、首、胸の上部に放射線を浴びた人たちの間で、甲状腺機能低下症が何千、何万という単位で発症しているし、甲状腺がんは、歯科医のレントゲン検査一〇回で浴びる放射線量を下回る線量の被曝でも発症することがある。
すでに何人もの科学者がアメリカ議会でこう警告している。
「たとえ低線量の放射線でも、人体に照射すると遺伝子を損傷して、現世代だけでなくそれ以降の数世代にわたって大きな影響をおよぼす恐れがある。X線は糖尿病、心臓病、脳卒中、高血圧、白内障といった、いずれも加齢に伴う病気の原因になる」
こうした死亡と病気による苦痛は、避けることが十分にできたはずだと私は考えている。私が医学生だった一九五〇年代においても、すでに胸部レントゲン検査は実際の治療には意味がないと教わった。比較的最近の調査でもこれは変わらない。マンモグラフィー(乳房レントゲン撮影法)という乳がん検査の診断が正確さを欠くことは、実習を受けた医者も何も受けていない医者も同じである。
放射線技師による重症患者の胸部レントゲン写真の読影について、ある調査はこんな報告をしている。技師の二四パーセントの読影がほかの技師の読影と食い違い、そして、同じ写真を再度読影すると、技師の三一パーセントが以前とは異なる結論を出したというのだ。
別の研究では、肺に明らかな異常を示す胸部レントゲン写真を正常と誤読した者が三ニパーセントいたことが判明している。専門家の三〇パーセントが読影について見解が一致せず、二〇パーセントが一度目と二度目の読影で判定が違っていたことを報告する別の研究もある。ハーバード大学の研究は、放射線技師によって読影結果が一致しない割合は二〇パーセント以上だと報告している。
レントゲン検査はその危険性と不正確さがいくら指摘されても、多くの医者と歯医者の診察室で聖なる検査としていまだにあがめられている。毎年数十万人の女性が胸部レントゲン検査を受けるために順番待ちをしているのは皮肉な状況だ。マンモグラフィーが乳がんを発見する以上に乳がんを引き起こしているという科学的な証拠は、活字となっていくらでも出版されているというのに。
こうした「被曝の儀式」とでも呼ぶ診察行為は、現在でも至るところで行われている。年中行事となった定期健康診断や就職・入学の際の集団健康診断である。いろいろな人たちの話や手紙によって、私はこんな事実を知った。「あなたは健康そのものですが、念のために一応胸部レントゲン検査を受けておきなさい」と言ってくる医者はたくさんいるのだ。
ある人はヘルニァの手術を受けに病院に行って、胸部レントゲン写真を六枚も撮られた。この人は放射線技師同士の会話から、「自分を実験台にして照射線量を試していることは間違いない」と判断している。また、この人が歯医者に金属冠の交換で行ったときには、三〇枚もレントゲンを撮られたという。
「患者が要求するのだからやむをえない」とか「患者が期待しているから」という理由で医者はレントゲンの使用を正当化するが、患者がそれほどレントゲンを望むというのなら、医者は見かけも音も本物そっくりの装置を用意して撮影するふりをすればいいだろう。それが医者としての誠意というものだ。そうすれば、かなりの数の病気は防ぐことができるかもしれない。

●医療検査は神のお告げ

患者の利益より不利益になることが多いのが臨床検査である。臨床検査室のデータの不正確さは、もはやスキャンダルと呼ぶべきありさまである。かつてアメリカ疾病対策センター(CDC)は、全国の検査室で発生したミスに関する調査結果を発表した(一九七五年)。それによると、検査ミスが発生した割合は全体の四分の一以上もあり、その内容は次の通りだった。
・細菌検査一〇~四〇パーセント
・臨床生理検査三〇~五〇パーセント・血液型検査一二~一八パーセント・血液検査(ヘモグロビン・血清電解質)
二〇~一二〇パーセント
毎年、検査費用として巨額な予算が投じられているが、それで得たものとはいったいなんだったのだろう。その「投資効果」をいくつかあげてみよう。
数多くの検査室を調査した結果、疾病対策センターは次のことを突き止めた。鎌状赤血球性貧血を確認できない割合三一パーセント、伝染性単核症(白血球増加症)の誤診三三パーセント以上、正常な検体を白血病と誤診一〇~二〇パーセントで、異常と確実に「誤診」される割合は五~=一パーセントだった。
また、二〇〇人の患者のほぼ九九パーセントに相当する一九七人に、検査を繰り返しただけで「異常が完治した」という検査結果が出たという研究もある。私はこれを「傑作」と評価している。
ショックを受けるのはまだ早い。疾病対策センターはこの時点で全米の検査室の一割以下しか監視していなかったのだ。したがって、ここにあげた数字は最高水準の検査室の、しかも最高水準の研究の実態ということになる。残る九割以上については、国民自らがお金を払い、体を張って確かめなければなるまい。
国民が負担する費用はこれからもまだまだ増えていくだろう。なぜなら、医者はばかばかしいほど念入りに検査を行うことを美学としており、検査を受けなさいと患者に指示を出しまくるからである。
このように、検査結果というものは不正確きわまりないしろものである。検査は「占いの儀式」、検査結果は「神々のお告げ」とでも呼んだ方がいっそふさわしい。検査結果は現代医学教の占い担当官のご機嫌と神々の気まぐれによって大きく左右され、たとえ神々が気前よく奇跡を起こして結果を正確なものにしてくださっても、医者がそれを間違えて診断するという危険性がまだ残っている。
ある女性がこんな手紙を送ってきた。
「最近受けた健康診断で、便に血が混じっていることがわかりました。そして、医者にバリウムを飲まされてレントゲン検査を受けさせられただけでなく、ありとあらゆる検査を受けさせられました。
結果はすべて『異常なし』でした。ところが、その医者はまだ気が済まなかったようです。私はたくさんの検査でかなりの苦痛を味わいましたが、医者からさらに検査を受けるように言われました。
半年後、私の体はすっかり衰弱してしまいました。結局、医者の最終的な診断は『胃酸過多』でした」

●数字に振り回される医者

医者が数値と統計にとらわれないかぎり、臨床検査や医療機器それ自体はさほど危険なものではない。ところが医療の現場では、数値と統計は神々のお告げと解釈されて診断の際の絶対的な基準となる。体重計、体温計、目盛り付き哺乳瓶といった単純な器具はもとより、レントゲン、心電計、脳波計のようなハイテク医療機器まで、患者はもちろん専門家であるはずの医者もこれに惑わされすぎている。数値にばかり気をとられ、質的な面を重んじる実際的な判断力や勘は見失われてしまいがちである。
まず、体重計である。実は、小児科や産科で起こるトラブルのほとんどは、この体重計が原因なのだ。赤ん坊の体重を測るとき、体重が順調に増えていないと小児科医は大げさな態度で応じてくる。
体重という数値にこだわり、実質的な判断が医者にできていないからである。肝心なのは、赤ん坊の様子はどうか、行動面ではどうか、目はこちらを向いているか、体の動きはどうか、神経系は正常に機能しているか、である。
ところが、こうした観察は軽視され、医者は数値にばかり振り回されているのが実情である。母乳で育てられている赤ん坊の場合、医者が理想値と信じているほどには体重は増えていないことがよくある。そんなとき、医者はミルクを試してみるように母親に指示を与えるが、これは母親にも赤ん坊にも害でしかない。
赤ん坊だけでなく、妊婦も体重計を気にする必要はない。妊婦にとって正しい体重の増加というものはないからである。この場合も判断材料として適切なのは数値ではなく質である。妊婦は質のよい食べ物を食べていればそれでいいのであって、適正な分量になど神経質になることはない。量は自然に調節できるから、この点にだけ注意すれば、妊婦は体重計のことを考える必要はなくなる。
目盛り付き哺乳瓶というのも問題だ。医者が決まった量のミルクを飲ませるように言うものだから、母親は一定量のミルクを赤ん坊に無理にでも飲ませようとする。この哺乳瓶にはいくつもの害があり、母親がなだめたりすかしたりして強引に飲ませても、赤ん坊はたいてい吐いてしまう。その結果、母と子の問に感情のしこりを残してしまう。本当なら、愛情と楽しさを親子でともに味わうはずの食事の時間に、過度の不安と緊張という好ましくない感情が芽生えてしまうのである。さらに人工栄養児(主にミルクで育った赤ん坊)は肥満になりがちだということも指摘しておこう。
体温を計ることにもそれほど意味はない。母親が子供の病気で病院に電話をかけると、決まって医者は体温をたずねるものだが、この質問もさほど意味はない。高熱を伴っても、無害な病気がいくらでもあるのだ。
例えば、バラ疹(皮膚に多発する紅色の発疹)がそうである。乳幼児によく見られる病気で、四〇度近くの高熱を出すことがしばしばあるが、この熱は心配することはない。高熱は自然治癒の過程であり、ひと晩たてば症状はだいたい治まってくる。逆に、高熱を伴わない危険な病気がある。結核性髄膜炎は生命にかかわる病気だが、発熱が認められないばかりか、たいていの場合、平熱のままであることが多い。
医者が本当に聞くべきことは、子供の気分であり、行動に普段と違ったところはないかという、もっと内容のある問いかけである。体温にこだわるのは医者の権威づけのためで、無意味な「検温の儀式」を執り行っているのにすぎない。だから、親は「まだ計っていません」とか「体温計がちょっと見当たりませんでしたので」などとでも答えておけばいいのだ。ただし、医者はこんな答え方をする親を変人と見なしがちだから、母親には「適当な体温を伝えておけばよろしい」と私はアドバイスすることにしている。
数値絶対主義を捨ててしまえば、そのとき初めて母親は、医者とともに子供の病気に向かい合うことができるのである。

●教材としての患者たち

どんな健康診断にも言えることだが、患者は医者に利用される危険にいつもさらされている。数年前、私が外来病棟の所長に就任したときのことである。そこでは医者が母親に「お子さんにトイレット・トレーニングをしていますか」と必ずたずねていることに気がついた。
四歳までにトイレット・トレーニング(排泄のしつけ)を受けていない男の子をふるいにかけ、泌尿器の一連の検査を、よりによって膀胱鏡検査法まで含めて行っていたのである。膀胱鏡検査法は中高年の膀胱がん、前立腺がん、子宮がんなどの検診でよく用いられている検査で、膀胱鏡という内視鏡の一種を尿道から膀胱内に挿入し、膀胱内部の病変を調べるものだ。この苛酷な検査をまだ四歳の子供に行っていたのである。私はこの質問をすぐにやめさせた。
しばらくして泌尿器科部長から電話がかかってきた。部長は私の友人だったが、かんかんに怒っていて開口一番こう言い放った。
「君があの質問をやめさせて泌尿器の検査を廃止したことは間違っている。この検査でなければ、器質性異常を伴うような難しい症例は見つけられないじゃないか」
私はこう反論した。
「そんなおかしな理屈は通用しないだろう。どんなにまれな症例でも、膀胱鏡検査よりもっと安全な方法で確認できるはずだ」
そこで、彼は本音を言った。
「実は、君があの質問をやめさせたことで、私の専門医学実習生教育計画が台なしになりそうなんだ。
実習生が資格認定されるには、毎年決まった数の膀胱鏡検査をこなさなくてはならない。いまのノルマは年に約一五〇回だ。あの検査をやめさせられたために、実習生はノルマを達成できなくなって困っているんだ」
ノルマ達成のための検査は、どの専門領域でも同じである。心臓学の実習生なら、認定までに心臓カテーテル検査を年間最低一五〇回から二〇〇回、場合によっては五〇〇回も行わなければならない。
一人の実習生が一年間にこれだけの回数を消化するためには、街頭で行きかう人に声をかけ、「あなたには心臓カテーテル検査が必要です」と言って、キャッチセールスならぬ「キャッチ検査」をしなくてはなるまい。
研究医は研究対象を、講義を受け持つ医者は教材を、それぞれ求めている。患者はこうした医者を潜在的脅威と位置づけるのが正解である。私の意見では、患者に治療を行うのは臨床医であって、研究は研究医に、講義は教育担当者にそれぞれまかせるという分業体制にすべきである。二つ、三つと兼任する医者には相当な慎重さが求められるが、こんな医者に診てもらう患者も相当な慎重さが必要である。
健康診断のもうひとつの目的は患者の確保である。もし「儀式」としてこれを執り行わなければ、医者はテナント料を払えなくなって仕事が続けられなくなる。医者にとって患者を安定して確保する方法は健康診断をおいてほかにはないのだ。
『新約聖書』には「多数が召され、少数が選ばれた」と記されている。現代医学教はそれを推し進めてついに「全員が召され、大多数が選ばれる」ようにしてしまった。
かつて定期健康診断は、工場労働者や売春婦といった体を壊しやすい職業の人たちに限って勧められていた。いまではアメリカの国民全員が、最低でも年一回は定期的に健康診断を受けるように奨励されている。しかし、一九三〇年代からの約半世紀にわたる健康診断の歴史を振り返ると、これを忠実に受けてきた人がそうでない人より長生きだったか、あるいは健康だったかというと、それについて別に検証はされていない。
健康診断に伴う明らかな危険性を考えると、私自身は医者を避けてきた人の方が健康だったと見ている。

●病気は医者が作り出す

患者は医者まかせにしすぎである。病院に行くのも、自分で自分の体の調子がわからず、医者にそれを教えてもらいたいからである。人々は自己決定権というかけがえのない権利を自ら放棄しているのだ。医者が病気と言えば病気、健康と言えば健康、こんな旦ハ合にして、医者が正常値と異常値の境を決めていく。患者は医者が勝手に決めた基準に、やすやすと我が身をゆだねているのである。
医者の判断を信用してはいけない。そもそも、健康とは何かということをいちばんわかっていないのが医者なのである。医者が受けてきた教育は、健康を理解することではなく、病気を知ることなのだ。健康診断でも、実際には異常がないのに「異常あり」と判断をくだしてしまう傾向が医者にはある。それは、医者が仕事にしているのが、健康の発見ではなく病気の兆候の発見だからで、人体の生理には健康とそうでないものの両面があり、それが相補的にかかわりあっていることを、彼らはわかっていないからなのだ。
健康と病気は、医者の思惑と都合でいかようにも解釈することができる。サジかげんは医者しだいなのだ。この手を使えば、病人の数も医者の思うがままに操作することができる。
例えば、高血圧の診断をくだすとき、医者は、高いとはいえ正常値の範囲にあるものも含めて境界型高血圧としてひとくくりにしている。こうして、かなりの量の強い薬が高血圧の治療と称して使われることになる。
身長測定においては、低い方、高い方のそれぞれ一~五パーセントが「高身長」「低身長」だとあらかじめ決めておいてから、子供一〇〇人の身長を測り始める。該当した子供には、巨人症、小人症(とくに下垂体性小人症)の疑いをかけて、「異常、要精検」と診断する。
尿、心臓もこれと同様、あらかじめ正常値の範囲を狭く設定して診断をくだせば、尿検査、心電図検査で確実に何パーセントかの人たちに「異常、要精検」と診断することができる。
下剤の売り上げを伸ばしたければ、便秘を一日一回の排便がない状態だと定義すればいい。そうすれば国民の大多数が便秘か、あるいは「境界型便秘」と診断される。しかし、排便は週に一回でも二回でもいいと定義してしまうと、病人はほとんどいなくなってしまう。
医者は異常が認められなくても病気を作り出すことができる。一〇〇人の子供を検査して身長、体重、血圧、尿、心電図を測定すれば、統計上、「異常」と見なすことができる子供が出てくる。検査で得られる平均からはみ出した数値には、必ず何人かが引っかかる。いくつも検査を重ねれば、全員がなんらかの検査で異常となってしまうのだ。その結果、それこそ害をおよぼしかねない数々の検査をフルコースで受けさせられるはめに陥るのである。

●医者は過激な治療が好き

医者の私利私欲について、患者は警戒を怠ってはならない。医者というのは、人体の自然な生理的変化に治療という名目で介入して、その介入の結果として報酬を受け取って世間の評価を得ている。
患者を観察するだけで自然に治るとか、別の医者に行くように勧めていては、医者は見返りなど期待することはできない。だから、医者はなんらかの医療処置を施すのである。また、そうするように教育されているのである。
私はいまの医学界を生き抜いていく要領として、次のような指導を医学生にしている。
「試験に受かり、医学部を卒業して、さらにさまざまな試験に合格するには、選択肢のなかでいちばん濃厚で過剰だと思われるものを正解と考えるべきだ。例えば、鼻にニキビができた患者の処置について出題されたら、『しばらく様子を見る』という妥当な選択肢を選ぶと確実に減点されるので、さっさと消去しなくてはならない。『患者の頭部を切断して心肺装置に接続し、動脈をもと通りに結びつけ、一、○種類の抗生物質とステロイド剤を投与する』という過激な選択肢があれば、それを選びなさい」
私の教え子の多くが国家試験や専門試験などの各種の試験に合格したのは、この指導によるところが大きいのだろう。
健康診断を受ければ、医者はどんなにささいな異常でもたちまち見つけ出す。その異常が病気によるものかどうかは、その際関係はない。とにかく患者は、病気の疑いがある「重症予備軍」と診断され、「重症の前ぶれ症状」の予防措置として、徹底した早期治療を受けることを命じられる。
血糖値がほんの少しでも変動していれば、「糖尿病の前ぶれ症状」だという疑いをかけられて「糖尿病予備軍」と診断され、糖尿病治療剤をもらって帰るはめになる。近くをジェット機が飛んだために心電図が乱れても、「心臓病の前ぶれ症状」だと疑われて「狭心症予備軍」と診断される。家に帰って狭心症治療剤を飲んでいると、薬の副作用によっていつしか体調や精神に顕著な異常が現れはじめる。目のかすみ、錯乱、動揺、幻覚、麻痺、果ては、てんかんの発作や重度の精神障害を起こす恐れさえある。
コレステロール値が高いと診断されると、高脂血症治療剤が処方されることがある。この薬にはコレステロール値を低下させる作用があり、飲めば確かにコレステロール値は下がるが、同時に副作用も現れる。疲労、虚弱、頭痛、めまい、筋肉痛、脱毛、眠気、目のかすみ、震え、発汗、インポテンツ、性欲減退、貧血、消化性潰瘍、リウマチ性関節炎、紅斑性狼瘡(皮膚にウロコ状の赤い斑点ができる膠原病の一種)などなど。
いずれも医師向け添付文書に記されている副作用だが、医者はこれだけたくさんの副作用をいちいち読み上げて教えてはくれない。とくに教えてくれそうもないのが添付文書の太枠で囲んである部分だ。
「この薬の服用によるコレステロール値の低下が、冠動脈の狭窄による心臓病の死亡率にどのような影響を与えるのか、またなんの影響も与えないのかについてはまだ判明していません。科学的調査によってこの疑問に対する答えが出るまでにはまだ数年かかるでしょう」
こんな説明を聞いたあとで、この薬を飲む患者がはたしてこの世にいるだろうか。
病気の前ぶれを早々と見つけ、さっそく治療に取りかかるというケースの典型的なのが、血圧が少し高い人の場合である。血圧が上がったのは、診察室で白衣の医者を前にして緊張したためかもしれない。いわゆる「白衣高血圧」が原因で血圧が上がることはよくある。これは一過性の現象にすぎないのだが、医者はそんなことはお構いなく、必ずと言っていいほど降圧剤を処方する。
では、その降圧剤にはどのような効能があるかというと、ほとんどないのである。そのかわり副作用のほうは、頭痛、眠気、倦怠感、吐き気、インポテンツとまことに豊富である。
冠動脈疾患薬物調査班は、降圧剤について次のように警告している。
「命に別状はない程度の心筋梗塞、肺塞栓症のような副作用を数多く引き起こし、その服用は死亡率を下げるよりも、ひどい副作用をもたらす」

●健康診断にまつわる幻想

医者が健康診断の重要性を宣伝しはじめたのは、一九二九年からの世界大恐慌のころだった。理由は言うまでもなく不況対策である。歯医者も同じ理由で定期的な歯科検診の意義を触れて回り、人々を治療室に呼び込んだ。
先日、私のもとに歯科医師会からこんな通知が届いた。
「子供は三歳になれば歯科医、七歳になればしれつ矯正医のもとで健康診断を受けるべきである」
この健康診断で利益を得る子供はほとんどいないが、確実に害をこうむる子供となるとその数は計り知れない。歯科医が使うエキスプローラ(探針)は、各種の菌を虫歯から健康な歯へ伝染させることがあるし、またしれつ矯正なる謎めいた技術は、その効果のほどはまだ証明されていない。
幼いころ、あるいは若いときにしれつ矯正を受けたために歯茎の具合が悪くなったという人は数多くいるが、しれつ矯正を勧められてこれを受けなかった人の歯が、その後真っすぐに生えそろった例もあり、しかもそれはかなりの数にのぼっている。
要するに、歯科医が呼びかけている定期健康診断で、患者の利益になるようなことは何もないのだ。
利益を得るのは歯科医だけである。
私の経験では、医者とくに歯科医は、定期健康診断の推進にことのほか熱心である。歯科医のなかには過去半年間検診を受けていない患者は、救急患者として診察しないという者すらいる。
患者だましの最たるものは、患者に罪をなすりつけることである。医者や歯科医が救急患者を敬遠しがちなのは、このだましのテクニックが使えないからである。医者や歯科医は、治療と称して行っている儀式になんの有効性も認められないという事実は認めず、こう言って患者を責める。
「なぜもっと早く来なかったのですか。早く来ていれば、こんなことにはならなかったのに」
治療をするのに早すぎるということはない、と医者は言う。そして、たいていの人も早期発見・早期治療の重要性を信じて疑わない。だが、次のことはしっかりと認識しておかなければなるまい。
患者が病院に来る。医者にしてみれば、それはすなわち「なんらかの治療を求めてやって来た」ということなのである。診療室に入ってきた患者は、「治療してください」という意思表示をしているものと医者は決めてかかる。
つまり、鎮痛剤の投与から手術に至るまでの治療一式を希望していると見なされるのだ。
患者にとってさらに不幸なことに、医者には、数ある治療メニューのなかから、より濃厚でより過剰な方法を選びたがる傾向がある。なかには極端に走りすぎて、患者の病状など目に入らず、不要な治療を無理に行おうとする医者もいるくらいである。
医者のなかには、「放っておいても治る病気でも、患者が治してくれと言い張るから」と患者のせいにする者がいる。えてしてこんな医者は「患者が薬をほしがってしようがない」という言い訳をする。例えば、「風邪をすぐに治してほしい」と患者が抗生物質を要求する、「関節が少し痛い」と劇薬である消炎鎮痛剤を希望する、十代の若者が「ニキビや吹き出物を治したい」とホルモン剤をほしがる、というのである。
医者のこんな責任逃れは認められたものではない。患者が求めるのは、思いやりのある、真心のこもったケアや自然治癒を重んじた治療であり、薬に頼らない治療の情報提供である。だが、医者はこうしたことにまず配慮しない。

●医者の基準、患者の基準

自分の身を守るために患者が知っておかなければならないことは、医者と患者では価値基準が異なり、しかも医者の価値基準が絶対ではないということである。
患者にとって医者がたずねることは、ひと言ひと言が重大な病気を示唆するように聞こえてしまう。
だが、医者はそんな患者の心理など気にも留めていない。
扁桃腺肥大、膀ヘルニア、とくに問題のない心雑音などのほとんどは六歳までに消えてしまう症状である。私は担当医に、こうした症状の場合は母親に告げないように指導している。また、三歳児の母親にはトイレット・トレーニングについての質問は控えるようにも言っている。医者からトイレット・トレーニングが済んでいないことを指摘されると、母親は自分が何か悪いことをしてしまったように思い込んでしまうものだからだ。
医者の危険な診察から身を守るために、学んでおくべき心がけや対策はほかにもたくさんある。もちろん、事故やけが、急性盲腸炎のような緊急事態なら話は別である。しかし、このような急を要する事態は、医療全体のわずか五パーセント程度でしかない。
病気の自覚症状がまったくなければ、医者にかかる必要はない。もし自覚症状があったり、実際に病気の場合は、その病気について医者よりも多くの知識を身につけておくことが必要である。
病気について勉強することはそれほど難しいことではない。まず、医者が使った本を入手する。おそらく医者は本の内容のほとんどを忘れているだろう。そして、自分の病気について書かれている一般向けの本を読んでみる。要は、情報面で医者と対等か、あるいはそれ以上の立場で話し合えるように、自分の病気についてできるだけ知識をしこんでおくことが大切なのである。
「検査を受けなさい」と言われたときには、検査内容を調べ、その検査で何がわかるのかを知っておく必要がある。そして、医者に検査の意義を聞いてみる。医者は口を閉ざすだろうが、血液検査や尿検査、結核検査、胸部レントゲン検査のような簡単な検査でも、その意義については議論が分かれており、それから得られるデータをもとに診断するのはかなり困難である。調べてみれば、その意義はほとんどないことがわかるはずだ。

第2章 医者が薬を処方するとき

●抗生物質のウソ

私が医者になってまだ問もないころのことである。細菌性髄膜炎で苦しんでいる子供たちに数時間おきにペニシリンの静脈注射をすると、奇跡的な変化が起きたことをよく覚えている。さきほどまで死のとこにあった子供たちが、意識を回復して、数時間以内には刺激に反応しはじめたのである。数日後には立ち上がって歩けるようになり、すぐにも退院できるまでに回復した。
大葉性肺炎の患者たちも激痛に襲われ、高熱やひどい咳、呼吸困難、震え、悪寒、激しい胸の痛みといった重い症状に苦しんでいた。回復した者もいたが、多くは死んでいった。ペニシリンの登場とともに、この病気でかつてのような苦しみを味わうことはなくなり、熱や咳は数日で解消するようになった。以前なら生還できなかった患者が、荷物をまとめて歩いて退院していったのである。
私をはじめ多くの医者がこの様子を目の当たりにして、奇跡の医療を行っていることを実感したものである。
だが、現在では事情が一変している。細菌性髄膜炎と大葉性肺炎はほとんど見られなくなった。生命をおびやかすこうした病気に医者が直面することはめったになくなり、かりにあったとしても、治療法は決まり切ったものだから、たいていは看護婦か医療技師が代わって治療に当たる。奇跡に魅せられた当時の気持ちはまだ残っているが、しかし、そのころ珍重された薬は、いまでは非常に危険な薬となってしまった。
現在、多くの医者が風邪の患者にもペニシリンを投与している。しかし、ペニシリンが効くのは細菌性の感染症に対してであり、風邪やインフルエンザのようなウイルス性の感染症に投与しても意味はない。
ペニシリンをはじめとする抗生物質には次のような特徴がある。
・風邪やインフルエンザの罹患期間を短縮することはできない。
・合併症を予防することはできない。
・鼻内部、のどに存在する菌の数を減少させることはできない。
要するに、というのは、
抗生物質は風邪には効かないのである。風邪やインフルエンザに対する抗生物質の作用副作用だけである。抗生物質を投与された患者は、発疹、嘔吐、下痢、発熱、アナフィラキシーショック(激しいアレルギー反応を伴う薬物ショック)などで苦しむ。しかも、発疹だけで済む患者はわずか七~八パーセントにすぎない。単核症(血液中の単核白血球の数が異常に多くなる病気)の患者がアンピシリンというペニシリン系抗生物質を服用すると発疹を起こす確率はもっと高くなる。
ペニシリンに対して激しい反応を起こす五パーセントの患者がアナフィラキシーショックを起こし、呼吸困難で苦しむ様子は見るに堪えない。
このほか、ペニシリンには、心血管虚脱、発汗、意識不明、血圧低下、不整脈などの副作用があるが、本来、これらはいずれもペニシリンによって治るはずの症状だったのである。
ペニシリン以外にも危険な抗生物質は少なくない。
クロマイ(クロロマイセチン)は、インフルエンザ菌(ヘモフィルス属の標準種)とするある種の髄膜炎とチフス菌を病原菌とする病気に対して有効な薬である。しかも、こうした病気にはクロマイしか効かないことが多い。この薬には骨髄造血機能を妨げるという致死的な副作用があるのだが、瀕死の状況では、この程度の副作用はやむをえないのかもしれない。
しかし、子供が単なるウイルス性の咽頭炎、咽喉炎、扁桃炎といったのどの炎症程度のことでクロマイを投与するのはどうだろう。効果がないばかりか、骨髄造血機能の阻害という危険を無意味に冒すだけである。骨髄の造血機能が阻害されれば、多量の輸血をはじめとする処置が必要になる。しかも、患者が完全に回復できるかどうかという保証はない。ところが、なぜか医者はのどの炎症にもクロマイを処方するのだ。
テトラサイクリン系抗生物質は、外来診療所や開業医に人気の薬である。各種の細菌性の症状に効果があり、副作用も少ないと考えられているからで、子供から各年代の患者に幅広く投与されている。
しかし、この薬の副作用は多岐にわたって現れるので、それを知っている医者ならば不用意に処方はしないはずだ。
この抗生物質の重大な副作用のひとつに、骨と歯に沈着物を形成することがあげられる。骨におよぼす影響を正確に指摘することはできないが、子供の場合、歯に黄色や黄緑色のしみを永久に残してしまう。経験的にそれに気がついている親は数十万人、おそらく数百万人はいるだろう。いくら風邪の症状を軽くしてくれるからといっても、こんな代償を払うのかと思えば、多くの人は服用する気にもなるまい。しかし、ほとんどの医者はそうは考えてわいない。
最近、医者がよくこんなことを言う。
「子供の風邪はマイコプラズマ肺炎の可能性があるから、テトラサイクリンを投与する必要がある」
だが、これには根拠がない。マイコプラズマとは、細菌とウイルスの中問に位置づけられる自己増殖機能をもった最小の微生物のことだが、子供たちの風邪の大部分がこれによる感染というわけではあるまい。
その後、アメリカ食品医薬品局(FDA)は、テトラサイクリンの過剰投与に気がつき、この薬の医師向け添付文書に次のような警告を必ず明記するよう製薬会社に要請した。
「歯の発育期(乳幼児期から八歳までの間)にある子供がテトラサイクリン系抗生物質を服用すると、歯が黄色、茶色、または灰色に永久に変色するおそれがあります。この副作用は長期服用によって起こりますが、短期間でも繰り返し服用することで生じることが確認され、歯のエナメル質が変質することも報告されています。したがって、テトラサイクリンは、ほかの薬では効果がないと予想される場合、またはほかの薬の服用が禁じられている場合を除いて、歯の発育期にある子供に処方してはいけません」
しかし、この警告が医者に対して本当に効果があるかは疑問だ。というのも、医者が添付文書に目を通すことはめったにないし、たとえ読んでもほとんど気にも留めないからである。その気になれば、警告にかかわらず使いたい薬を投与する。それが医者の困った習性なのである。
しかも、この添付文書のように、使用対象が重症患者に限られるといった具体的な規定が明記されていないと、薬の過剰投与という医者の習性を正すことはさらに難しくなる。

●抗生物質が細菌を鍛える

抗生物質の過剰投与によって、副作用よりもさらに恐ろしい菌交代症の問題が発生した。菌交代症とは、抗生物質が体内で特定の細菌との戦いを繰り返していくうちに、その抗生物質に対して耐性をもつ新たな細菌が変種として生み出され、それがさらにひどい感染症を引き起こすことである。
細菌は適応力に富む微生物で、薬にさらされればさらされるほど、それ以降の世代の細菌はその薬に対して耐性をもつようになっていく。かつて淋病の治療では、少量のペニシリンの使用で十分だったが、現在では大きなペニシリン注射を二回も打たなければ治らなくなっている。場合によっては、別の薬も併用しないと打つ手がないということもある。
一九七〇年代、フィリピンと西アフリカで発見された二種類の淋菌の変種は、ペニシリンに対して完全な耐性をもっていた。現代医学がこの淋菌に対抗するために、さらに強い抗生物質を開発して反撃に出たのは言うまでもない。こうして登場したのがスペクチノマイシンである。スペクチノマイシンはペニシリンに比べて価格は六倍もして、しかも重い副作用がある。だが、淋菌はこのスペクチノマイシンに対しても耐性菌を生み山した。
抗生物質を武器にした現代医学と細菌の戦いが激化するにつれて、細菌はますます力をつけ、患者は衰弱し、医療費は増大する一方である。
こうした事態を招いたのは、抗生物質の使用を厳しく制限しなければならないという認識が当の医者に欠落していたからである。医者が抗生物質の処方にもっと慎重であれば、これほどひどい事態にはならなかっただろう。一人の患者がペニシリンなどの抗生物質を必要とするのは、一生のうちせいぜい三回か四回しかない。しかも、それは副作用の危険を冒すだけの価値がある場合に限られる。
不幸なことに、医者の多くは、現在でも抗生物質のような強い薬を患者に投与している。アメリカでは、毎年数千万もの人々が風邪で通院しており、そのほとんどに薬が処方されているが、その薬の半分は抗生物質である。この患者たちは二重、三重にだまされて、現在の医療体制に組み込まれているのだ。風邪にはまったく効きもしない抗生物質を投与されて必要もない医療費を負担し、副作用のために風邪よりもはるかにひどい、時には死に至る感染症を発病して、さらに治療を受けざるをえないように仕組まれているのである。
医者はその昔、「治癒の代理人」であったが、いまでは「病気の代理人」と成り果てている。現代の医学は濃厚で過剰な治療を軽症患者にまで安易に行ったため、逆に重症患者の治療に対する有効な治療法を低下させて台なしにしてしまった。私を含めて多くの医者がかつて誇りを抱いて携わった奇跡の医療が、現在では患者に害をおよぼす薬漬け医療に堕落したのである。

●医者と薬の危険な関係

ここで、医学と危険な薬の歴史を振り返ってみよう。
一八九〇年、近代細菌学の創始者であるドイッのロベルト・コッホは、結核菌の培養液からある物質を抽出し、これが結核の治療に役立つと主張した。しかし、何人かの患者に実際に注射してみると、*訳注アメリカの全病院における抗生物質の過剰投与を年代を追って見ると次のようになる。

一九六二年 九四〇〇万ドル
一九七一年 二億一八〇〇万ドル
一九九一年 三〇億ドル
一九九七年 八〇億ドル(予測)

(ジェフリー・フィッシャー『疫病を作る者ども』一九九四年刊による)
患者の容体は悪化して死亡者まで出た。
一九二八年、トロトラスト(酸化トリウムの懸濁液)という放射性造影剤が、肝臓や脾臓、リンパセツのレントゲン撮影で初めて使用された。この薬物がごくわずかな量でもがんを引き起こすことが判明するのは、それから十九年後のことである。
一九三七年、新しく開発された抗菌剤を投与された子供たちが死亡した。その薬が毒性の強い化学物質で汚染されていたことがのちに判明する。
一九五五年、不活化したはずのポリオウイルスを含んだソークワクチンを過剰投与され、罪もない幼児たちに死者と瀕死の重症者が一〇〇人以ヒも発生した。
一九五九年、妊娠初期に、サリドマイドという睡眠薬を服用した妊婦から、ドイツで約五〇〇人、ドイッ以外の国々で約一〇〇〇人にものぼる重度の奇形児が生まれた。
一九六二年、白内障をはじめとする数多くの副作用を起こすことがわかって、トリパラノールという高脂血症治療剤が市場から回収された。
薬害が是正されるのは、問題の薬が市場から回収されるときか、製薬上のミスが発見されて規制が強化されるときのいずれかでしかない。しかし、薬害がもたらす悲惨な事件は日常さはんじであり、規制は完全には行われていない。強化されるのは薬の規制ではなく、むしろ流通機構の方で、医者の手を介して、以前よりさらに大量の薬が製薬会社の工場から何も知らない患者の体内に注ぎ込まれているのが現状である。その典型が次の二例だ。
一九七四年、交感神経抑制剤の一種であるレセルピン系の降圧剤に乳がんの発症率を三倍にも高める副作用があることが研究で明らかになった。しかし、この薬はそんなことは何も知らない患者にいまも変わらずに投与されている。
インスリンは、糖尿病患者を失明させる原因となることが指摘されている合成ホルモン剤である。
しかし、この薬は「医学の奇跡」とまで称賛され、いまだに使用されつづけている。

●副作用で死んだ人々

薬が医学という科学の純粋な産物なら、それを投与することは健全な判断に基づいた科学的かつ合理的な行為となるはずだが、しかし、現実の医学は純粋な科学とは言えず、したがって薬も科学の純粋な産物とは言いがたい。だから、薬の投与は不健全にして非科学的、しかも非合理的なものに成り果てている。薬とは現代医学教の信仰の対象でしかないのだ。
キリスト教には誕生時に受ける洗礼の儀式と並んで、聖体拝領(プロテスタントでは聖餐式)と呼ばれる大切な儀式がある。最後の晩餐でイエスがパンとワインを指さして「これこそ我が体であり血である」と言ったことに基づく儀式で、信者は神父から聖なるパンとワインを口に含ませてもらい身と心を清める。
現代医学の「薬漬けの儀式」では、信者は聖なる薬を授かって身と心を清める。患者はこの儀式によってある体験をする。それは医者が患者である自分の身心の状態を変えられるという事実である。
もちろん、そのためには患者が医者の指示通りに薬を飲むという信仰心をもつことが前提となる。
聖体拝領で得られる癒しと高揚が暗示によるものであるのと同じように、薬漬けの儀式で得られる薬理効果なるものの大部分も暗示による偽薬効果がもたらしたものである。事実、偽薬効果であることがはっきりしている薬がいくつもあるし、治療法にも偽薬効果に頼ったものがある。
キリスト教や伝統的な宗教の儀式が、人に危害を加えるということはまずありえない。しかし、医者が執り行う薬漬けの儀式は、人を死に至らしめる危険性をはらんでいるのだ。実際、医者が投与する薬は、違法の麻薬や覚醒剤よりも多くの人たちに危害を与えている。全米医療調査は、薬物乱用死の割合は、麻薬・覚醒剤によるものが二六パーセント、精神安定剤とバルビツール酸系睡眠鎮静剤などの処方薬によるものが二三パーセントだと報告している。
だが、この調査には二つの問題点がある。まず、処方薬の副作用で死んだ年間二万から三万人にもおよぶ患者の数が計算されていないこと。もうひとつは、二万から三万人という、その差一万もの大きな開きは、本当の死因は薬害であっても、医者が適当に言いつくろってごまかしているのかもしれないことである。末期患者が薬物療法の途中で死んだ場合、かりにその治療を受けていなければ存命していたとしても、医者は副作用死(薬物療法による死亡で、医療死のひとつ)ではなく病死として診断する。
ボストン薬物監視合同調査会は、入院患者の副作用死の割合を、急性疾患の場合は一〇〇〇人中一人強、がん・心臓病・アルコール性肝硬変のようなじゅうとくな慢性疾患の場合は一〇〇〇人中四人と報告している。
ここで見落としてはならない重要な事実がある。もとをただせば入院患者の多くは、通院の段階で医者から処方された薬を服用して、その副作用が原因で入院するはめに陥ったということである。アメリカとイギリスの入院患者のうち、少なくとも五パーセントの患者は薬の副作用が原因で入院していると推定されている。
予防可能だったこの種の病気に、少なくとも三〇億ドル以上の医療費が費やされている。

●ステロイドの苦しみ

ステロイド剤(副腎皮質ホルモン剤)は抗生物質同様、本来は重症患者に限って使用されるはずだったが、軽症患者の治療にまで投与されるようになった劇薬である。
副腎は代謝をコントロールする人体最大の臓器である。したがって、ここから分泌される副腎皮質ホルモンは、体内のほとんどの臓器に直接的あるいは間接的に影響を与える。やっかいなのは、投5.されたステロイド剤が、体内で分泌される副腎皮質ホルモンに類似した働きをすることである。
かつてステロイド剤の投与は、副腎の極度の機能低下、脳下垂体の機能障害、紅斑性狼瘡、潰瘍性大腸炎、ハンセン氏病、ポジキン病(悪性リンパ腫はその一種)、リンパ腫などのようなじゅうとくな病気に限定されていた。ところが、いまでは単核症、ニキビ、発疹のようなありきたりな症状だけでなく、日焼けにまで使われている。しかも、これらの病状についての診断は正確さを欠いていることが多い。
『薬の総合事典』という本は、アメリカ国内で認可された薬を一覧した薬の聖典ともいうべき医師用便覧である。そのなかにプレドニゾンというステロイド剤について、その予備知識と副作用のリストが、小さい活字で二段にわたってびつしりと記されている。副作用のリストから代表的なものをあげると次の通りである。
高血圧、筋力低下、穿孔と出血を伴うおそれのある消化性潰瘍(胃や十二指腸の壁に穴があいたり出血したりする潰瘍)、外傷の治癒能力の低下、発汗、めまい、けいれん、生理不順、子供の発育障害、精神障害、緑内障、糖尿病。
皮膚にできたわずかな発疹を抑える代償として、こうした悲惨な副作用がひとつでも現れればたいへんなことだと世間の人は考えるだろう。だが、医者のなかにはそう思わない者がいくらでもいる。
先日、アトランタ在住の婦人から、私のもとに一通の手紙が届いた。この人の二十歳になるお嬢さんに、まだ生理がないというのである。お嬢さんが十一歳のときに爪先に発疹ができたことがあった。
皮膚科に連れて行ったところ、医者からプレドニゾンの投与を受け、その後三年間にわたってこの薬を服用したという。婦人はこう書いている。
「何か娘にしてやれることはないものでしょうか。あのとき、皮膚科の医者が、プレドニゾンは生殖機能に変調をきたすおそれがあると説明してくれていたら、私たちは発疹をそのまま放っておいたでしょう」
また、オハイオ州の若い女性が寄こした手紙には、次のような体験が書かれていた。
「うるしにかぶれて皮膚科に行ったところ、プレドニゾンの投与を受け、その後ケナログという別のステロイド剤を注射されました。激しい頭痛、筋肉のけいれん、胸部の腫れ、子宮内出血に二十五日間も苦しみました。そこで今度は婦人科に行くと、『子宮内出血はかぶれを抑える薬で起きたものだから、子宮内掻爬術を行う必要がある』と言われました」
子宮内掻爬術とは、子宮内膜を引っかいて患部組織を除去する治療法である。

●DES訴訟事件

一九七〇年代後半、一〇〇〇人以上におよぶ女性たちがシカゴ大学を相手どって、総額七七〇〇万ドルの損害賠償を求める集団訴訟を起こした。二十五年ほど前にジエチルスチルベストロール(DES)という世界初のエストロゲンを本人の同意なしに実験投与されたことに対する訴訟で、これはシカゴ大学に大きな衝撃を与えた。
この訴訟は、私にとっても特別な意味をもっていた。というのも、当時、私はシカゴ大学医学部に在籍しており、シカゴ産院でときどき研修を受けていたのである。危ぶまれている流産をDES処置によって予防する実験が行われていたことは私も聞いて知っていた。ただ、そのころの私は現代医学を心底信じていた潔癖な医学生で、自分が在籍する医学部を信頼し、教授たちがやることに間違いはないと信じていた。だから、私はその実験には疑問すら抱かなかった。
あとから考えると、私もその一〇〇〇人以上の女性たちも、シカゴ大学医学部を初めから信頼すべきではなかったのだ。なぜなら、教授たち自身、自分たちのやっていることがどういうことなのか、何ひとつ把握できていなかったからである。
一九七一年、ハーバード大学医学部のアーサー・ハーブスト博士は、DES処置を受けた母親から生まれた女の子に膣がんが恐るべき高確率で発症していることを初めて発表した。その後、男の子にも生殖器の異常が高確率で発見された。さらにかなりの数の母親ががんに侵され、死のとこで苦しんでいることが明らかになった。
医学は人を癒す科学だと信じていた私はすっかり幻滅して、どんなにひどい報告を聞いても驚かなくなった。ピルや更年期の女性が使用するエストロゲンなどの女性ホルモン剤に伴う副作用もすでに表面化していた。そのころはDES処罹による胎児への悪影響は明らかではなかったが、いまはもう違うのである。
その後、DESについて警鐘を鳴らしたハーブスト博士の態度が急変した。一転して、「DES処置によるがんの危険性はそれほど深刻ではない」という趣旨の論文を発表したのである。
こんなことを目の当たりにしても私はさして驚かなかった。ハーブスト博士は、自分が先に行った発表で医学界の威信が失墜し、日ごろ処方している薬の危険性に対して医者がいかに無知であるかが世間に暴露される結果になって、これはまずいと思ったのだろう。そこで、難解な医学用語を駆使して誰弁を弄し、薬害事故は決して薬害事故ではなく、危険は決して危険ではなかったかのように装って世間を欺こうとしたのである。
大切なのはそんなことではない。DESの人体実験に利用されたことを知った気の毒な母親たちと障害を背負って生まれてきたかわいそうな子供たちに、納得のいく説明をしてあげることではないのだろうか。
障害児たちにとって危険は、紛れもなく一〇〇パーセントの危険だったのである。ハーブスト博士自身の記録がそれを示している。インフルエンザ患者が三〇〇人いれば、医学界は大騒ぎになる。それなのに、DESで被害者が三〇〇人も出ることはたいしたことではないとでも言うのだろうか。抗生物質の問題にしてもそうである。乳幼児が抗生物質を本当に必要とする確率は一〇万分の一もないが、医者は安易に抗生物質を投与しつづけているのだ。

●ピルは病気を呼び寄せる

アメリカでは、あらゆる年齢層の女性に数種類の合成ホルモン剤が投与され、数千万人の女性がピルやエストロゲンという形でこの薬を毎日服用している。DESもエストロゲンの一種であり、「事後の避妊薬」として、あるいは乳汁分泌を抑制する薬としていまでも使われている。
アメリカ食品医薬品局は全国の医者に、四十歳以上の女性にはピル以外の避妊薬を勧めるようにという通達を送った。さらに一九七七年には、ピルを服用している四十歳以上の女性に小冊子を配布し、医者には心臓病を患う危険性が異常に高いことを警告するよう要請した。
しかし、こうした警告が成果をあげているかどうかは疑問である。なぜなら、ピルを飲んでいる女性は圧倒的に四十歳未満で、四十歳以上の女性は、情報が十分に伝わっていないか、危険を覚悟してか、いまだにピルを服用しているからである。
比較的若い女性にとってもピルの危険性は低くはない。心臓病だけでなく、肝腫瘍、頭痛、うつ病、がんなどを引き起こすかもしれないからだ。ピル服用者は、非服用者と比べると、心筋梗塞で死亡する確率が四十歳以上で五倍、三十代で三倍、それ以外の病気の発症率を年齢を問わずに比較してみても、脳卒中四倍、血栓塞栓症五倍以上、高血圧が六倍である。
ピルの巨大市場を維持するために、アメリカの医者は「ピルの服用は妊娠よりも安全である」と女性に教える。だが、こんな理屈は非論理的かつ非科学的である。ピルの危険性は表面化している。その危険性とは、不自然な化学物質が女性の体の諸機能を阻害する危険性である。それに対して妊娠は自然な生理現象である。女性が健康であれば、いつでも妊娠に備える態勢ができている。ピルの服用とは病気を呼び寄せる行為なのだ。
妊娠の危険性とピルの危険性を比較することがそもそも科学的とは言いがたい。危険性を比べるというのなら、ピルとピル以外の避妊薬の危険性を比較すべきである。
アメリカではピルの服用者約一〇〇〇万人の女性に加えて、閉経期にある五〇〇万人以上の女性がエストロゲンを服用している。この薬には、胆嚢炎と子宮がんの発症率を五倍から一二倍にまで跳ね上げる危険性が指摘されており、食品医薬品局としてはピル同様、医者と患者にそれを警告せざるをえない状況に追い込まれている。しかし、医者に関する限り、この警告はほとんど無視されている。
多くの病院でこの薬は、閉経期の不快な症状を予防するという理由でごく日常的に使用されているからだ。
エストロゲンは、若さの維持や美容効果、うつ状態の軽減、心臓病の予防という名目で投与されているが、本当はそんなことに効果はないことが立証されている。高齢の女性には骨粗霧症の予防になると言われているが、運動療法と食事療法で骨粗霧症の予防は十分にできるし、しかもがんになるおそれもない。
女性がエストロゲン補充療法(ERT)を受けるきっかけは、中年期になって抑うつ状態になったときである。しかし、うつ状態の原因が年齢以外にもあると考え、医者がエストロゲン以外の治療法を探すことなどありえない。あるいは、薬をまったく使わずに治療が可能かどうかを考えることは……やめておこう、それを医者に期待するのは野暮というものである。

●新薬の怪しいカラクリ

現代医学の不文律に次のようなものがある。
「新薬は副作用が現れる前に処方箋を書いて売りさばけ」
この不文律を露骨に示すのが、関節炎の患者に消炎鎮痛剤(抗炎症剤)の新薬が次から次へと処方されている現実である。この現実こそ、現代医学の治療が病気よりも危険であることを端的に表している。
このところ、新開発された鎮痛消炎剤の宣伝が洪水のように医学雑誌に掲載されるようになった。
それは、ブタゾリジンやトレクチンなどの襲来を告げるものだった。製薬会社は手間を惜しまず販売合戦を繰り広げ、医者という医者は数百万回もこれらの薬を処方した。
その結果、わずか数年後には、消炎鎮痛剤は副作用の新記録を樹立した。関節の痛みを和らげるはずのこの薬が、抗生物質、ホルモン剤と並ぶ危険な化学物質として、数え切れないほどの人々に耐え難い激痛を与えることになったのである。
ブタゾリジンに記された医師向け添付文書を紹介しよう。これを読むと、医者がこんな薬を投与していたのかと知って気分さえ悪くなりかねないので、注意してお読みいただきたい。
「この薬を患者に投与する際には十二分に注意してください。これは使用法を間違えると、重大な副作用を引き起こす恐れがある劇薬です。服用期間にかかわらず、白血病になった症例が何例も報告されています。患者のほとんどは四十歳以上でした」
さらに、副作用として、頭痛、めまい、昏睡、高血圧、網膜の出血、肝炎など全部で九二の症状があると書かれている。これではこの薬の投与は、患者に害をおよぼす意図的行為と同じになってしまう。添付文書はさらにこう続く。
「患者には注意して指示を出し、経過を十分に観察する必要があります。とくに、四十歳以上の患者で、薬に対する反応が激しい場合は注意を要します。効果が認められる範囲内で可能な限り量を制限してください。致死的な反応を起こす危険性と当初は予想していない効能・効果を比較検討してください。なお、病状はこの薬では変化しません」
「当初は予想していない効能・効果」とは、製薬会社はこの薬に効果、効能を見いだすことができなかったという意味にほかならない。
読者はこの添付文書を読んで、いろいろと疑問を抱いたことだろう。
なぜ製薬会社はこんな危険な薬をわざわざ売るのか。
どんな医者が患者にこんな毒物を飲ませるのか。
製薬会社に関する限り、最初の疑問の答えはきわめて明白である。ブタゾリジンで数百万ドルも儲かるからである。
では、医者はどうか。次の三つの推測が成り立つ。
・この薬の致死的な副作用に気がついている、あるいは気がついていない。
・製薬会社から予想もしない副作用があると注意を促されても意に介しない。
・人智を超越した現代医学教の聖なる信仰の力に導かれ、生け贄を捧げることに使命感を感じている。
ナプロシンを例にとっても、現代医学はどこまで人の命を犠牲にすれば気が済むつもりなのかと思わざるをえない。食品医薬品局は、製造元のシンテックス社が安全性検査の過程で実験動物の死亡と腫瘍の記録を捏造したことを突き止めている。
しかし、この薬を市場から回収することについてはきわめて慎重だった。たいへんな手間と時間のかかる行政上の手続きが必要だという。

●薬漬けにされる子供たち

教会が支配していた巾世ヨーロッパでは、正統からはずれた思想や信仰を奉じる異端者を摘発して処罰する異端審問が盛んに行われていた。現代医学もこれと同じことをやっている。その最たる例こそ、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の子供に対する薬漬けだろう。
行動を抑制する薬は、本来、重度の精神病患者の治療に限って使用されるものだった。しかし、現在ではリタリン、デキセドリン、サイラート、トフラニールといったこの種の薬が、アメリカの一〇〇万人以上の子供たちに投与されているのである。それも、注意欠陥・多動性障害とか軽度の脳損傷という、あいまいでいいかげんな診断に基づく投与であることが多い。
的確な検査であれば、症状は確定されるだろう。しかし、注意欠陥・多動性障害に関連する約二〇種類の症状を見極める検査方法は、実は何ひとつとして存在しない。症状を確定できない検査は、症状と同じ数だけあるいはそれ以上ある。医者はこうした意味のない検査を数だけこなし、専門家として推測するだけなのである。
これはテキサスのある小学校で実際にあった話である。
この小学校では、脳損傷治療のために支給される政府の助成金を利用するために、いいかげんな診断基準だけで、一年間に全校児童の四〇パーセントを「軽度の脳損傷」にしたてあげていた。二年後、助成金は打ち切られたが、次に言語障害をもつ児童が支給の対象となると、軽度の脳損傷をもつ子供は姿を消し、今度は三五パーセントの児童が「言語障害」と診断されてしまったのである。
学校が教員の給料、書籍代、運動器具などに助成金を横流ししていたのなら、泥棒と同じことだとはいえ、それにはまだ許せる部分がある。だが、現実に起こったことは、子供の意欲を起こさせる手を打とうともせずに、授業中おとなしくできないという理由だけで、児童を注意欠陥・多動性障害という診断でひとくくりにしたことである。多動児の烙印を押された子供たちは、薬で自由を奪われてしまったのだ。
しかも、このとき子供たちが飲まされた薬には深刻な副作用があった。子供の成長を妨げ、高血圧、神経過敏、不眠症を引き起こすばかりか、やがては薬物依存症になるという恐ろしいしろものだったのである。
ハイチを中心にした西インド諸島にはブードゥー教という宗教が根付いている。これは精霊信仰と憑依儀礼を宗旨とする、アフリカの宗教とキリスト教が混交した土着信仰で、この呪いにかかると魂のない死体がゾンビとなって歩き回るという迷信がある。薬物療法を受けた子供は、まるでこのブードゥーの呪いにかかったかのように、生きながらゾンビと化してしまう。
薬は確かに子供を落ち着かせる。しかし、同時に反応が鈍くなって意欲は減退し、明るさは影を潜めて無気力になっていく。しかも、長期にわたって観察すれば、薬物療法など子供にはなんのプラスにもならないことがわかってくる。
この手の薬の開発に携わる研究者たちは、自分たちはこうした現状と直接かかわっていないことを言うために、問題は薬そのもののせいではなく、現場で働く医者の乱診と誤診、薬漬けにあるのだと言い張る。確かにこのように理論武装すれば、彼らが傷つくことはあるまい。だが、自らの手で開発した薬の使用を制限する努力を怠っていたという批判からは免れることはできまい。
ある医学雑誌に三ページにもわたる広告が掲載されていた。その広告には、学校の教師が誇らしげにこう語る姿が写っていた。
「なんてすばらしいことだ。この薬のおかげでこの子の字が見違えるほどきれいになった」
字がきれいになる劇薬が発売されるという現象は人類史上初めてのことであり、しかも大成功を収めている。アメリカでは一〇〇万人以上の子供にこの薬が投与され、年間数千万ドルにおよぶ莫大な収益が製薬会社に転がり込んでいる。
現代医学教の異端審問の様子は、子供を管理する薬漬け医療にはっきりと現れている。中世ヨーロッパの異端審問は、正統にそぐわない信仰とふるまいを倫理上の罪とするばかりか、それが法律上の罪すなわち犯罪であると言い出した。異端者は教会で処罰され、次いで世俗的な権威によって再び罰せられた。現代医学教の異端審問は、社会生活から逸脱する行為を病気と決めつける。こんなことをする子供は、医者によって薬漬けの刑に処せられて支配される。
そもそも学校とは、学問によって知識を一般に解放するためにあるのではなく、管理しやすい社会性のある人間を生み出す制度なのだ。その目的を達成するために、現代医学と国は手を携え、次のようにして社会秩序の維持に努める。
・現代医学は国に適合する行動基準を強制する。
・国は現代医学が繁栄する独特の価値観(医療信仰)
を強制する。
いずれも国民の健康管理という美名のもとに行われるものだが、国民の健康は、現代医学にとっても国にとっても関心事ではない。
国はまた、現代医学教の「聖水」の権威にも力を貸している。医者の診断を必要としないという点で聖水は薬と異なるが、信者には聖水が欠かせないものとして国民全員にこれを強制している。
現代医学で言う聖水とは、予防接種に使うワクチンや妊婦と入院患者に投与する点滴液のことである。これらの聖水は人々の意思にかかわりなく押し付けられる。いずれも九九パーセントは必要のないものであり、しかも安全性にも問題を残している。

●医者と患者と製薬会社

「医者は患者に害をおよぼすな」
この無害優先の教えは医学生が暗記するように命じられる西洋医学の父ヒポクラテスが残した『誓い』の一節で、医学の第一の鉄則とされている。医者たる者は患者の不利益となるようなことはしてはならないという意味だが、医者になってからその教えを実践する者はあまりにも少ない。
医学生はもうひとつ、こんな教えも学ぶ。
「ひづめの音が聞こえたら、シマウマではなくウマが来たと思え」
シマウマは、ウマとは違い、アフリカにしか生息していない。この鉄則が意味するのは、患者の体になんらかの症状が現れれば、論理的に考えて的確な判断をくだし、そのうえで症状の原因を考えよ、ということである。この鉄則も医者になってから実践しつづける者はほとんどいない。こんな悠長なことをまじめにやっていては、高価な劇薬を使う治療や儲かる医療はできなくなってしまう。
そこで、医者は患者の足音を聞けば「シマウマが来た」と思い、論理的に考えず、不的確な判断をしたうえで治療に当たることになる。子供が授業に退屈してそわそわしだせば、注意欠陥・多動性障害だから薬。運動不足が原因で関節が硬くなって痛めば薬。血圧が少し高ければ薬。鼻が詰まれば薬。
気分がふさいでも薬。なんでもかんでも薬、薬、薬。
医者の周囲にはいつもシマウマが群れをなして走っている。
医者がシマウマの幻想を見つづけるのも、ひとつには多額の報酬が絡んだ製薬会社との癒着があるからだ。製薬会社が派遣する医薬情報担当者(MR)、といっても実際にやっていることは営業マンと同じなのだが、彼らは医者と莫大な利益を分かち合うために、医者と友好関係を取り結び、販促活動の一環として、豪勢な接待はもとより、使い走りから御用聞き、薬の無料サンプルの配布と日々東奔西走している。
薬の使用と乱用の知識について、医者が製薬会社から入手する情報は、悲しいことに営業マンや医学雑誌の広告から得たものがほとんどである。治験データ(未認可の薬を医者が患者に飲ませ副作用を調べる臨床試験の報告資料)なるものは、製薬会社が研究費を払って医者にわざわざご提出願ったものがほとんどだから、その内容はかなり疑わしい。
四人のノーベル賞受賞者を含む著名な科学者たちで構成された委員会が、薬に関する問題を研究した結果、次の二点が判明した。
・諸悪の根源は臨床治験を行っている医者と研究者にあること。
・新薬の臨床試験はでたらめであること。
アメリカ食品医薬品局は、臨床試験を行っている医者を無作為に抽出して、その仕事ぶりを調べるという抜き打ち検査を行った。その結果が「アメリカ医師会雑誌」(JAMA、一九七五年十一月三日付)に報告されている。

・全体の約二割が不正確な分量を使ったり、データを改変したりするなど、ありとあらゆる不正行為を行っている。
・全体の約三分の一が実際には臨床試験を行っていない。
・さらに三分の一が診察録に従っていないデータを使用している。
・臨床試験の結果に科学性を認められるのは、結局、全体のわずか三分の一程度にすぎない。
製薬会社と医者の癒着が腐敗と薬害の温床になっていることは明らかだ。といっても、製薬会社とその営業マン、政府の取り締まり機構、薬をせがむ患者にまで非があるとは私は考えない。問題のほとんどは医者にあるからだ。
医者は医薬品情報を十二分に入手できる立場にあるし、臨床試験の結果、重大な副作用があることが判明すれば、ただちに慎重な投与を心がけるべき立場にあることも承知している。にもかかわらず、なおも節操なく薬の投与を続けているのだ。医者とは詰まるところ、常に精神的に優位な立場に身を置き、患者に対して聖なる力を振るっている存在なのである。
製薬会社は企業だから、その目的は利潤の追求である。自分たちの製品をできるだけ高い値段でより多く売ろうとするのは、当然と言えば当然のことだ。製薬会社が臨床試験、認可、流通などの過程でいいかげんなことをする傾向があるのは事実だが、いったん薬を売り出すとなれば、副作用と禁忌(薬を投与してはならないこと)に関する情報をそれとなくではあるが、必ず医者に知らせている。
患者向け添付文書として、薬の副作用と禁忌に関する情報を開示することを求められても、製薬会社は反対する必要などない。反対はすでにアメリカ医師会が行ってくれている。医者は「患者との信頼関係が損なわれてはいけない」という名目で、患者に副作用をかなり控えめな表現で伝えるか、あるいは完全に隠し通したままなのである。
医者がよく口にする言い分はこうである。
「患者に薬について説明していたら、いくら時間があっても足りない」
「患者が副作用についてすべて知ってしまったら、薬を絶対に飲まなくなる」
医者が守っているのは患者本人ではなく、患者との信頼関係であり、しかも、その関係は患者に本当のことを知らせないことで成立している。医者と患者の信頼関係というのは、患者の盲信に依存しているのである。

●医者が薬にこだわるわけ

「医者は患者に害をおよぼすな」
医者がヒポクラテスの第一の鉄則、無害優先の教えに従っているなら、患者の盲信に依存する必要はないはずである。薬の副作用と効能を天秤にかけるとき、医者が優先しなければならないのは患者の健康でなければならない。しかし、医学の第一の鉄則は、現代医学の腐敗した倫理規範によってゆがめられ、本来の医術とは異なる次のような鉄則を生み出した。
「医者は患者にとりあえずなんらかの治療をせよ」
この新しい鉄則に従うと、薬物療法であれなんであれ、医者が「なんらかの治療」をしない限りは患者の不利益となり、ひいては患者に害をおよぼすことになるという奇妙な論理がまかり通ることになる。その際、行った治療に効果があるかどうかは問題ではない。治療の意義を疑問視すること自体が聖域を侵したことになる。患者に害をおよぼすかどうかはどうでもいいのである。
治療を受けて患者が苦痛を訴えれば、医者はこう言うだろう。
「病気とうまく付き合いなさい」
医者がこんなことを言うのは、患者になんらかの薬を投与してからである。
「化学のおかげでよりよい生活」というスローガンがあるが、医者はこれを「化学物質のおかげでよりよい生活」と都合よく置き換えて薬物療法の普及に利用している。
一般に、医者が薬物療法に頼るのは、経済効率を追求しているからだと考えられている。確かに、診察するのに栄養状態、日ごろの運動状況、職業、精神状態までいちいち問診していれば、さばける患者の数も限られてくる。それに比べて薬物療法なら。処方ひとつでてっとり早く診察をこなすことができる。
出来高払い制のもとでは、投薬による「即席療法」は、医者自身とても儲かり、薬剤師のふところも潤い、製薬会社も利益があがる、と医療関係者にとっても「即効性」が高いのだ。
しかし、医者が薬に依存するのは、こんな営利主義だけではなく、もっと深いところに原因があると私には思われる。これは、うがった見方であることは認めるが、歴史を通して医者は、病気の治療に関して常に頑迷なまでに間違った考えを抱いてきたように見えるのだ。
二十世紀の医者は薬漬け医療に専念しているが、十九世紀の医者には衛生観念がまったく欠落していた。水蛭療法(ヒルを患部に貼り付けて血を吸わせる)に始まり、潟血療法(血管から一定量の血液を抜く)、多量の下剤の使用など、身の毛もよだつ処置を当時の医者は効果がある治療と信じ込んでいたのである。ざつと見るだけでも、医療というものは、いまも昔も患者に脅威をおよぼす危険な存在だったと言えよう。
こうして見ると、医者の指示に従って服薬することがどんなに危ないことであるかがわかるだろう。
しかし、医者の薬信仰をさらに掘り下げると、現代医学教の神学としか表現のしようがない難解な問題に突き当たる。そして、それはキリスト教神学の腐敗した一面でもあるのだ。
西洋医学はもちろん、世界にある医学体系のほとんどは食物を重視している。だが、西洋医学の場合、食物とは実際の食物とは異なるものを意味している。痛風や糖尿病、高血圧などの対策として、減塩や低コレステロールといった臨床栄養学に基づく「食事療法」と称するものがあることにはある。
だが、これはきちんと体系化されておらず、かなり不適切で不十分なものである。
アメリカの医者は、食生活の重要性を頭から無視してかかり、これに関心を寄せる医者は、変人、やぶ医者というレッテルを貼られてしまう。
一方、東洋医学などでは、食物が人体におよぼす影響を考えて、その知恵を健康のために活用してきた。また、宗教においても人間の精神状態に食物が深くかかわっているものと見なしてきた。
しかし、西洋の宗教、とりわけキリスト教は、食物に関して現代医学とまったく同じ考え方をする。
現代医学とキリスト教は、実際に口にする食物の代わりに、儀式的あるいは象徴的な食物を崇拝の対象にしているのだ。キリスト教の聖典『新約聖書』には次のような教えが説かれている。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(「マタイによる福音書」一五章一一節)
ユダヤ教の聖典『旧約聖書』では、食物の適・不適が定められている。ユダヤ教のあとで成立したキリスト教は、自身の聖典である『新約聖書』に『旧約聖書』を加えて成ったものだが、その際、編纂に当たった指導者たちのなかに、ユダヤの食物規定を拒絶した者が何人かいた。彼らは逆の考えに走り、食物の重要性を否定してしまったのである。現代医学がそれにヒントを得て、さらに極端に走ったことはまず間違いあるまい。
体のことを考える限り、口に入れる食物は口から出て来る言葉と同じくらいに大切なものである。
事実、食物がその人の性格を左右することさえあるのだ。しかし、これを主張する医者は、医学界から異端者とか異常者という目を向けられる。現代医学では聖なる力をもつ「食物」とは、血流に乗って全身を循環する化学物質のことにほかならないのだ。

●「毒性のない薬は薬ではない」

薬を売りさばく医者という名の聖職者から我が身を守るためには、現代医学や医者を盲信しないことである。医者の処方した薬は危険だ、安全な薬などないと疑ってかかった方が身のためなのだ。世界有数の製薬会社イーライ・リリーの創業者イーライ・リリー自身が、「毒性のない薬はもはや薬ではない」と語っている。
とくに妊婦にとって薬の服用は、胎児も危険にさらしてしまうため二重の意味で危険である。妊婦は薬といっさい縁を切らなくていけない。自分に被害がないように見えても、胎児にとっては取り返しのつかない場合もある。何百という薬が胎児への影響という問題を残したまま市場に出回っているのが現状である。自分の子供の幸せを科学に捧げ、副作用の第一発見者になりたくなければ、差し迫った状況でない限り、妊婦は絶対に薬を口にしてはいけない。
解熱鎮痛剤のアスピリンについても同じことが言えよう。一八九九年から出回っているこの薬について、実はその薬理作用のすべてが解明されたわけではない。それどころか、あまりにも長く家庭用常備薬として飲まれてきたため、アスピリンが副作用のある危険な薬だということが理解されていない。胃の内出血というよくある副作用をはじめ、出産前の七十二時間以内に妊婦がこの薬を服用すると、新生児の頭皮内部で出血を起こすおそれさえある。
処方された薬を飲む前には、患者はその薬について医者よりも詳しく知っておきたい。医者は医学雑誌の広告、営業マン、パンフレットから薬の情報を仕入れているが、患者は薬の副作用情報を記した総合的な事典を一、二冊読んでおくといい。

●薬の作用、副作用

現代では、一度に複数の薬を飲む多剤併用療法があたりまえとなった。飲み合わせによる危険性(薬物相互作用)については、次の二つの面からしっかりと理解しておかなければいけない。
ある薬は一回の服用で、臓器Aに三~四パーセント、臓器Bにニパーセント、臓器Cに六パーセントの確率で副作用を生じる可能性があり、そして、その薬と一緒に飲む薬には、臓器Dに三パーセント、臓器Eに一〇パーセントの確率で副作用が認められるとしよう。そうすると、この二つの薬を何回か併用すれば、副作用を起こす可能性はすべての臓器で一〇〇パーセントを超えてしまい、患者は確実に副作用で苦しむことになってしまう。
もうひとつ、さらに危険なのが、薬の「負の相乗効果」である。薬ひとつの副作用が五パーセントの危険性にすぎなくても、飲み合わせによってそれが二倍、三倍、四倍、五倍と増幅されていくのだ。
しかも、その危険性は発症率にとどまらず、強度においても増幅されている。服用中の薬を医者に知らせておくことはもちろん大切なことだが、多剤併用療法で起こりうる薬害については、医者の知識に頼ってはいけない。
適応症と副作用が同じ、つまりその薬で効くはずの症状とその薬で起こる副作用の症状が同じという薬がある。この種の薬は珍しくはない。そのひとつがアメリカで記録的な売り上げを示しているジアゼパムという精神安定剤(抗不安剤)である。この薬の医師向け添付文書を見ると、適応症と副作用がほとんど同じであることが一目瞭然である。
・適応症不安、疲労、うつ状態、激しい感情の動揺、震え、幻覚、骨格筋のけいれん・副作用不安、疲労、うつ状態、激しい興奮状態、震え、幻覚、筋肉のけいれん
こんな薬をどんな基準で処方すればいいというのか。この薬を投与して症状が続く場合、いったいどうすればいいのだろう。副作用を考えて投与を中止すべきか、効能を期待して用量を倍にすべきかどうなのか。この薬を患者に飲ませる医者は、何を望んでいるのだろうか。理解に苦しむところだが、一応、次の三つの推測が成り立つ。
・危険を冒しても、この薬に偽薬効果を期待しているのか?
・患者が苦しんでいる症状を増幅させる薬を投与することで、その症状を聖なるものとしてあがめようとしているのか?
・原始的な罪のあがないの儀式になぞらえて、服用を中止したときに患者の症状が消え去ることを期待しているのか?
ジアゼパムの製剤は、年問約六〇〇〇万回も処方され、史上最も売れる薬となった。確かにこの薬にはそれだけの価値はある。なんと言っても、適応症と副作用がほとんど同じというこの薬は、科学・芸術・信仰が追究してきた「統一性」という理念をものの見事に体現したから。

●薬と仲よくつきあう前に

医者が処方した薬を飲む前に、患者は次のことを医者本人に聞いておかなければならない。
「この薬を服用しなければどうなるのですか?」
「この薬にはどんな効果があり、それはどのように作用するのですか?」
「どんな副作用があるのですか?」
「この薬を飲んではいけないのはどんな状態のときですか?」
しかし、いずれの質問に対しても、医者から満足な回答を引き出すことはできまい。医者ばかりか、薬の開発者にとっても薬理作用のほとんどは依然として謎のままなのである。かりにわかったとしても、薬を飲むかどうかはまた別の問題である。やはり、医者の言うことを信用してはいけない。副作用を認めても、「それはごくまれなことだから、薬と仲よくつきあいなさい」などと言って医者はその危険性をかなり割り引いて説明する。
これは『薬の総合事典』といった薬関係の本でも同じだ。危険性が低いからといって、安全というわけでもあるまい。氷山をうまく回避した船が海面下の氷に気がつかず、みすみす沈没していくのと同じである。
ロシアン・ルーレットは、引金を引いたときに弾丸が入っていれば間違いなく死ぬが、そうでなければなんということはない。服薬はロシアン・ルーレットにたとえられることもあるが、決定的に異なるのは、服薬の場合、薬を飲めば必ずなんらかの副作用があり、体は確実にむしばまれていく、ということだ。
医者はこの点について真剣に考えようともせずに、「患者にとりあえずなんらかの治療をせよ」という腐敗した判断基準に従って、ひたすら薬を処方するばかりである。だから、「ピルは妊娠より安全である」などという無謀なことを本気で言うのだ。
薬の危険性は患者本人が判断するしかない。自分で注意していれば、飲んではいけない体の状態がわかってくるし、しかもこれは本人にしかわからないことである。あるかどうかも疑わしい効能を信じて、副作用の危険を冒してまで飲む必要があるのかどうかを判断するのは、結局、自分自身なのである。
忘れてはならないのは、患者には服用を拒むことができるということだ。自分の命がかかっているのである。このことは日ごろから自分に言い聞かせておかなければならない。服用に不安を感じたら、すぐに医者に問いただす。そして、飲みたくないことを医者になんとかわかってもらうように努めるのだ。じっくり話し合ってみると、その応対から医者の判断も素人同様、かなりいいかげんなものだということが見えてくる。
調べた結果、薬を飲んでもいい、副作用以上に効果があるとわかっても、安心するのはまだ早い。
身を守るためにはそれだけでは不十分なのだ。医者の指示が『薬の総合事典』に書かれている服用上の注意と違っている場合は、医者に質問をしなくてはならない。
「私の指示通りに服用すれば、薬はいちばんよく効く」
医者からはこんな教科書通りの答えが返ってくるはずだが、この瞬間、医者は薬害事故につながる判断ミスを犯しているのである。
医者の指示に従わなければならない理由があるとすれば、それは服薬中に副作用が出すぎないように医者が薬理作用を監視するためである。服用上の注意に明記してあることだから、どの医者も知っているはずなのだが、この義務を果たしている医者は少ない。したがって、自分の体がどういう反応を示しているのかを確認するのは患者本人ということになる。
薬がどう作用しているかを監視するのは、患者自身がやらなければならない。本人にしかわからない服用中の気分などをきちんとメモしておく。些細と思える副作用でも、それと感じたらすぐに医者に連絡する。しっかりとした自己管理が自らを助けてくれるのだ。副作用に応じて服用を中止することを医者はわかっていないのである。
副作用が一時的な薬もあり、患者にしてみればその程度のことで服用を中断したくないかもしれない。しかし、症状が深刻なら医者の連絡を待っていては手遅れになるから、ただちに病院の救急処置室に駆け込む。こうしておけば、自分を守るだけでなく、医療訴訟になったときにも万全の態勢で臨むことができる。
患者が副作用を訴えたり、特定の薬を拒むと、医者は別の薬を処方することがある。だが、この手の薬が違うのは名前だけで、中身は同じことがあるので注意が肝心だ。医者がこんなことをするのは、薬のことをほとんど知らないか、患者をだましているかのいずれかである。

●薬害からわが子を守るために

落ち着きのない子供を学校と医者が「治療」するように言ってきたら、親は断固として子供を守ってやらなければならない。その際には、最初は簡単な方法から始めて、しだいに思い切った対策を講じていくようにしていく。ただ、簡単な方法と言っても、駆け引きとごまかすためのテクニックというものが必要で、子供のあつかい方にも少し手を加えてみるといいだろう。
担任の教師と面談するときには次の点を心に留めておきたい。
・親としては、薬物療法以外の解決法を望んでいることをはっきりと意思表示する。
・子供のどういう面が注意欠陥・多動性障害に当たるのか率直な意見を求める。
・家庭での子育てをどのようにすれば、授業に適応できるようになるのか助言を求める。
ただし、嘘も方便であることを忘れてはいけない。教師の助言には耳を傾けてよく考えてみるべきである。もし、教師の助言が妥当であると思えば、それは実行しなければならないが、家庭の習慣と伝統が犠牲になる助言なら、実行の必要などはない。ただ、教師にありのままを話すのではなく、「先生の助言のおかげで子供は見違えるほどよくなりました」とでも言っておいた方が事を荒立てない。おそらくこれで問題のほとんどは解決するだろう。
母親からそう言われて、教師は本当に子供がよくなったと思い、それからは期待のまなざしを子供に向けるようになる。そして、教師の期待は当の子供にも影響を与えて、そのふるまいが実際によくなっていく。大人でもそうだが、子供も周囲から期待されると、その実現に向けて行動しようとする傾向があるのだ。
これでだめなら、次のような方法で学校に対処していく。
学級運営を子供がなじむものに修正する道を話し合う。だが、これは教師の抵抗にあいやすい。
一人一人の子供に合った教育」という理想を掲げる学校は多いものの、実際は子供を既成の鋳型にはめることがほとんどだからである。
ここで行き詰まれば、教育専門家あるいは祖母のような、経験と知恵がありしかも信用できる人に相談をもちかける。また、教育環境を変えてみるのも一案だ。親としては子供が医者の診断を受ける前に、子供と教師の相性について考えなければなるまい。場合によっては、転校が解決の方法となることもあるだろう。
実際に子供のあつかいにくさが病的な症状を示すまでになっているなら、「ファインゴールド式食事法」を試してみることを勧めたい。多くの家庭で成果をあげてきた食事法で、提唱者のべン・ファインゴールド博士はカイザー財団アレルギー診療所の主任研究員を務める小児科医である。
博十の食事法は、合成着色料などの合成添加物と一部の加工食品をいっさい口にしないというもので、それらに含まれているなんらかの物質が、とくに過敏体質の子供を刺激するという考えに基づいている。理屈にかなった考え方なのだが、薬物療法の信奉者からはひどい攻撃を受けている。
注意欠陥・多動性障害と決めつけられた子供を薬漬けから守るには、医者から遠ざけるしか打つ手はない。親に調子を合わせて、初めは「学校の先生と相談して環境を変えてみるといい」などと言つておきながら、医者というものは必ず最後には薬物療法を勧めてくるからである。

●医者の倫理、世間の常識

医者がどうしても薬を処方しようとするのは、子供の治療ばかりではない。患者が大人であっても、しかも薬物療法を拒んでいても、医者は聞く耳などもってはいない。それ以外の治療法を知らないからである。薬を使わない治療法があることをそもそも医者は信じていないのだ。
薬物療法をいやがる高血圧の患者には、ひとまず運動療法で減量させようとするかもしれないが、医者は本気ではない。理由は二つあり、まず、運動療法などはなから信じていないこと、もうひとつは、栄養とか生活習慣の改善について患者に助言をするだけの知識を持ち合わせていないからである。
きちんとした知識を身につけている医者もいなくはないが、それは五〇人に一人くらいのものである。
患者にしてみれば、薬を使わずに治療してほしいと願うのは当然である。しかし、医者にすれば、それはとんでもない要求なのだ。医者の物差しと患者の物差しはどうしても相容れない。しかし、こんなことは別に驚くには値するまい。そもそも、医療倫理と一般常識が相容れないものだからだ。
手術のさなかに患者の腹部から前の手術で取り忘れたガーゼが見つかり、それが原因で患者が死亡した場合を考えてみよう。
一般の常識では、患者の家族にそれを真っ先に伝える。ところが医療倫理では、外科医は手術に立ち会った全員に、「このことは誰にも言ってはならない」と口止めを命じる。この命令を無視して看護婦が遺族に真相を伝えれば、その看護婦はクビである。
『新訳聖書』の「ルカによる福音圭旦○章」には、強盗に襲われて苦しんでいる人が、通りがかりの一人のサマリア人から手厚い介護を受けて命拾いしたことを例にとり、病気やけがで苦しんでいる人には、進んで救いの手を差し伸べよという教えが説かれている。
アメリカにはこれに範をとった「良きサマリア人の法」と呼ばれる救助者免責法を定めた州がある。
これは負傷者に応急処置を施した者がミスを犯しても免責される法律で、医者にだけ適用されている。
医者が事故現場に遭遇したとしよう。常識では、すぐにも救助に全力を尽くすと考えるだろう。しかし、医療倫理では、医者はまずその州で救助者免責法が施行されているかどうかを確かめるのである。
現代医学の倫理は、世間の常識と異なるばかりか、伝統的な宗教倫理ともかけ離れている。宗教には対立する宗教の倫理と信仰の欠陥をあかしだてようとする傾向があるものだが、現代医学は薬を使わない医者を「薬漬けの儀式」を拒否したという理由だけで異端者と見なし、こうした医者をやぶ医者と呼ぶ。
現代医学の戒律は非常に厳しく、医学博士の学位をもつ者は異端者との親交はもとより、言葉を交わしてもいけないことになっている。

第3章 医者がメスを握るとき

●意味のない手術

二十世紀後半の医学が後世に語り継がれるとき、次の二つのことが必ず話題にされるだろう。
ひとつは薬禍である。奇跡とまで称賛されたペニシリンやコルチゾンが薬漬け医療を生んだ。そして、もうひとつが手術禍である。生身の体を刃物で切り裂く蛮行が毎年数百万例も年中行事のように行われているのである。
かつてアメリカ議会小委員会が提出した資料には、国内で行われた手術の実態が次のように報告されている。
毎年二四〇万例以上もの必要のない手術が行われ、そのために四〇億ドル以上が浪費されている。
術中・術後に死亡する年間二五万人にものぼる患者のうち、その五パーセントにあたる一万二〇〇〇人以上がこうした不必要な手術の犠牲者である。
健康調査グループという独立機関の調査では、必要が認められない手術は年間三〇〇万例以上とされ、さらに複数の調査が、その数は全手術の一一~三〇パーセントを占めていると伝えた。私は、手術の九割前後が時間・労力・費用ともに無駄であるばかりか、なにより手術そのものが尊い人命を奪う結果になっていると考えている。
手術を勧められた患者を調査した研究によれば、そのほとんどのケースに手術の必要が認められなかったばかりか、調査対象となった全患者の半数が、そもそも医療処置そのものが不要だったことが判明している。
手術で切除された体組織を調べる委員会が結成され、その結果が驚くべき統計となって発表されている。
ある病院では、委員会が結成された年の前年に二六二例の虫垂摘出術(盲腸の手術)が行われていたが、翌年には一七八例に減少した。そればかりか、その後数年間で六二例にまで激減した。その結果、「正常な虫垂」が摘出される割合も五五パーセントと半減している。同様の現象はほかの病院でも見られ、委員会の結成を契機に、この摘出手術が三分の二も減少した病院のこともあわせて報告されている。
ただ、委員会を構成するメンバーは、いずれも現代医学教を信奉する医者たちである。したがって、彼らが効果があると信じて疑わず、しかも頻繁に行われているがん手術、冠動脈バイパス手術、子宮摘出術などといった何十種類にもおよぶ手術については、この調査の対象にはなっていない。
必要もない手術の被害をいちばん受けているのが子供である。
扁桃摘出術(扁桃腺の摘出手術)はアメリカで日常的に行われている手術のひとつで、子供の手術の約半数を占めている。だが、その有用性となると、実は一度も証明されたことがないのである。
私が子供の泌尿器検査を廃止して、知人の医者から「営業妨害だ」とクレームをつけられたのと同じころの話である。扁桃腺の肥大を検査しない私の診察方針をめぐって、このときも同じようなトラブルが発生した。
扁桃摘出術が本当に必要となるのはきわめてまれで、一〇〇〇例に一例あるかどうかぐらいのものである。子供が大きな寝息を立てて、いびきをかいて眠っていてもなんら問題はない。危険なのは扁桃腺が肥大して呼吸に支障をきたし、窒息しそうになっている場合だ。この場合に限れば、息ができずに苦しんでいる子供を前にしてわざわざ問診などせずに、すみやかに扁桃腺を摘出すべきだということはあるかもしれない。
私は外来病棟の医者に、無意味な質問は控える指示を出した。当然、扁桃摘出術は激減した。そのあとで何が起こったのかはお察しいただけるだろう。すぐに耳鼻咽喉科の所長から、「そんなことをされたら医学生の研修計画が台なしになる」という苦情の電話がかかってきた。
扁桃摘出術は、ヨーロッパで二千年以上も前から続いている手術である。しかし、摘出したからどうなるのかについては、まったく証明されていない手術でもある。医者の間でもこの手術の是非については、いまだ意見の一致は見ていない。
登山家は高い山を前にすると無性に登りたくなるというが医者は腫れた扁桃腺を見ると無性に切りたくなるのだろう。その理念たるやかくの如しである。
「そこに扁桃腺があるからだ」
医者の巧妙な説明のおかげで、親は子供の扁桃摘出術が安全だと信じている。だが、はたしてこの手術は本当に安全なのだろうか。
扁桃摘出術による後遺症はほとんどないが、皆無というわけではない。死亡率は三〇〇〇人に一人、あるいは一万人に一人という調査もある。だが、精神面に残す「後遺症」は多い。
手術のあとでアイスクリームを好きなだけ食べさせてもらっても、そんなことでは子供の心は癒されない。親と医者がぐるになって自分を痛めつけたという思いにかられ、その恐怖に子供は苦しむ。
術後の子供たちには悪い影響がはっきりと見てとれる。うつ状態になって、悲観的な気分に悩まされ、恐怖におびえ、家庭でもおどおどとふるまうようになる。
これは子供の責任ではない。かわいそうに、子供たちは、扁桃の摘出という愚劣で危険な状況に自分が置かれたことを敏感に感じ取り、心に深い傷を負って苦しんでいるのである。

●出産に医者がかかわる理由

女性もまた不要な手術の犠牲者である。子宮摘出術はその典型的な手術で、いまも着実に増加している。
国立健康統計センターの推計では、一九九〇年代になって子宮摘出手術を受けた女性は年間約七五万人、一九九六年現在で、累計約二〇〇〇万人のアメリカ人女性がこの手術を受けている。
これは帝王切開に次ぐ数であり、この二つの手術の執刀数は半端な数字ではない。このままでは、アメリカの女性の半分が六十五歳までに子宮を失う計算となる。実際は、これを上回るペースで子宮摘出術は増えつづけているから、状況はいよいよ深刻である。
扁桃摘出術と同じように、子宮摘出術もそのほとんどに必要性は認められない。調査の結果、ニューヨーク市内の六つの病院で行われた四三パーセントの手術が正当な医療ではなかったことがわかっている。子宮からの異常出血がこの手術の根拠となるが、こうした症状には手術以外の治療法も有効だし、そもそも治療の必要などまったくない場合もよくあるのだ。
産科医は外科医の地位と権力にあこがれる。その思いたるやすさまじく、出産という自然の営みを、手術が欠かせない治療の対象に変えてしまったのだ。あたりまえの生理現象をまるで病気であるかのように見せかけて、産科医は治療の名のもとに手術を執り行う。ひとたび治療を受ければ、次には後遺症を抑えるための治療が必要になって、あげくは何度も何度も治療を繰り返す結果となる。
不思議なことに、産科医は罪の償いによって高い評価を得ている。そんな償いが必要になるような見当違いな処置を最初にやったのは、その産科医自身だというのに。

医者は、どのようにして出産に手を出すようになったのだろうか。
中世のヨーロッパでは、医学の主流は薬で治療する内科で、手術が医者の領分だという認識は一般に希薄だった。手術は、理髪師がハサミとヒゲソリをメスとカミソリに持ち替えて、いまで言う外科医の仕事をしていた。「床屋外科医」という呼び名はこれに由来している。
医者が分娩に介入する大きなきっかけとなったのがピンセットである。十六世紀、イギリスの悪名高き床屋外科医ピーター・チェンバレンは、分娩室にいつも大きな木箱を持ち込んでいた。箱を開けるときには人払いをして、陣痛にうめく妊婦には目隠しをした。箱の中身が世間に知られるようになったのは十九世紀のことだった。箱のなかには大きなピンセットが入っていたのだ。
このピンセットはのちに産科鉗子と呼ばれるようになる。そして、遷延分娩(分娩が長引くこと)であるなしにかかわらず、産科鉗子を使って胎児を摘まみ出す鉗子分娩が発明されると、これを境にして陣痛と分娩は手術の対象としてあつかわれるようになっていった。
分娩への本格的な介入は、医者が出産に興味を抱いたことから始まった。医者は助産婦と競い、それに勝利を収めると、やがて出産に指示を与える役割は助産婦から男性の医者に移っていった。まもなく産室も家庭から病院へと移し替えられていく。出産を病気であるかのように装うには、これほど目的にかなった場所もあるまい。こうして、男性である医者が出産をとりしきるようになったのである。
彼らは助産婦なら絶対にしなかったことをした。解剖室で死体をあつかったあと、手も洗わずに産科病棟におもむき、そのまま分娩に立ち会ったのである。案の定、助産婦時代と比べると、母親と赤ん坊の死亡率は急激に上昇した。
十九世紀なかば、オーストリアの首都ウィーンの病院にハンガリー出身のイグナツ・ゼンメルワイスという産科医がいた。一八四七年、彼は妊婦と新生児の死亡率が高いのは、医者に原因があると考え、医者が「病気の代理人」になっていることを指摘した。だが、ゼンメルワイスは「ブダペストから来た愚か者」という汚名を着せられて医学界から追放され、一八六五年には精神病院に送られるはめになった。
その後、医者は出産に立ち会う際、必ず手を洗わなければならないというゼンメルワイスの提案が受け入れられるようになると、母親と赤ん坊の死亡率はたちまちのうちに下降した。しかし、その功績がゼンメルワイスに与えられることはなかった。医学界が横取りしたのである。
産科医の権力はさらに強大なものに化していった。麻酔によって妊婦を意識不明にすることができるようになったからである。意識がなければ、出産に臨んでも妊婦は息むことができず、自力で子供を産むことはできない。こうして、産科鉗子が普及していき、鉗子分娩が定着して現在に至っているのだ。
陣痛が起きると、妊婦には鎮痛剤が与えられ、両足は左右の支脚器に乗せられて、点滴装置と分娩監視装置につながれる。こうした手続きを経て、妊婦は手術を行う態勢に完全に組み込まれていく。
まな板の鯉を前にして、産科医がこの絶好の機会を見逃すはずはなく、ある手術を発明した。それがえいん切開だった。
膣がもっと広がるように、えいん部(外陰部と肛門との間)にはすかいにメスを入れる処置はいまでは当然のように行われているため、産科医はもちろん、ほとんどの妊婦もえいん切開に疑問を感じていない。
産科医はえいん切開についてこんな主張をする。
「手術によってえいん部を切開しておけば、自然にできるえいん裂傷よりも傷口はまっすぐだから早く治る」
だが、これには見落とされている事実がひとつある。それは、妊婦が意識不明にさせられずに、分娩の知識と経験のある人からそばで指導を受けて、分娩の準備が心身ともに整っていれば、息む方法とタイミングがつかめるということである。意識がはっきりした状態で妊婦が分娩に臨めば、えいんに裂傷が生じることはまずありえない。
赤ん坊が出てこれるように、もともと膣は十分に開くようにできている。かりにえいんに裂傷が生じたとしても、「えいん切開の方が早く治る」などと産科医が言い張る根拠はどこにもないのだ。それどころか、私の臨床経験では、傷口は自然にできたものの方がえいん切開でできた傷よりも治りは早く、不快感もずっと少ないことがはっきりしている。それと、えいん切開はセックスの快感を弱めてしまうようである。

●出産は「九時から五時まで」

「1・産科医がえいん切開という簡単な手術でいつまでも満足するはずはなく、彼らはさらに過激で危険な処置に挑戦してみたくなった。分娩室という舞台には、異常を異常とも感じさせない何かが潜んでいるようである。
一般に、医者には、異常が認められれば医療処置を行う必要があり、その処置は過激であればあるほどいいと考える傾向がある。
分娩室には保育器が置かれているので正体は巧妙にとりつくろわれているが、そこは紛れもなく手術室である。だから、産科医はここではそれにふさわしい本格的な手術が行われるべきだと考えている。そこで、現代産科における不気味としか言いようのない儀式が生み出されるに至った。それが帝王切開である。現在、アメリカでは帝王切開がまるで流行病のように蔓延している。
分娩の監視は、従来は妊婦の腹部越しに聞こえる胎児の心音を聴診器で聴いて行われていた。最近では、陣痛の際に妊婦の腹部にベルトを装着して、超音波で胎児を監視する分娩監視装置(胎児モニター)が主流になっている。
分娩監視装置に妊婦をつなぐのは帝王切開を行うための布石である。胎児の状態にかかわりなく、モニターの画像が異常を知らせれば、産科医は急いで妊婦の腹壁と子宮壁にメスを入れて胎児を取り出す。
産科医のこの処置を妊婦は「奇跡」と誤解して感謝する。産科医は、生命を死の淵から、あるいは体に重大な障害を残す瀬戸際で救ってくれた命の恩人だからである。しかし、この装置を使った妊婦には、聴診器を使用する旧来の方法に比べて、三倍から四倍の確率で帝王切開が行われていることが研究で明らかになっている。
帝王切開を望んでいない妊婦もいる。こんな場合に医者が使う手口とは、モニターの画像を見せて、妊婦に異常を知らせる信号が出ていることを教え諭すことである。
「いざ出産というときに、自分の感情や希望を言うものではない。異常を知らせる信号が出ているというのに」
妊婦がこの装置を拒まなくてはならない理由はこれだけではない。分娩監視装罹を使って生まれた子供には、その後の人生で行動面や発育に問題が生じてくると報告する研究があり、しかも、その確率はこの装置を使わなくなった場合に比べると六五パーセントという高率だという。
「いざ出産というときに、自分の感情や希望を言うものではない」と産科医が言うのには、実はもうひとつの理由がある。それは産科医本人の都合である。多くの病院では、陣痛誘発によって出生時刻を調整して「九時から五時まで」に出産させることが習慣になっている。
陣痛誘発とは、陣痛が始まるのを待たずに、妊婦の微弱陣痛を理由に、陣痛促進剤を使って人工的に陣痛を起こさせることである。産科医は産科医なりに計算して出産予定日を算出するが、その結果は六週間もずれることさえある。
そこで、赤ん坊が産道を通過する準備ができているかどうか(医学的適応)におかまいなく、産科医本人の都合(社会的適応というより「個人的適応」と言った方がいい)が優先されて陣痛促進剤が投与されることになる。胎児にはまだ生まれる準備ができていないから、モニターの画像に異常が現れやすいのは当然なのだが、結局、経膣分娩はとりやめられて帝王切開に切り替えられる。
未熟児出産に伴う肺結核、発育不良、肉体的障害、知的障害などは、陣痛誘発によってさらに起こりやすくなる。新生児の集中治療室に収容されている赤ん坊の四パーセントは、陣痛誘発によって生まれてきた赤ん坊である。
陣痛促進剤の犠牲者は新生児にとどまらない。母親も集巾治療室に入ることが多い。帝王切開で子供を産んだ半数の女性は後遺症に苦しみ、これが原因で死亡する者も少なくはない。しかも、その確率は経膣分娩の二六倍という高さである。
胎児モニターの名称は、分娩監視装置ではなく母親と赤ん坊の「分断致死装置」とでも改めた方がいっそふさわしいようである。
周産期を十分に経ていても、帝王切開で生まれた赤ん坊には、硝子膜症(ピアリン膜症)という、呼吸窮迫を伴う重い肺障害を起こす危険がつきまとう。これは時として赤ん坊の命を奪うこともある病気で、その適切な治療法はまだ確立していない。以前は未熟児にしか見られなかった病気である。
帝王切開の場合、未熟児でないにもかかわらず、なぜこのような難病が発症するのだろうか。自然出産では、胎児は産道を通る際、子宮の収縮作用によって胸部と肺を絞り込まれ、肺にたまっていた体液と分泌物は気管支を通って[から吐き出される。だが、帝王切開で生まれた赤ん坊の場合、この一連の経過が欠落してしまうのである。
産科医が慎重に帝王切開を行えば、硝子膜症の発症率は少なくとも一五パーセントは低減できるという研究報告がある。さらにこの研究は、もし産科医が陣痛促進剤の使用を見合わせて、胎児が十分に発育するのを待てば、この病気で苦しんでいる推定約四万人の赤ん坊のうち、少なくとも六〇〇〇人は発症を未然に防ぐことができただろうと報告している。
アメリカでは、陣痛促進剤を使って帝王切開を行うケースはますます増加している。かつて、帝王切開の比率が出産総数の四~五パーセントを超えると、病院は徹底して原因を究明したものである。
しかし、その比率が二五パーセント、全体の四分の一を占めるようになった現在も病院はなんの調査も行っていない。なかにはその比率が五〇パーセント近くにまで達している病院すらある。

●「医学の進歩」という幻想

世間の人は、医学は常に進歩しているものだとばかり思っている。新しい手術が開発され、その効果のほどが立証されれば、日々の医療に応用されて奇跡を生み、奇跡がさらに医学を進歩させる。
しかし、これはとんでもない誤解なのだ。
手術に対する世間の対応は通常、三つの段階を経るものだが、どの段階を見ても進歩とはまったく無縁のものなのである。
第一段階。新しい手術の登場が熱狂的に歓迎される。未知の技術だけに、本来なら疑いの目で見るのが順序だが、現代医学ではそうはならない。その手術が技術的に可能であることがいったん証明されれば、ただひたすら熱狂的に迎え入れられるのである。
第二段階。その手術が行われるようになってしばらくたつと、その無用性と危険性が露呈する。熱狂のほとぼりが冷め、世間が冷静になったころになって、ようやく疑問の声があがりはじめる。
第三段階この段階については冠動脈バイパス手術(心臓のバイパス手術)を例にとって説明しよう。
一九七〇年代後半から、冠動脈バイパス手術は「最優先すべき手術」という評価を受けてきた。これは脂肪で狭窄を起こしている冠動脈(心臓の周囲を冠状に取り巻いて、心臓組織に酸素や栄養を供給する血管)を迂回して、新たなバイパスを通すという手術である。
開発当時、これでアメリカの国民病と言われる心臓発作を撃退できると誰もが思った。しかし、こんな見かけ倒しの手術では根本的な解決は望めるはずはなかった。いまも何万人もの患者が手術の順番待ちをしているが、その一方で疑問視する人も増えている。
この手術が外科医の短絡的な思惑通りの結果を出せない理由は明らかである。退役軍人局が七年間にわたって、一〇〇〇人以上を対象に冠動脈バイパス手術の予後について調査したところ、次のことが判明している。
・左主幹冠動脈疾患という特殊な病気を除いて、この手術には有用性がない。
・手術をした場合と、内科的治療(主に薬物療法)をした場合とでは、死亡率にたいした差はない。
・軽症患者の場合、治療から四年が経過した時点で、手術をしなかった患者の方がわずかながら生存率が上回った。

また、患者は手術を受けたあとでも運動負荷心電図検査で異常を示していること、手術以外の治療を受けた患者と同じように、心臓発作を再発する危険性が高いことを報告する研究もある。
冠動脈バイパス手術は狭心症の痛みを和らげてくれるようだが、これは自己暗示(偽薬効果ならぬ「偽手術効果」による暗示の効果)か、無感覚(神経経路を手術で切断したため)のいずれかの理由によるものだろうと推測されている。
しかも、この手術には落とし穴がひとつある。それは、いずれバイパスそのものが狭窄を起こしてしまい、結局は手術前の状態に戻るおそれがあるということだ。
心臓病にいちばん効果がある治療法は、食生活の根本的な改善である。心臓を患う人の普段の食生活は典型的な高脂肪型だが、脂肪の摂取量は全摂取カロリーの一〇パーセント以下に抑えなければならない。そして、食事療法に加えて徐々に運動量を増やしていくことが必要だ。この二つの治療法の組み合わせこそが、心臓病の諸症状を緩和し、本当の意味での治癒を可能にすることが実証されている。
以上のことから、冠動脈バイパス手術は最終段階を迎える。
第三段階。手術の廃止。
とはいえ、手術というものはそう簡単に廃止されるものではない。とくに、冠動脈バイパス手術のように、一例四万ドル以上もの莫大な利益をもたらす手術であればなおさらである。わずか五センチから八センチ程度の狭窄部位を迂回したところで、全身の血管の残り九九・九パーセントの部分にはまだ脂肪が詰まったままである。にもかかわらず、この手術は、年間三〇万例以上も行われていることからもわかるように、いまだに多くの人々を魅了しつづけている。手術にかかっているのは費用と医者の生活だけではない。患者の生命がかかっていることも忘れてはならない。
冠動脈バイパス手術を廃止するには、数十年前にある外科医が示したような勇気が必要である。この外科医は、当時流行していた散剤散布法という心臓手術を指弾した。
散剤散布法は患者の胸部を開き、心臓の表面にパウダーを散布するだけという単純なものである。
パウダーを使ったのは、おそらく胸の内部と脈管に炎症を起こさせることで新しい血管を発達させ、血液の循環を促そうとしたのだろう。
当時、この手術は好評を博していた。そこにこの外科医が登場する。何人かの心臓病患者の胸部を開き、うち半数の患者にはパウダーを使用し、残りの患者には何も使わずに、両群の有意差がどれほど出るかを見極める無作為比較試験を行ったのである。その結果、両群の成績はまったく同じであることが判明した。散剤散布法という手術には、意味がないことが実証されたのである。
手術というのはいかにも合理的に見えるものである。だから、数ある臨床例のひとつで実態が暴かれたくらいで、現代医学がその手術を廃止するわけはない。実際、現代医学の主要分野の手術のほとんどは、何年も前から非合理的で見せかけにすぎないことが暴かれているのだ。
手術に有用性を見いだすことは至難の業である。だが、これを儀式と考えるなら話は別だ。手術には効力があり、しかも現代医学教の儀式としては不滅ですらある。儀式として代表的な手術を三つあげておこう。
まず、前にも述べた扁桃摘出術。この手術は二千年前に全廃されるべきだった。にもかかわらず、現代医学教の儀式としていまも頻繁に行われている。
次に斜視矯正術。扁桃摘出手術と同じく、斜視矯正手術にも有用性は認められない。眼科医は、「たとえ程度は軽くても、子供の斜視は手術で矯正しないと、いずれどちらかの目が失明しますよ」
こう言って親を脅す。だが、斜視であっても眼科医に行かない人はいくらでもいる。眼科医の脅し文句が本当なら、国中が数百万人、あるいは数千万人の片目が不自由な人たちであふれかえっているはずだ。
そして心臓病の手術。冠動脈バイパス手術が過大に評価されていることはすでに指摘されている。
だが、現代医学教の儀式を執り行う医者は、同じように無用な技術を駆使して、ほかの心臓病に対しても新技術の考案に明け暮れているのである。
アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの時代には、ヒルを治療に使っていた。現代医学のがん治療も、未来の人たちの目には同じように映るだろう。がん手術が非合理的なものであることを、早くも一九五〇年代に指摘した医者がいる。イリノイ州立大学のウォーレン・コール博十である。
博士はがん手術を行ったのち、患者の末梢部分の血液を検査して、手術が原因でがん細胞がすでに全身に転移していることを立証した。だが、ほかの医者たちは、
「がん細胞は転移したが、まだ侵されていない部分はがん細胞を抑制することができる」
と反論した。しかし、これはばかばかしい反論である。もし、がん細胞の転移を体が抑制できるというのなら、誰も初めからがんなどになりはしない。
「がんと闘う新技術が開発されて、がん手術がおびやかされている」
こんな主張をする外科医が一部にいる。しかし、その理屈は逆である。世間が新しい治療法に夢と希望を託すのは、がん手術が失望の繰り返しだからではないのか。
しかし、外科医はこのことを絶対に認めないだろう。

●医者の都合と手術

あまりに多くの手術が行われているのが現状である。その原因についてよく質問を受けるが、私の答えはこうである。手術のやりすぎを否定する理由は究極的にひとつしかないが、それを正当化する理由は数限りなくある。
手術のやりすぎがいけないのは、それが患者に苦痛を与え、生命を危険にさらすばかりか、医療費のむだ遣いになるからである。しかし、現代医学はそんなことはいっさい考慮しない。やりすぎを是とする理由は、そのどれもが現代医学教の教義と一致する。
手術は患者の症状を改善し、病気を取り除くという建前で行われている。だが実際には、手術には隠れた目的がある。医学生の重宝な教材として、人体を使っていろいろな実験ができるのだ。
イリノイ州精神保健局小児科上級顧問だったころ、私は心臓に障害をもつダウン症児たちに行われていた手術をやめさせた。
その手術は、脳に酸素をスムーズに供給することを表向きの理由にしていたが、本当の狙いは、医学生に心臓手術の実験台をスムーズに供給することにあった。その証拠に、ダウン症児たちがその手術を受けても脳の改善は何ひとつ認められなかった。執刀医たちもそれは知っていた。
この手術は根本的に間違っていた。しかもその間違いは、数多くのダウン症児たちを死に至らしめるほどの致命的な間違いだった。
手術をやめさせたことで、大学病院側はかなり私のことを不快に思っていたようである。
金銭欲もまた手術のやりすぎを招く原因である。経済的な理由がすべてとは言わないが、もし不要な手術をすべて廃止すれば、外科医のほとんどは路頭に迷い、まっとうな仕事を探さなければならなくなる。
外科医は手術で生計を立てている。執刀数と関係なく、安定した給与が支払われる定額払い制のもとでは、子宮摘出術と扁桃摘出術の二つの手術は、出来高払い制と比較すると、約三分の一しか行われていないというデータがある。
アメリカにいる六〇万人余りの医者のうち、一〇万人は外科医である。この人員の一〇分の一程度なら、不要な手術はかなり減るだろう。アメリカ外科医師会でさえこう言っている。
「認定外科医は五万人から六万人、これに研修医と専門医学実習生が一万人もいれば、今後半世紀にわたって必要な手術が余裕をもって行える」
この意見が現実のものとなれば、半数近くの外科医が経済的に追い詰められることになるだろう。
いずれにしろ、現在の外科医の半数近くが余剰人員ということになる。つまり、五万本近いメスが患者に害をおよぼす「凶器」になっているのだ。
医者の無知も手術のやりすぎをあおっている。婦人科を例にとると、そこで行われている手術の多くが不適切で時代錯誤なものであるばかりか、愚かしい慣習がまかり通って、いかにも「産婦人科」
ということを感じさせる。こうしたことをすべてやめれば、子宮摘出術を含めて婦人科の手術はひとつ残らず消滅するはずだ。
医者なら、生理不順の女性がピルを服用すれば、膣がんや子宮頸がんになりやすいことくらい知っているはずだ。生理不順の原因しだいでは、ピルの服用は生理不順の一〇倍以上も危険である。だが、そこまで慎重投与を心がける医者はいない。
ある女性は、ピルの危険性についてなんの説明も受けないまま、数年にわたってこれを服用していた。ピルを飲んだ最初の生理で、この女性はひどい出血を経験していた。出血はこの女性がピルを飲んではいけないことを知らせる危険信号だったのである。細胞診で異常が明らかになったときでさえ、婦人科医はこんなことを言ったという。
「心配はいりません。いざとなれば子宮はいつでも摘出できますから」
彼女が次に訪れた婦人科医は別の診断をした。
「比較的簡単な手術ですが、いますぐにやらないと数年以内に間違いなく子宮摘出術を受けることになりますよ」
その「比較的簡単な手術」も、最初の婦人科医がピルの危険性を説明していれば避けられたはずなのである。
金銭欲と無知もさることながら、手術のやりすぎを招くいちばんの原因は、基本的には「信念」の問題である。医者は手術に意義を見いだすばかりか、メスで人の体を切り裂くことになんとも言えない魅力を感じる。だから、その魅力を堪能すべくあらゆる機会を利用して患者を手術台に招くのである。
手術とは、医者にとって進歩を意味する。進歩は医者に優越感を与え、ほかの医者を凌駕したという意識にひたらせてくれる。
アメリカは、技術的に可能であればなんでも実行に移す国である。その際に倫理的考慮はほとんどなされない。道具・装置・設備が整い、実行可能でありさえすれば、その手術は正当な医療だと判断されるのだ。だから、アメリカでは冠動脈バイパス手術、扁桃摘出術はもとより、性転換手術まで「正当な医療」として行われているのである。

●儀式としての手術

人類最初の手術である割礼がそもそも宗教儀式だった。今日行われている手術の九割も宗教儀式である。
原始的な宗教では、信者は「切り裂きの儀式」に身をゆだねることでより高い意識へと飛躍する。
激痛か、薬の作用か、はたまたその両方によってか、信者は神と交わるという幻覚を体験する。この特権は神官か特殊な地位にある者に限られていた。キリスト教では、イエスと殉教者たちだけが礫刑の儀式によって崇拝の対象となった。
現代医学教では、この儀式の特権は無差別に与えられている。麻酔の発明以前は、犠牲者は歯を食いしばり、苦しみに悶えながらもはっきりと神の姿を見て、そして失神した。いまでは、仮死状態の犠牲者は外科医によって息を吹き返し、死の淵からの生還を果たすことができる。この体験は局所麻酔の発達によって、意識を失うこともなく、外科医が執刀するのを見届けるまでになった。
子供は手術の跡を人に見せびらかして喜ぶ。とくに医者の子供の体には傷痕があることが多い。医者の家族は普通の人たちより、手術を受ける機会が多いものなのだ。これは、患者にこの儀式の力を信じさせるだけでなく、医者自身も信仰していることのあかしである。
では、医者は自分でもこの儀式を受けるだろうか。
狂信者が真の狂信者かどうかを知る方法は、人に勧めることを自らも実行するかどうかである。医者もやはり、犠牲者になるために自分の手術の順番を待っている。
現代医学にとって手術は信仰である。不気味なのは、その信仰を根底から支えている思い込みである。手術を行えば体に現れる問題はすべて克服されると医者は信じ切っており、患者にもそのように暗示をかけている。
「病気になったとき、自分で治そうとしてはいけない。異常を感じたら、すぐに医者に診てもらいなさい。手術の力を信じなさい。手術を受ければ治るのです」
現代医学教は既成の宗教の聖職者をも信者に変えた。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教といった伝統的な宗教の聖職者たちですら、手術台という、現代医学教の聖櫃に宿る力によって体は癒されると信じ込んでいる。

●手術からわが身を守るには

手術から自分の身を守るには、まず自らが学び、知識を身につけるべきだ。自分の病気については、医者の知識を上回る努力が必要である。図書館に行けば、本や機関誌、雑誌などから必要な情報を得られるだろう。
扁桃摘出術、子宮摘出術、ヘルニア手術などの頻繁に行われている手術を勧められたら、とくに警戒が必要だ。どんな場合でも、手術が人の体をメスで切り裂く蛮行であることに変わりはない。医者は必要だから手術を勧めている、などと思ってはいけない。
手術を勧めてきたら、すかさず次のような質問を医者に浴びせよう。
「この手術で期待できる効果は何ですか?」
「どうしてそういう効果が得られるのですか?」
「手術を受けなければどうなるのですか?」
「手術以外の治療法はないのですか?」
「手術で期待通りの効果が得られない可能性はどれくらいありますか?」
医者から答えを引き出したら、それをじつくりと吟味する。深く掘り下げて考えれば、医者の言つていることに矛盾があることに気がつくはずだ。それが本当の答えである。
セカンド・オピニオン(主治医以外の医者の意見)も必要である。ただし、主治医と同じ病院の医者に意見を求めても意味はない。中立の医者を見つけ、主治医にした質問と同じことを質問する。意見が違っていれば、主治医にそのことを話せばよい。
それでも納得できなければ、主治医に頼んで、その手術を行っている何人もの医者に集まってもらい協議をさせる。大げさすぎると思うかもしれないが、なにしろ自分の体が刃物で切り裂かれるかどうかなのだ。三、四人の医者に意見を聞くぐらいのことでためらってはいけない。現状は手術のやりすぎである。主治医に勧められている手術も、実は不要だという可能性は十分にあるのだ。
「手術しか治療法がない」と医者が言ったときはかなり危ない。その判断が誤っていることが多いし、そもそも手術が治療法だというのが誤りかもしれない。またひょっとすると、本当は自分の体には問題がないかもしれないのだ。
自分で集めた情報、そして意見や感情を医者にはっきりと言ってみる。医者の反応から何かがわかってくるはずだ。また、友人、隣人、家族のなかから知恵を貸してもらえる人を探し出し、その人たちからも意見を聞いてみるのもいい。
こうして意見を聞いたうえで、手術は必要ない、受けないと判断したら、すぐにその医者と縁を切ることだ。申し訳なく思う必要はない。「手術は受けたくありません」と宣言するのがいちばんすっきりするが、言いにくければ「考えておきます」と逃げておいてもいい。
医者にしてみれば、手術を受けるように説得してきた手前、いまさら立場を変えるわけにはいかない。「手術しか治療法がない」と断言してしまった以上、ほかの治療法を勧めることは立場上できないのだ。手術を拒否したために医者を一人失うことになっても後悔する必要はない。むしろ自分の身のためである。
手術を受けることを決心した場合も、横になって儀式の進行をただ待っていればいいわけではない。
「誰が執刀しようと同じだ」と言う医者もいるが、それは違う。医者によって技量の差は大きい。家の改装、車の修理の上手下手が、担当する修理工によって違ってくるのと同じである。胆嚢の摘出術にしても、技量の違いが成否を大きく左右する。
「手術を受けなくてはならないが、外科医の選び方がわからない」という質問をよく受けるが、「手術を受けなくてはならない」というのは緊急の場合だけのはずだ。例えば事故に遭って手術を受ける場合、外科医の選択などしていられる状況ではない。緊急事態でないのならば時間は十分にあるはずだから、本当に手術を受ける必要があるのかをもう一度よく考えてみて、そのうえでやはり必要ならば、どの外科医がふさわしいのかをじっくり考えてみればいい。
外科医を選ぶ際には次の質問をしてみるといい。
「先生がこれまでに行ったこの手術の執刀数は?」「その成功率は?」「後遺症の確率は?」「死亡率は?」「術中・術後に死亡した患者の数は?」
そして、こうたずねる。
「この手術を受けた患者を紹介していただけませんか。その人たちの体験をぜひ聞いてみたいのです」
とくに私が勧めるのは次の質問である。
「もし先生が出張で執刀できない場合、どの外科医を推薦されますか」
あるいはこんなふうにも聞いてみる。
「先生ご自身がこの手術を受けるなら、どの外科医に執刀を依頼されますか」
この質問によって勧められていた手術よりも、簡単な手術で済むことがあるのだ。
そして、もう一度こう念を押す。
「本当に手術が必要なのですか」
いったん手術を受けると決意したのだから、これは無駄なように思えるかもしれないが、もしかすると貴重な情報が得られたり、手術以外の治療法を行う医者に巡り会えることができるかもしれない。
複雑な手順を踏む手術なら、その手術の権威に電話でたずねてみるのもいい。遠方に住んでいて会いに行けなければ、近くの医者を紹介してもらうこともできる。また、友人や家族の協力で、ふさわしい医者を探してもらうのもいい方法だ。しかし、紹介された医者の評判がどんなによくても油断してはいけない。また、説明を聞いてわからない点は、そのままにしておいてはいけない。
手術のあとも注意を怠ってはいけない。手術が計画通り行かなかったり、合併症や後遺症が現れれば、急いで検査を受ける。薬の副作用と同じように、一過性で害がない症状もあるが、場合によっては命取りにもなりかねないことがある。術後の問題で別の医者に相談するときは次の質問をする。
「私の主治医が執刀したこの手術について、率直な意見を聞かせてください。場合によっては、私の主治医に対して医療過誤の訴訟を起こすかもしれませんので」
返答しだいで、その医者を信頼すべきかどうかがわかる。簡単に医者を信頼しないこと、それが過剰な手術から我が身を守る基本である。
メスであなたの体が切り裂かれようとしているのだ。その医者が本当に信頼するに足るかどうかを見極めるのに、用心しすぎるということはない。

第4章 病院にいると病気になる

●子供はなぜ病院が嫌いか

病院は戦場である。人はそこに足を踏み入れない方が身のためである。もし、踏み入れてしまったら、一人でも多くの人を助け出し、いっときも早く脱出しなければならない。
高い入院費を考えれば、その金でどんな保養地でも思いのままに過ごすことができる。緊急の場合を除けば、どうせ同じ時間と費用がかかるのなら、転地療養に充てた方が入院するよりは効果があるだろう。
病院とは現代医学教の教会であり、この世で最も危険な場所のひとつなのである。
人間が家を構えて住み着くようになれば、人間があがめる神にも定住する場所が必要になる。こうして、神を祭る教会や寺院が建設されるようになり、その宗教ならではの啓示はここで教え示される。
病院とは、現代医学教の神の預言の場なのである。この宗教の軍門にくだっていない国から来た移民、とくに高齢者のなかには、「病院は死ぬために行くところだ」「あんなところに入ったら死んでしまう」と言う人がいる。彼らの耳には現代医学教の恐ろしい神の声が聞こえてくるのだろう。
子供もあからさまに病院を嫌い、その気持ちを隠さない。
「病院は怖いから行きたくない」
子供の鋭い直感力は病院の本質を見抜いているのだ。医者を恐れる子供の心理から何かが学び取れるように、子供が病院を恐れる心理からも学ぶものがあるはずだ。もちろん、病院の何がそんなに怖いのかとたずねても、子供にはそれをきちんと説明することはできない。だが、これは大人も同じだ。
大人も病院の何に恐怖を感じるのか、それをわかるように説明することはできない。しかも、大人は自分が怖がっているという事実を認めたがらない。
世間のこうしたあいまいな態度につけこんで、医者は「怖いことは何もない」と言って病院に招き寄せる。だが、病院では恐怖が次々と襲ってくる。
病院に住む神、それは患者を死に導く死神なのである。

●病原菌だらけの病院

病院には、よそではまず見当たらない細菌が無数にひしめいている。これは、病院が非衛生を極めた場所であるからというだけではなく、現代医学が「清めの儀式」に病的なまでに固執した結果でもある。逆説的に聞こえるかもしれないが、これは事実なのだ。
言うまでもなく、病院は本来清潔であるべきところだが、実際にはお世辞にもそうとは言えない。
清掃係はいつも足りず、一人一人に負担がかかりすぎている。目につく場所だけがほどほどに掃除されて、隅や奥の方にはほこりやちりがいっぱいたまっていたりする。しかも、病院のほこりやちりは普通のものではない。
病院で毎日のように出てくる廃棄物にはこんなものがある。
まず、生活廃棄物。調理場で捨てられる肉・魚・野菜・残飯、石鹸、ごみ、体のあか、排泄物、疾、唾液。そして、医療廃棄物。手術や解剖で摘出された胎盤や臓器、切断された手足、実験動物の死骸、使い捨てのおむつや詰め物、カテーテル容器、マスク、消毒綿、衛生ナプキン、ギプス、注射器、包帯、ガーゼ。
ひとつの建物からこれだけの種類の廃棄物が大量に出るところは、病院以外にはおそらくない。これらを集めて捨てに行くのは、病室、手術室、実験室、研究室、死体置き場、調理場のゴミ処理のすべてを担当している清掃係である。
ワシントンの公立病院で、患者を運ぶ担架が解剖用の遺体運搬にも使われていたことがばれてしまった。これだけでもひどい話だが、担架にはいろいろな残りかすが付着したままだった。救急処置室や床、死体置き場からは臓器や排泄物が出てきた。ほこりのたまっていた病室では排泄物がこびりついた衣服と注射針が見つかった。シャワー室は不衛生を極めていた。
長年、病院に勤務してきた私からすれば、こんなことは別に驚くほどのことではない。どこの病院も似たようなもので、これぐらいはむしろ普通なのだ。さらに、そうしたほこりやばい菌をエアコンが病院中にまきちらしている。
病院には普通の建物よりも排水管が多く通っている。熱湯と冷水のほかに、冷却水と蒸留水のための真空装揖、吸入装置、酸素吸入装置、冷却装置、冷却水再利用装置、排水装置、下水設備、洗浄装置、防火装置(たいてい故障している)などが壁や床を通して設置されている。接続ミスで事故が発生しやすいばかりか、機器が多すぎて、たこ足配線となって建築基準法に違反している場合はさらに危険である。

●清潔という落とし穴

病院では耐性菌(薬を繰り返し使用することで、その薬に対して抵抗力をもつに至った細菌などの病原体)が発生している。抗生物質の過剰投与がその原因になっているのは第2章で述べた通りだが、抗生物質をスープのように垂れ流している現代の病院ほど、耐性菌の繁殖に理想的な環境はあるまい。
細菌のなかには抗生物質をエサにするほどの順応性を備えたものがいるのだ。これこそ清めの儀式に病的なまで固執した現代医学の皮肉な結果にほかならない。
病院の職員は「歩く細菌培養皿」とでも言うべき存在である。毎日細菌と接している彼ら自身には被害はないが、患者こそいい迷惑である。患者が被害に見舞われるのは、清掃係や看護婦がベッドの準備や食事のしたくをするとき、衣服の後かたづけをするとき、そして、なにより患者に直接触れるときである。
病院には清掃係や看護婦よりさらに手強い感染源が存在する。医者である。手を洗うのは手術の前だけ、それも儀式の一環としてであり、それ以外はほとんど洗おうともしない。
医者は、舌圧子(舌を押さえるへら状の器具)や注射器を無造作にあつかって、患者の体に平気で触れてくる。ところが、自分だけは特別に清潔だと考えているらしく、診察の合い間も手を洗おうとは努めない。キャップやマスク、ゴム手袋に厚い信頼を寄せているが、これらはどれをとっても清潔であるとは言えないしろものばかりだ。マスクは一〇分も使えば汚れて、細菌除けになるどころか「細菌寄せ」になっているし、ゴム手袋はいつ見ても汚れている。
私が新生児保育室に入るときには、その朝に身に着けたばかりのクリーニング済みのスーッ姿で入ることにしている。ところが、私を見つけると、どの看護婦もあわてて、「白衣を着用してください」
と必ずとがめる。そんなとき、私は「このスーツは、君のお気にめさなかったようだね」と切り返すことにしている。
看護婦たちのこの反応は、白衣という「祭服」を重んじるあまり、現実が見えなくなっているせいなのだ。彼女たちが私に着せようとする白衣が、クリーニングしたてのスーツより清潔だという保証はどこにもない。現実はむしろ逆で、白衣は棚ざらしにされ、洗濯がきちんとされているのかも疑わしい。洗うときには、汚れたシーツや枕カバー、手術室のリネンなどと一緒くたに洗濯機に放り込まれているのである。
白いからといって白衣が清潔とは限らない。ベッドも同じで、シーツと枕カバーは洗濯されていても、マットレスと枕はそのままである。

●院内感染を生み出すもの

総合的に見て、院内感染は二〇人に一人の確率で発生している。原因の半数は、カテーテルや点滴装置などの汚染された医療器具によるものだが、こうした器具が日常的に使われ出したのは六〇年代半ばで、それ以前は医療器具による感染はほとんど見られなかった。
アメリカでは、院内感染によって死亡する患者は毎年相当な数にのぼっている。だが、薬害で死んだときと同じように、院内感染で死亡した場合も、その統計は病院の職員たちによって改窒されることがしばしばある。
病院でどういう危険にさらされるかは患者の病状しだいである。手術で入院する場合は、メスで切り裂かれることに加えて院内感染の危険がある。術後は細菌に対する抵抗力が落ちているためである。
やけどやけがで通院する場合も、体力が落ちているのでやはり院内感染にかかりやすくなっている。
院内感染の可能性が二〇人に一人というのは、感染の可能性を最小限に見積もった場合である。伝染病が病院内に瞬く間に広がって、職員も患者も全員避難しなければならなかった例を私は何回か見てきた。
この場合、小児科病棟と新生児室が最も被害を受ける。病院の秘密を明かせば、院内感染の犠牲者がいちばん多いのが新生児保育室なのだ。新生児は細菌に対する免疫をまだ獲得していない。とくに、免疫を授ける母乳で育てられていない赤ん坊(人工栄養児)が犠牲者になりやすい。
細菌が繁殖しているのがほかならぬ病院であるにもかかわらず、伝染病を発生させた責任が、病院あるいは職員にあるとされたためしはほとんどない。責任はいつも見舞客に押し付けられ、伝染病で騒ぎが起きるたびごとに、決まって面会制限が行われる。しかし、見舞客を病院の外に出すだけでは、問題は半分しか解決されていない。すべてを解決するためには、患者も病院から連れ出さなくてはならない。
こうして救出された患者は、ようやく健康を取り戻していくのである。
病院を汚染しているのは細菌だけではない。病院には、医者の好きな危険な化学薬品がずらりとそろっている。豊富な品ぞろえを前にして、医者に使うなというのは酷な話だろう。
医者の願望はやがて行動となって現れる。
アメリカでは、平均して=一種類の薬が入院患者に投与され、薬害によって障害者になったり、死亡する事故が起きている。そこまでには至らなくても、患者の健康を害する化学薬品には不自由しない。薬を使わない医者もまれにはいるが、ほとんどの医者は薬が大好きときている。おまけに、実験室や清掃施設で使われる毒性の強い溶剤や可燃性化学物質、放射性廃棄物が入院患者の安全をおびやかすのである。

●取り違えられる患者たち

もし、病院が見かけ通り効率よく運営されているのなら、こうした危険に直面している患者も多少は安心して入院できるだろう。しかし、病院は非効率の見本とでも言うべきところである。二択、三択程度の判断を間違えてしまう単純なミスがあまりにも多すぎて、選択肢がさらに多い場合に起こる複雑なミスのことを考えると、空恐ろしいものがある。
病院では混乱は日常のことである。患者の足を間違えて手術した。違う薬を患者に投与した。食事療法の患者の食事を間違えた……。
病院では取り違えが頻繁に発生する。取り違えるのは物とは限らない。患者の取り違えもよくあるのだ。何年も前のことになるが、私の弟がヘルニア手術のために病院に行った。手術は午前十一時の予定だった。午前九時半に私は病室に行ったが、そこに弟はいなかった。ピンときた私は手術室に向かった。案の定、弟はそこにいた。弟はあやうく子宮を切り取られるところだった。
赤ん坊が取り違えられることもある。これは新聞で例年報じられている通りである。産科病棟に勤務したことのある医者なら、看護婦が赤ん坊を間違えて母親に注意される光景をあたりまえのように目撃しているだろう。新生児保育室には平均二〇~三〇人の赤ん坊がいる。赤ん坊の足の指紋をとつても意味がないことは医者なら誰も知っているし、腕輪をはめておいてもすぐにはずれてしまう。病院の職員にとって、赤ん坊を区別することはきわめて困難な仕事なのだ。
さらに、病院で行方不明になった者までいる。エレベーターやあまり使われていないトイレで、患者の遺体が発見された事件が新聞に載ったことがある。また、シカゴ大学附属病院では、赤ん坊が盗まれたこともある。
私が自宅出産を勧める理由のひとつがこれだ。病院で出産すると、退院するときに、よその赤ん坊を抱いて帰るかもしれないのである。
病院では重大な事故も起こりやすい。
ペンシルベニア州郊外のある病院では、救急処置室にガス管を設置する際に、工事を請け負った業者が酸素と亜酸化窒素のラベルを貼り間違えていた。ミスが発見されるまでの半年間、亜酸化窒素(外科用麻酔)を供給されるべき患者は酸素を、酸素を供給されるべき患者は亜酸化窒素を吸っていたのである。
病院は五人の死亡者についてはこの事実を認めたものの、
「ミスがあってから半年の間にここで治療を受けた三五人の患者については、そのミスが原因で死んだのではない」
と発表した。その理由について病院側は、
「患者のうち何人かは病院に運ばれて来た時点ですでに死亡していた。残りの患者についても、たとえ酸素を吸入していたとしてもすでに手遅れだっただろう」
と釈明した。これは医療事故死を隠すときの医者の決まり文句だと見抜いた読者は、なかなか鋭い。
医者が機械に依存するようになるにつれて、病院のなかは電気器具とコードでいっぱいになり、感電の危険は電気代に比例して高くなっている。非衛生的だと指摘された前出のワシントンの公立病院では、三人の患者と医者、それと看護婦が冠動脈疾患集中治療室で欠陥品の電気器具に感電してしまい、重度のやけどを負っている。
この種の事故は珍しいことではない。設備管理を担当する職員が削減された結果、病院特有の複雑な配線をあつかえる者がいなくなったのである。事故は今後ますます増えていくことだろう。
病院の運営というものはかなりずさんで、殺人事件ですらいつ起こってもおかしくはない。ミシガン州の退役軍人行政局病院で起こった、麻酔薬が意図的に患者に注射された事件のことを思えば背筋が寒くなるだろう。この病院では、劇薬の管理態勢がずさんだったため、犯人の手がかりすらつかめず、ついにFBIが捜査に乗り出した。
完全犯罪をもくろんでいる人には、病院はお勧めの場所である。

●病院にいると病気になる

患者は病院に一歩足を踏み入れた瞬間から、そこを出る瞬間(あるいは運び出される瞬間)まで、入院中は生ける屍になったかの気持ちに追いやられる。本人が意識するしないにかかわらず、病院の環境とその待遇によって心の支えをなくし、希望を失い、暗い日々を過ごすうちに心身ともに衰弱していく。こんな状況で楽天的な気持ちでいられる患者はよほどおめでたい人間だろう。
しかも、苦痛にあえぎながら死のとこについている患者たちの悲惨な顔つきと、それを見つめる患者たちの陰うつな顔つきを目の当たりにしなければならない。また、職員が非人間的な対応をして、ものを言う機械と化している姿にも直面する。
受付で手続きを済ませるとき、患者は人格をもった人問であることをやめさせられ、検査値と症状の寄せ集めとしてあつかわれる。自分が自分ではなくなり、治療の対象である「症例」になっていくのだ。いままで暮らしてきた世界をあとにして、本来の自分は過去のものとなる。衣服を脱ぎ去り、それを所持品と一緒に衣装棚にしまいこむとき、これまでの生活の思い出もどこかにしまいこまなければならない。家族や親戚の者との面会時間は制限され、許可されるのは形式的な面会だけだ。
こうした精神的重圧を受けると、患者は自分の健康管理は自分で行うという気概を失ってしまう。
病院は患者に孤立感、疎外感、喪失感、憂うつ感を味わわせ、不安感を募らせることであらゆる要求に従わせる。

患者は精神的に参っていき、やがて「模範的な患者」となる準備が整うのである。
とりわけ、子供と老人はこの「呪い」にかかりやすい。子供の場合、強い不満や失望、親との別離の不安のために激しい感情の起伏に悩まされる。これに手術とか何かいやなことをされるのではないかという恐怖心が加わる。入院してひと晩かふた晩、親と離れて過ごすだけで、子供は退行現象を起こし、トイレット・トレーニングや言葉を忘れてしまうこともあるが、これは決して本人が悪いのではない。
すべての医者は、三歳から六歳までの子供は精神の大混乱期にあることを心得ておくべきである。
この時期の子供には自分に起こっていることがほとんど理解できない。そんな子供を病院に預けて、親は帰ってしまうというのは残酷なことである。病院の環境は子供が一人で耐えるにはあまりに苛酷すぎる。
かなり前のことだが、子供がヘルニア手術を受ける際にどのような想像をするかについての論文を書いた。子供たちに質問をして、自分の身にこれからどういうことが起こると思っているのかを調べたのだ。すると、ほとんどの子供が性器に何かされるように思うと答えた。自分の体のどこが手術されると思うか聞いたところ、手で自分の性器を守るしぐさをした子供が何人かいた。私ははっとした。
大事なことに気がついていなかったのである。論文の結論はこう結んだ。
「医者は事前に子供に十分なカウンセリングを行い、手術についてよく説明しておくべきである」
しかし、いまの私はそんなことをしてもなんの意味もないと思っている。あの子供たちに必要だったのは、両親が付き添うことを医者として保証してやることだったのである。
病院の夜間巡回はいまでもあまり好きではない。泣いている赤ん坊が多すぎるからだ。正直言ってこれには困ってしまう。私は何もせずに放っておけない性分である。以前、夜問巡回中に泣いている赤ん坊や小さな子供を見かけると、抱き上げてナースステーションまで連れて行ったものである。看護婦の膝のうえに乗せてやると、ようやく泣きやむということが何度もあった。
もちろん、入院で苦しむのは子供だけではない。大人、とくに高齢者もまた入院によって苦しめられる。デビツド・グリーン博士はこう言っている。
「病院は高齢者にとってこの世で最悪の場所である」
私もこの意見に同感である。ただ、次のように言った方がさらに的確だろう。
「病院はすべての人にとってこの世で最悪の場所である」
入院患者が受けるストレスは大人でさえ耐えがたいものである。それなのに、大人は、子供がその被害を受けずに入院生活を乗り切れるとでも思っているのだろうか。自分が入院すれば扱いにくい子供のようになるくせに、子供には落ち着き払った大人のようにふるまわせ、別れと恐怖をいとも簡単に克服することを期待しているのではないだろうか。
患者が病院で受ける待遇は、人間の尊厳を完全に無視している。患者は衣服を脱いで病院のお仕着せをまとい、医者、看護婦、技師らの検査攻撃にさらされて、なすすべもなく防戦一方の状態で、ほとんどの時間をベッドで横になって過ごすだけである。自由に動き回ることは許されず、あてがわれた食べ物を口にしなければならない。もちろん、その時間があればの話である。さらに見ず知らずの人たちと同じ部屋で寝泊まりもしなければならない。しかも、その人たちは全員が病人である。
私はこれまで二十五年問にわたって医療現場で働いてきたが、患者が恥辱を受け、人格を否定されることによって健康を取り戻したのを見たためしがない。
伝染病が病院内で広まると、入院患者全員を病院から避難させ、帰宅させるか転院させなくてはならない。こういう事態が発生すると、いつも同じことに気がつく。転院の必要があるほど重症の患者がほとんどいないのである。私はいつも一〇人巾九人は帰宅させていたが、その患者にはなんの問題も起きなかった。
医者になった当時、私は入院がどの程度の患者に必要なのか小規模な実験を試みた。担当していた病棟のベッド数は二八床で、そのときは二四人の患者が入院していた。しかし、どの患者にも入院の必要性があるとは必ずしも認められなかった。
私は入院許可担当でもあったので、患者が来院した際には入院の必要を判定していたが、患者が自宅で治療を受けられるような特別手配もした。例えば、患者が来院する際のタクシー代を病院側が支払うとか、患者が自宅で使用する医療器具を、技術者が軽トラックを使って調整に出かけるというようなことである。
そうしているうちに入院患者は三、四人にまで減っていった。私は入院がいかに不要なのかを見事に証明してみせたと満足していたが、看護婦たちからは、「患者がいなくなるとほかの病棟に異動させられます」と苦情が寄せられ、研修医と専門医学実習医からは、「研究対象が不足して困っている」と文句を言われた。
気がつくといちばん不要だったのはほかならぬ私自身だったのだ。

●患者の権利はどうなっている

病院が氾濫しているのは、医者にとってその方が都合がいいからであって、患者の幸福や利益のためではない。病院の起源は「貧民の家」と呼ばれる施設にまでさかのぼり、医療費を払えない貧しい人たちに、医者が医療を提供する救貧施設として始まった。ところが、しばらくして医者は、
「それだったら、病人をまとめて一ヵ所に放り込み、そこにさまざまな機器も集めて面倒を見ればてっとり早いのではないか」
と考えるようになった。
医療が人間味を失い、機械に依存するにつれて、多くの患者をまとめて病院で管理する方が医者にとってはますます好都合になった。入院患者よりも外来患者の方が、治療をする側にはより高度な頭脳と技術が要求される。だが、才能とか熟慮とかいうものは、医者にはほとんど無縁の資質である。
そこで病院が氾濫する時代を迎えたのだ。
現代医学は、自らが引き起こした数々の愚行、とりわけ病院の危険性を説明する必要に迫られていない。それは、病院が営利を目的に自己認可した機関だからである。病院の運営を決定する理事会や委員会は病院の経営陣で構成されていて、国が介入してそれを是正しようとしても、この制度は「慣性の法則」に支配されているからどうしようもない。その結果、悪質な病院もそのまま存続して、すべての病院にはびこる不正な慣行は改革の対象にはされない。
以前、アメリカ保健省が、「メディケァ」で危険性をとくに指摘された一〇五の病院を調査したところ、そのうちの六九の病院で、耐火性、薬物記録、看護婦の数、医者の数、食事指導、診療録、医学資料に関する基準を満たしていなかった。病院認可土ハ同委員会の審査には、いずれも最近になって合格した病院ばかりである。保健省の調査結果が公表されても、委員会は不適格な病院の認可を取り消そうとはしなかった。
一般の人たちが病院に改善を求める抗議をしても、実施される改革にはほとんど効果はない。この種の改革に携わっている連中を「ゴーストバスターズ」(幽霊退治屋)と私は呼んでいる。見かけだけ勇ましく、実質を伴っていないからである。改革のほとんどが書面によるものであり、経営陣が秘密会議で決めたものにすぎないのだ。
患者の苦情を病院に陳情する「オンブズパーソン」(患者の権利擁護委員)を設買するという改革は、実は医療訴訟を阻止するためのものでしかない。オンブズパーソンが設買されれば、患者は自分たちの権利が守られているかのような錯覚を抱く。それが病院側の陽動作戦である。
一九七三年、アメリカ病院協会(AHA)は「患者の権利章典」を採択した。そのなかで明記されている患者の一二の権利を要約すると次の通りである(この文言は一九九八年現在も変わっていない)。

●病院のほんとうの姿

病院の実態を一般に知られないように、アメリカ病院協会などの現代医学の代理機関は奮闘している。病院活動委員会は、病院がスポンサーになって運営されている民間組織で、ここにはアメリカ国内の病院から収集されたさまざまな情報がコンピユータによって管理されている。そのなかには、治療法別の死亡率の比較、院内感染、医療事故をはじめとする、病院にとっては戦傑すべきデータがすべて含まれている。
試しに、少し見せてほしいと申し出てみるといい。委員会は敵意をむきだしにして拒否するだろう。
その拒否ぶりたるや、国家機密を死守する政府以上の激しさであるはずだ。それほど知られてはならないデータがあるのだ。
この点についてアメリカ病院協会と病院活動委員会のスポークスマンは次のように説明する。
「この情報が一般の人に知れると、病院の安全性が正確に理解されず、病院の改善に支障をきたすおそれがある」
だが、本音は次の通りである。
「この情報が一般の人に知れると、病院の危険性が正確に理解されて、病院の存続に支障をきたすおそれがある」
病院に「改善」というのはありえない。そんなことをすれば、病院の閉鎖を招いてしまう。きつと病院活動委員会のデータバンクには、国防総省の国家機密と政治スキャンダルの真相を足したようなすさまじい情報が収録されているに違いない。
社会の意識が高まり、「科学的根拠に基づく医療」が人々から要求されるまで、「科学的根拠に基づかない医療」しか行わないのが医学界の体質である。研究論文とは、現代医学教の「祈禧書」のようなもので、研究はその成果を実行に移さない限りにおいて医学界で許容される。もし、研究成果に基づく医療を提言すれば、出すぎた言動を理由に、その医者は医学界から抹殺されてしまうかもしれない。
現代医学教は、病院で行われている医療に本当に効果があるかどうかなど気にはしていない。気にしているのは、「治療」と呼ばれている無意味な儀式を求めて信者が巡礼してくれるかどうかということである。
キリスト教には「改心しようと思いつつも、改心せずに地獄に堕ちていく者が多い」という戒めがある。現代医学には改心しようという気はさらさらない。病院が面会時間の規制をゆるめたのは、患者が家族ともっと一緒にいられることを配慮したわけではない。それは建前である。本音は小児科が衰退して、空きベッドが目立ち始めてきたからなのだ。子供を病院に呼び戻して、ベッドの稼働率を高めるためなら、病院はどんな市場作戦でも繰り広げる気でいる。子供の両親や兄弟姉妹は都合のいい時間に会いに来ることができるようになり、犬や猫まで連れてきてもいいことになった。
産科病棟も妊婦に敬遠されて頭を抱えている。病院出産よりも自宅出産が好まれるようになってきたからである。そこで、分娩室に夫や母親、姉妹、恋人が立ち会うことが許されるようになった。妊婦に入院してもらえるのなら、彼女の不倫相手でも病院は大歓迎なのである。
医学界は、病院とは病気を治し、人の命を救う場所であると世間に思い込ませようとする。たしかに救急医療は人の命を救っている。しかし、それ以外はどうだろう。病院には健康にいいものなどひとつもないのだ。運動設備があるわけでもないし、病院食は最悪のファーストフード並みのまずさである。家族や友人との人間的な触れ合いに乏しく、精神衛生という点では劣悪な環境で、患者は自己喪失感に襲われるのも無理はない。
人は病院に足を踏み入れた瞬間に屈服する。そして、
「私は自分の健康管理ができません。病院に行けば助けてもらえる、そう信じてやってきました」
とでもいうような卑屈な態度を示すようになる。

●病院からわが身を守るために

病院から身を守るためには、長期入院や「社会入院」などの必要のない入院をまず避けることだ。
患者のほとんどは、医者の指示に従って入院しているのだから、指示を受けないようにすればいいのである。絶対に必要と認められたとき以外は薬の服用と手術を拒否すること、方法はこれしかない。
外来患者には行われない治療というものがたくさんある。ここでも患者は勉強して、どんな治療ができてどんな治療ができないのか、医者よりも詳しく知っておくべきである。
健康な妊婦なら、ほとんどの場合自宅で出産することができるし、またそうすべきなのだが、医者は若い妊婦とその夫を脅して分娩室で出産させようと言いくるめる。常套手段は合併症の危険性をことさら言い立てることである。実はその合併症なるものは、統計の改窯によるものであり、そもそも産科医の不要な処置が原因で起きたものである。
病院は自宅出産運動の高まりを阻むことができなかったため、妊婦を分娩室に誘い込む作戦を大々的に展開して、合併症という脅し文句を繰り返す。だが、だまされてはいけない。たとえホテルのように見えても、そこは分娩室である。いったん病院に入った以上は、現代医学の縄張りの中なのである。妊婦は医者の縄張りにいるかぎり、医者の規則に従うことになる。それに対して、自宅出産の場合は、医者の思うようにはならない。
どうしても病院の設備を利用したいのならそうすればいいが、分娩室でできることは自宅の寝室でもできるということだけは言っておきたい。
医者には患者を不必要に入院させる習性がある。この危険な習性から身を守るためには、薬や手術を避けたときと同じ作戦で対処する。勉強して、その治療法で治る可能性はあるのか、どんな危険性があるのか、ほかの治療法は可能かどうかなどを研究するのである。その結果、医者を代えた方がいいという結論になればそうする。いわゆる民間療法で治療するのが適当という結論になれば、そうするのも方法である。
自分が収集した情報に基づいて、臆せずに医者と話し合う。要は、自分の病気の治療にふさわしい医者を見つけることである。そして、これは自分にふさわしい病院を見つける方法でもある。もちろん、病院に行くことが必要であると認めた場合に限っての話ではあるが。

●大学病院をめぐる迷信

いちばんいい病院は大学病院だ、と世間では考えられている。医学生が学び、医療スタッフも多い。
しかも研究は進んでいる。だが、これはかつて一般の病院が奇妙な治療を行っていた時代の話である。
いまでは事情が違う。生物の授業で使われるカエルやザリガニ、ブタの胎児のようになりたくないなら、大学病院信仰は捨てた方が身のためである。
院内感染の発生率が最も高いのが大学病院であり、臨床検査や薬剤調合のミスも多い。患者の取り違えが頻発して、患者が受ける精神的ダメージはこのうえもなく深刻である。しかも、患者は医者の目的のために利用される。手術の適否は患者が身をもって実証させられ、治療と称して治験にまで使われてしまう。患者は研究対象にされるのがオチである。
大学病院に関する間違った常識はもうひとつある。「難病、奇病の重症患者は大学病院に行くといい」というのがそれである。
大学病院というのは医学生や研修医に正統な治療法を、有効であるかどうかは別として教え込む場所である。現代医学が認めた正統な治療法ではなく、有効な治療法を求めるなら、比較的小規模の病院か、現代医学教を信仰していない国の病院に行くべきである。
実際に治療に当たるのは、病院ではなく医者である。だから、選ぶ基準は病院ではなく医者である。
本当にいい医者なら自分の技術を発揮できる適切な設備を整えているはずである。私がいいと判断した医者は、大学病院で時間を浪費していない。
大学病院では、教育・研究・診療が三本柱とされているが、これも間違いである。医者や病院がこの三つの柱すべてに力を注こうとすると、診療が必ずおろそかにされてしまう。大学病院を選んだ人にはくれぐれも注意するよう警告しておく。
どの医者であれ、そしてその医者がどんな病院を紹介しようと、患者は常に生命の危険にさらされているのだから警戒は怠れない。医者や看護婦に簡単に従うのは危ない。人間の尊厳を踏みにじるようなあつかいに対しては断固抵抗すべきなのだ。
わが子を入院させたとき
子供の入院には、両親もずっと一緒に付き添ってやるべきである。私はこれまでいくつかの病院で勤務してきたが、ある病院では、親の付き添いは子供が危篤に陥っているときに限っていた。そこで、私は子供を全員危篤ということにしていた。病院側は長い間黙認していたが、ついに対決の時がきた。
面会時間は毎晩七時半までという規則になっていたが、ある母親がこう言ってきたのだ。
「子供が泣いているんですが、そばにいてやれば泣きやんで、八時半までに寝つくと思います。それまで付き添うことを許してください」
私は了解した。だが、このやりとりを聞いていた看護婦は反対した。
「危篤ではありませんし、面会時間も過ぎていますから、母親には病院から出て行ってもらわないと困ります」
私は看護婦にたずねた。
「母親がこのまま病院に残れば君はどうするかね」
「管理の職員に電話します」
看護婦はこう答えた。私が管理の職員に直接電話して同じ質問をすると、理事に連絡するという返事だった。理事から電話がかかってきたとき、私は同じ質問をした。理事は、「警官を呼んで母親を病院から退去させる」と言った。
「十五分だけ時間がほしい」と私は申し出た。
理事は私がこの事態を収拾してくれるだろうと考えたようだが、それは甘かった。私は地元テレビ局の活動家として有名な報道記者に電話をした。
「泣いている子供に付き添うため、面会時間を一時間延長してほしいと訴える母親が警官によって病院から退去させられようとしている」
「カメラを持ってすぐ現場に駆けつけるから二十分ほどそのままにしてほしい」
「なんとかやってみる」
私はそう返事をしたあとで、理事に電話を入れた。
「もう二十分だけ待ってください。まもなく報道陣が駆けつけて、警官が母親を退去させるところをカメラに収める予定です」
理事はこう言った。
「わかった。君にはかなわない。今日はお互いにこのへんで妥協しよう。しかし、明日、私のオフィスに来てくれたまえ」
翌朝、私はオフィスに行き、理事からこう言われた。
「私は昨日の件で君をクビにするつもりだ」
私はこう答えた。
「わかりました。でも、そんなことをするとあとがたいへんですよ。私はすぐに新聞社に行って大騒ぎを起こしますから」
「確かにそうだ。君は何をしでかすかわからないからな」
理事はあきらめた。
「君の患者に面会に来る人は、いたいだけいてもらっていいことにしよう。ただし、このことは病院の職員には内緒にしておいてくれよ」
これが事件の顛末である。
入院患者にとって、病院の規則を破ることは生死をかけた問題である。それは一人でできることではない。信頼できる人にいつもそばにいてもらうことが必要だ。それも家族か親しい友人でなければならない。
私の経験では、貧しい家庭ほど身内の結束が強く、家族の誰かがいつも付き添っていた。だが、裕福な家庭はそうではなかった。中流や上流の家では、家族の者はみんな働いていて、「仕事で忙しい」
「付き添うのがいやだ」と言って個人契約の看護婦を雇っていた。これがきっかけで、私は裕福な家族とそうでない家族とでは、家族の絆の強さにこれほど差があるものかとつくづく考えるようになった。これは貴重な教訓だった。

第5章 医者が家庭にかかわるとき

●家庭に攻撃をしかけるもの

家庭を崩壊させることにかけて、現代医学の右に出るものはないだろう。家庭の崩壊はもう何年も前から言われていることだが、アメリカでは子供の六人に一人が片親に育てられ、二組に一組の夫婦が別居あるいは離婚している。
「家族」という言葉そのものが、すでに本来の意味を失っている。ここで言う家族とは血縁集団のことで、現在、三人以上の大人が同居している家族は全世帯の五パーセント、二〇世帯のうちわずか一世帯しかない。子供、両親、祖父母、叔父、叔母、従兄弟がそろった家族を「大家族」とあえて呼ぶことで、現代人はこうした殺伐とした状況がもたらす弊害から目をそむけようとしている。
専門家は「核家族」なる言葉を普及させて、核エネルギーにかつて抱かれていた明るい前向きなイメージをこの言葉にまとわせようとした。しかし、そのイメージは決していいものではなかった。
核家族の中心にあるものは何だろう。親か、子供か、それとも無か。いや、そのどれも違う。核の本質、それは爆発と不安定である。家族を核家族と呼ぶことは、人々に爆発と不安定をイメージさせる。核が本来の運動を始めて家族を振り回せば、核家族は分裂して、やがて崩壊を迎えることになる。
学校や教師も家庭崩壊の張本人として時に槍玉にあげられる。しかし、その陣頭で指揮を執っているのは医者だ。家庭を崩壊させる現代医学が仕掛けてくる「聖戦」は、学校など比較にもならないほどすさまじく容赦のない戦いである。
「家庭医学」という言葉は、もとをたどれば家庭に対して健全なものだったはずである。しかし、医者にとってこの言葉は、患者の家庭に介入するための手段と化してしまった。現代医学は家族の絆など価値がないという理由で、家庭を無用のもの、忌避すべきものと見なしている。
医者が往診しなくなったのは、病院や診療所の方がたくさんの患者を診ることができるからだと人々は考えている。だが、真相はそうではない。本当は、医者が患者の家庭、つまり敵陣で診察したくないからである。病院や診療所なら、患者を集められるだけでなく、患者を家族の影響から引き離すことができる。患者の家庭に乗り込んで敵陣を制圧し、家族の絆を断ち切ることは、医者にとっても地の利がないだけに戦いを有利に導くことができない。
医者が言う家庭医学を成功させるには、家庭の倫理と信念に代わる、医者自らの倫理と信念を家族に示して、家庭が果たしてきた役割を奪い、それを代わって演じる必要がある。そのとき、医者が患者の家族に共感したり、家庭の伝統や絆を共有したりすることはない。そもそも患者の家庭に何が起ころうと医者の関心事ではないのだ。
患者の死は医者にとって悲劇ではない。死んだのはあくまで自分の患者であり、それは自分の息子でも娘でもなく、父親でも母親でも、祖父、祖母、伯父、伯母、従兄弟のいずれでもない。医者は医学生のころから「患者とは距離を置く」ようにたたき込まれているのである。
医者は家庭に危機が訪れ、精神的に追い込まれる機会をうかがっている。そして、その機会がいよいよ到来したとき、医者は家庭に介入して状況を制圧する。宗教は、誕生・成人・結婚・死といった節目となる出来事、人生を深く考えさせるさまざまな局面で厳粛な儀式を執り行い家庭を支えるものだが、現代医学教では患者の家族の絆を断ち切るための儀式が行われる。
病院がいかに危険な場所かは、第4章で指摘した通りである。現代医学は、病院という戦場を家庭のように「歓待するところ(ホスピタル)」と呼んではばからない。ほかの宗教ならとても許されないようなことでも、現代医学教は誰にもとがめられずに日常さはんじに行っている。どんな儀式であれ、いったんそれがあたりまえになってしまえば、誰も異を唱えることはなくなるのだ。

●出産に介入する産科医

核家族にとって三番目の成員、つまり最初の赤ん坊が生まれることがわかると、現代医学の介入はとたんに激しいものとなる。普通の宗教なら出すぎない程度で済ますところだが、医者は問題のあるなしにかかわらず、危機をあおってここぞとばかりに攻撃をしかけてくる。
口火を切るのが産科医である。出産は病気と見なされ、手術が避けられない処置であるかのようにしたてあげられる。出産の九五パーセント以上には合併症は生じないものだが、産科医がこの事実を認めれば、自分たちの仕事の九五パーセント以上が不要であることが世間にばれてしまう。もしそうなれば、産科医は激減して、健全な家庭が一挙に増えてくるのだろうが。
皮肉を言えば、病院での出産は、分娩室ではなく、すべて手術室で行われた方がいいのかもしれない。自宅出産と比べると、病院出産ははるかに危険に満ちているからである。赤ん坊に対しては、陣痛と分娩で苦痛に見舞われる確率が六倍、難産になる確率が八倍、蘇生術を必要とする確率が四倍、感染症にかかる確率が四倍、一生の傷を負ってしまう確率が三〇倍と、病院で子供を産んだ場合、これだけの危険が新生児を襲い、一方、母親も三倍の確率で出血多量に陥る。
いったん妊婦を密室に連れ込めば、そこは産科医の陣地でいっさいが思いのままだ。自分の力を誇示するため、妊婦には尊厳を無視した破廉恥な処置が次々と繰り出される。妊婦は分娩台に仰向けに寝かされ、左右の支脚器に足を乗せて脚を大きく開く。この体位(仰臥位)には産科医の願望を満たすだけの意味しかない。
妊婦の体には点滴装置がつながれ、必要と診断されれば、ただちに麻酔薬を送り込む仕掛けになっている。家族から隔離されているばかりか、妊婦は体の自由さえ奪われている。このときすでに産科医は、分娩をいつ行うかを決めているのだろう。
麻酔で妊婦は感覚と記憶を失い、子供を産むという実感がつかめないこともある。産科医が妊婦を眠らせるのは、まな板の鯉にとどめを刺すためだろう。そのときに使われる切り札が帝王切開である。
だが、帝王切開は後遺症を伴うもので、そのひとつは産後数週間から数カ月で現れてくる。経膣分娩ではない方法で生まれた赤ん坊には、母子間に愛情が芽生えることは難しく、そのため母親による虐待を招きかねないのである。
産褥期(産後、母体が回復するまでの期間。通常は六~八週間)は、出産直後の母と子が親子の絆を深める大切な時期なのだが、帝王切開はそれを台なしにしてしまう。産褥期の初期、麻酔が消えない母親は赤ん坊と一緒に過ごすことができず、また手術のせいで産後の肥立ちは悪くて気分もふさぎがちだ。それどころか、病院出産で味わった失望と苦痛のために、お産そのものが不快な思い出となって残ってしまう。
母親には、産後の貴重な数時間あるいは数日間を赤ん坊と晴れ晴れとした気分で過ごす当然の権利があるのだが、陣痛と分娩に加え、えいん切開や麻酔によって母親は疲れ果てている。母親が拒まない限り、「母子別室」の原則に従って赤ん坊は取り上げられ、新生児室という強制収容所に送り込まれていく。
病院の規則というものは、出産という貴重な経験から家族をさらに引き離していくばかりである。
面会制限で、一回の面会は一人か二人にしか許可されない。これは家族の仲たがいを招くものだと私は考えている。夫、母親、父親、義母、義父、叔母、叔父、従兄弟のなかから誰を選べというのだろうか。おまけに赤ん坊の兄や姉は面会はたいてい拒まれ、たとえ許されてもガラス越しにうかがうだけである。これで家族の一体感がどうやって得られるというのだろうか。

第6章死のための医学

●医者が仕事をしないと病人が減る

現代医学はまさに偶像崇拝の宗教である。現代医学が聖なるものとしてあがめるのは、患者の生命ではなく、機器に依存した医療行為そのものだからだ。現代医学が誇る成果は、どれだけ病める魂と生命を救ったかということではなく、どれだけ医療機器を使い、どれだけ利潤をあげたかということにすぎない。
すべての宗教の根源には、人生に行き詰まり、苦しみにあえぐ人々に生きる勇気を与える希望の泉が秘められている。その泉こそ、すべてを超越した絶対的な存在、すなわち神にほかならない。現代医学教の根源にたどり着くには、おびただしい薬で埋め立てられた海を渡り、累々と積み上げられた医療機器の山を越え、道なき道をたどって行かなくてはならない。
なぜ、現代医学が残忍な偶像崇拝の宗教であり、なぜ、私たちはこの宗教を打ち破らなければならないか。その理由はこの宗教の神と直面すればわかるだろう。
現代医学教の神の正体、それは死神なのである。
「医療による大量虐殺」という言葉がある。これはクェンティン・ヤング博士が唱えたもので、医者が組織的に大量の人間破壊を行っているという意味である。
現代医学教がいかに猛威を振るっているかは、医者の団体がストライキに入ったときにはっきりと現れる。医者が仕事をやめると世の中が平穏になるのだ。
一九七六年、南米コロンビアの首都ボゴタ(現サンタフェデボゴタ)で、医者が五十二日間のストに突入し、救急医療以外はいっさいの治療を行わなかった。現地の新聞は、ストがおよぼした奇妙な「副作用」を報じた。ストの期間中、死亡率がなんと三五パーセントも低下したのである。国営葬儀協会は「この現象は偶然なのかもしれないが、事実は事実である」とコメントした。
同じ年、ロサンゼルスでも医者がストライキを決行した。このときの死亡率の低下は一八パーセントだった。カリフォルニァ大学ロサンゼルス校で医療行政を研究するミルトン・レーマー教授が、一七の主要病院を調査したところ、ストの期間中、手術の件数が六〇パーセントも減少していたことが明らかになった。そして、ストが終わって医療機器が再び稼働を始めると、死亡率はスト以前と同じ水準に戻ったのである。
一九七三年にはイスラエルでも似たようなことが起きている。ストが決行され、診察する患者の数が一日六万五〇〇〇人から七〇〇〇人に減らされた。ストは一ヵ月間続いたが、エルサレム埋葬協会によると、イスラエルでもストの期間中、死亡率が半減したという。イスラエルでこれほど死亡率が減少したのは、二十年前にやはり医者がストをしたとき以来だったという。
この現象について説明を求められた医者たちはこう答えた。
「救急患者に限って診察したので、労力を重症患者の治療に集中することができたからだ」
この発言は、医者が不定愁訴程度の治療の必要のない軽症患者に対し、不要な治療をしなければ、人命救助に専念できるということを意味している。
医者が救急医療に専念して、不要な医療行為を慎むのは正しい選択だ。かねてから私は、医者は永遠にストを続ける必要があると主張してきた。医者が医療行為の九割をやめて救急医療にだけ取り組めば、人々の健康状態は問違いなく改善されるはずである。

●現代医学は生命に関心がない

医者の労力のかなりの部分が、人を死に至らしめる行為に費やされている。現代人はこの由々しき事実から目をそらせてはならない。
私は医学生たちに、皮肉をこめてこう教えている。
「現代医学で成功したいなら、死を奨励したり、人の死について考える分野を探しなさい。そうすれば、諸君には輝かしい将来が約束されるだろう」
現代医学に限っては、人の死は成長産業である。医学雑誌を開けば、避妊、中絶、不妊手術、遺伝カウンセリング、遺伝子診断、羊水診断、人ロゼロ成長、尊厳死、クオリティー・オブ・ライフ、安楽死など、必ず目にするのがこれらの最新報告である。
こうした医療行為が目指しているのは、生命の管理と終結である。遺伝子診断や、選択的人工妊娠中絶につながる羊水診断(ダウン症児が生まれることを予防するという建前で、胎児の細胞を採取して染色体異常などを調べる検査。出生前診断のひとつとして行われる)の強制施行についてはまだ議論の段階だが、議論というのは実施の前段階である。
深く考えもせずにこんなことを礼讃している世の中は、宗教的狂乱に陥っているとしか言いようがない。いずれの医療行為にも人間の本質を見失わせる好ましくない影響があるにもかかわらず、人々は科学的な正当性が欠落していることに気がつかないように情報操作されている。どの医療行為も、その本質は「死の儀式」にほかならないのだ。
人間は生命を育むように設計されている。その最大の欲求は、子孫を増やすことと自己を保存することだが、人間のこのような本能の営みは現代医学の攻撃の的である。人工妊娠中絶、マスターベーションといった、子供を産まない性行為は人口の増加を抑制する結果となる。また、同性愛のように、「代替ライフスタイル」とでも呼ぶべき恋愛が許容され、人類が太古の昔から連綿と営んできた生命を育む行為が受け入れられなくなってきている。
受け入れられているのは、現代医学教の死の儀式に連なるものばかりである。自宅で子供を産むことは罪とされるが、病院で中絶をしても罪にはならない。性転換手術を受けても罪ではない。そして、こうした手術で患者の体にどれだけの負担がかかろうと、いっさい考慮はなされない。
現代医学教は生命を育まない性行為をことさらに奨励するのと同時に、その一方で生命の軽視も同じように強調する。これは生命に対する誤った姿勢で、そこでは人間性が踏みにじられ、良識というものが欠落している。
例えば、現代医学はすべての女性に中絶の権利があると認めているが、政治的立場にかかわらず、中絶というのは選択の自由というとらえ方をするのではなく、生物学的に中絶よりももっと大切なものがあるという視点からとらえ直してみることが大切なのである。
ユダヤ教の律法のような伝統的な倫理体系のもとでは、中絶は妊婦の生命が危険なときに、母親の命は胎児の命よりも優先するという判断に基づいて、権利としてではなく義務として行われている。
しかし、現代医学は中絶を一方的に推し進めるばかりで、妊婦の生命であれ、胎児の生命であれ、生命に対しての考慮などいっさいしようとしない。現代医学が関心を寄せているのは医療技術でしかないのだ。
一九六〇年代以降になると、現代医学は、女性に対するいかなる犠牲も顧みず、産児制限を大々的に推進してきた。だがこれは、現代医学が犯した大きな誤りのひとつだった。

産児制限は、道徳的な罪と生物学的な罪の違いを最も際立たせる問題である。産児制限そのものは道徳的には間違っていない。しかし、産児制限で行われるいくつかの方法のなかには、女性の生命をおびやかす危険性があるという点で、この医療行為は生物学的な間違いを犯しているのだ。
ピルやペッサリー、子宮内リング(IUD)などの避妊法について、医者がそれらに伴うリスクをどの女性にも納得させ、そのうえで本人に選択させるという、インフォームド・チョイスをしっかりと行っているのであれば問題はないだろう。しかし、現実には、これらの処置が女性の体をどれだけ危険にさらすものか、当の本人には十分な説明がなされておらず、選択の余地すら与えられていない。
医者は生物学を無視する。医者は自分が行っている医療処置が患者にとって、利益よりも不利益を被らせる方が大きいという事実について徹底的に黙する。だからこそ、現代医学はその真の目的を遂げることができるのだとしか説明のしようがない。

●死を奨励する医者たち

一九四〇年代後半から五〇年代前半のことである。医学生だった私は、医学とは救命と延命の二つを追究する学問だと思っていた。現在よく言われている「死に方の質」「よい死に方」という問題については、当時、真剣に議論されていたという記憶はほとんどない。
死は容認されておらず、希望を持ちつづけたうえで死に臨むことが重要とされていた。死を否定するというのは、最近ではあまり好ましい言い方ではないように受け取られがちだが、多くの研究で指摘されているように、がん患者は病気を受容するより、むしろこれを否定して、病気に立ち向かっていった方が生存率は高くなる。
「イギリス医学誌」は、この問題について次のような興味深い記事を掲載している。
「生存期間を左右する因子のひとつに、患者の心理的要因があることが調査データによって明確に裏付けられている。最近、ワイズマンとウォーデンの両博十ががん患者の生存率の統計をもとに、平均より長生きした患者と早く死んだ患者を比較した。病気が進行したとき、『がんに対していかりがこみあげてくる』という闘争心と生きる意欲を固持して、積極的な姿勢で治療に取り組んだ患者は平均より生き長らえ、反対に『もう死にたい」と口にしたり、簡単に死を受容した患者は平均より早く死亡していることを発見した。同様に、心臓病患者でうつ状態になりやすい人、心筋梗塞を起こしたあとでうつ状態になった人は、そうでない人に比べて生存率が低いことがいくつかの研究で明らかにされた。総合的に見ると、決意と希望に満ちた心は寿命を延ばすようだが、死を受容したり、落ち込んで気持ちが沈むと寿命を縮めるようである」
最近出席した医学会議で、がん患者に対する化学療法(抗がん剤による治療)について、ある医者が次のような趣旨の報告をしていた。
「救命の方法と新しい治療法の発見が大切なのはレ分に認める。しかし、さらに大切なことは、患者がある程度死を受容して命をまつとうできるように、医者としての配慮をすべきだということである。
私は医療スタッフとともに時間と労力の大部分を割いて末期患者に接しているが、その際のカウンセリングは、できれば家族のいないところで行うようにしている」
この医師を含めて、なぜ死の商人たちは、カウンセリングを「できれば家族のいないところで行う」と言うのだろうか。私にはその理由がはっきりとわかる。家族の目的は生命を育むことであり、家族の影響があっては、患者を死から遠ざけることになる。医者にはそういう家族の存在が邪魔なのである。
多くの医者が人の死というものを研究して、患者は死を受容すべきだという前提に立って医療行為を行っている。つまり、医者は患者を「治療」して死なせているのだ。それはなぜか。彼らには患者を治療して生かせておくことができないからである。死を否定することは、ある意味で精神的に不健全であると彼らは主張する。彼らは「死の医学」という末期患者の精神療法を研究している死の医学者なのである。
彼らはこう主張する。
「もし末期患者が死について語らず、死と直面もせず、あきらめて死のうとしないなら、病気で長い間苦しむことになる」
カウンセリングで、死を受容することを患者に説く医者たちは、何か見当違いをしているのではないか。
「あなたはもうこれ以上生きていてもなんの希望もない」
こんなことを言う医者は、患者にとってなんの足しにもならない。患者に「あなたはあと何日の命です」などと言って、余命を告知することは患者に呪いをかけているのと同じなのだ。
患者はその言葉を信じて、告知された通りに死んでいく。
気のもちようで病状が改善されることが理解されるようになったのは、比較的最近のことである。
医者はあまり認めようとしないが、もともと人間の体にはすばらしい自己治癒能力が備わっているのだ。
優先されるのは、楽天的で前向きに物事を考えるということである。医者は余命を告知するのではなく、患者の将来設計を助けるべきだろう。患者に「これは難病なので、十分な医療を提供してあげられない」と告知するのと、「あなたの死は避けられない」と告知するのとでは意味はまったく違ってくる。
だが、医者が「この病気には効果的な治療法がない」と患者に素直に認め、「現代医学以外の代替療法や自然治癒力を生かせば、なんとかなるかもしれない」と正直に白状してしまえば、患者は医者を信用しなくなる。だから、医者は口が裂けてもそんなことは言わない。しかも、現代医学の儀式の効果はますます疑わしいものになって、患者の生命をいよいよおびやかすようになっている。
医者のこうした仕事ぶりが必然的にもたらす結果として、最終的に患者が受けるはめになる「死の医療」を準備しておくことは、医療ビジネスを営むうえでも理にかなったことである。

第7章 医者というものの正体

●あきれた聖職者たち

アメリカ医師会やそのほかの団体に所属する医者たちは、「われわれは患者に対して特別な力などもっていない」と言う。こんなことを聞くと、私はいつも笑ってこうたずねる。
「服を脱ぎなさいと言えば、相手は素直に脱いでくれる。こんな力をもった人間が、医者のほかにいるかね」
世問の人々は、医者を文字通りの聖職者とあがめたて、命まで預けてしまう。それだけではない。
医者は職務に忠実で、知性と教養にあふれ、人々の健康を支える有能な人問だと思い込んでいる。
はなはだしい勘違いである。医者もただの人間だ。それも美徳とはほど遠い人間だと言っていい。
その実態を知れば、医者がいかに不誠実で、不正医療を平然と行い、知性と教養どころか、自分の健康管理すらできないような人間があまりにも多いことがわかるはずだ。
医者が状況に適切に対処できないことの典型的な例として私がよく引き合いに出すのは、議会の公文書に記録されたある出来事である。
かつてエドワード・ケネディ上院議員は、上院保健問題小委員会の公聴会で、青年時代にスキーで肩にけがをしたときの体験を披露した。彼の父親は一流専門医を四人も呼んで息子を診察してもらい、とるべき処置をたずねた。三人の医者が手術を勧めたが、一人の医者だけは違った。結局、父親はその医者の意見に従って、手術は受けないことにした。けがはやがて治った。
この公聴会には、バーモント大学医学部教授ローレンス・ウイード博士が呼ばれていた。博十は患者志向医療記録法(博十の名前にちなんで「ウイーディング」と呼ばれる)の発案者である。議員たちが博士に専門家としての意見を聞いたところ、博士はこう答えた。
「そのときのけがは、わざわざ手術をしなくても治るものだった」
アメリカの医師会は、五年ごとに一斉試験を行って会員の基準を満たしているかどうかを判定しているが、その結果はあまり感心できるものではない。また、抗生物質について行われたテストでは、なんと半数の医者が得点率六八パーセント以下にとどまったこともある。
医者に身をゆだねることがいかに危険かはこれまで見てきた通りだが、危険は治療法そのものにあるとは限らない。医者が犯す治療ミスも恐ろしいのだ。
偏狭で独善的、しかも偏見のかたまり。論理的に考えることや慎重さとはおよそ無縁な人間。医者と会うというとき、私はそんな人間の顔を心に描いてしまう。そして、実際に会ってみると、まさしくその通りの人物なのである。
医者に高いモラルなど期待できない。ハーバード大学医学部のロバート・エバート博士とエール大学医学部のルイス・トマス博士の二人は、いずれも学部長という要職にありながら、大手製薬会社スクイブ社の契約顧問として同社のドル箱商品ミステクリンの販売停止措置を解除するようアメリカ食品医薬品局(FDA)に働きかけていた。
エバート博士は、「自分にできる最善のアドバイスをしただけだ」と述べたが、スクイブ社のノーマン・リター副社長はこの二人に大金を払ったことをすでに認めていた。しかし、自分たちが受け取った「わずかな手数料」の具体的な額について、博士は「ノーコメント」で押し通した。
その後、エバート博士はスクイブ社の理事に就任し、一万五〇〇〇ドル相当の株式を取得していたことをついに認めた。

●いんちきな医学研究

薬物が原因のがんと奇形児の研究の世界的権威で、ケースウェスタン・リザーブ大学教授であるサミュエル・エプスティン博士は、上院栄養問題特別委員会で次のように証言している。
「アメリカ科学アカデミーは利害関係が複雑に絡み合った組織である。食品添加物のような重要な問題を決定するパネル討論会なのに、その構成メンバーは当の規制対象の業界代表者やその息のかかった人たちで占められるケースが実に多い。アメリカでは、金さえ積めば、自分たちに都合のいいデータを入手することができるのだ」
いんちきな研究報告は日常さはんじで、新聞もいまさら大きく取り上げたりはしない。新薬の臨床試験について、アメリカ食品医薬品局が細部にわたって調査をしたとき、いいかげんな使用量、データの改変と捏造、ダンピングが繰り返し行われていることが明らかにされている。
こうした不正行為の背景には、医者が製薬会社に雇われて、食品医薬品局の新薬認可の基準に合格する研究報告ばかりを作成するという事情がある。国の助成金をめぐって競争が激化の一途をたどり、医者は助成金を獲得することだけを目的にして研究報告を作成することもよくある。研究に携わる医者は互いに馴れ合いの関係にあるから、同僚がいいかげんな実験をして、いんちきな研究報告を書き上げ、あいまいな分析をしていても、見て見ぬふりをしているのだ。
コロラド大学の微生物研究者アーネスト・ボレク博士はこう言っている。
「あいまいでいいかげんなデータが科学誌にそのまま掲載されるケースが、最近ますます増えている」
ノーベル生理学・医学賞を受賞したマサチューセッッ工科大学の分子生物学教授サルバドル・ルリア博士もこう述べている。
「共同研究者の一人が実験データを捏造したため、非常に高い評価を受けている科学者たちが研究データを撤回するはめになったケースを私はいくつも知っている」
この手のいんちき研究の典型をもうひとつ紹介しておこう。がん治療に関する世界最大の民間研究機関スローン・ケタリング研究所で起こった事件だ。ここの研究員だったウィリアム・サマリン博士は、ネズミの組織移植が成功したと見せかけるために、ネズミの体に着色をしていたのだ。
実験動物の体に着色するといういんちき研究の先駆者は、パウル・カメレルというオーストリァの遺伝学者である。フランスの博物学者ラマルクが十九世紀初めに唱えた用不用説(後天的に獲得した形質が子孫に伝達されるとする進化論学説)を証明するために、カメレルはカエルの足に着色したのである。しかし、一九七一年、イギリスの批評家アーサー・ケストラーに『サンバガエルの謎』という本でこのことを暴露されると、カメレルはピストルで自らの命を絶った。
アメリカ科学基準局のリチャード・ロバーツ博士はこう語る。
「科学者が科学誌に発表するデータの半分、あるいはそれ以上が無効である。研究者が正確にデータを測定したという証拠もなければ、首尾一貫して研究が行われたという証拠もないのが現状だ」
だが、「データの半分、あるいはそれ以上が無効」と言われても、読む側はどっちの半分が無効なのかわからないから、いよいよわけがわからなくなる。
科学記事が信用できるかどうかを見極めるには、資金源はどこかを注釈などで調べることだ。薬の安全性についての製薬会社のデータは信懸性に乏しい。医者というものは大きな利害が絡むと、データの改変や捏造に抜群の才能を発揮するものなのである。
アイオワ州立大学の心理学者レロイ・ウォリンズ博士は、学生たちに科学論文の執筆者三七人にあてて手紙を書かせ、論文の根拠となったデータの提供を求めた。回答してきた三一人中二一人は、「データを紛失したために応じられない」と返事を寄こした。届いた七つのデータを分析して、博士はこう結論づけた。
「いずれもあまりに重大なミスが含まれているため、科学的事実としてあつかうことはできない」
データの改変と捏造はいまに始まったことではない。イギリスの心理学者シリル・バートは、ヒトの知能の大部分は遺伝によって決定づけられるという説を唱えて有名になったが、実はここでもデータが捏造されていた。プリンストン大学の心理学者レオン・カミンの調査で、バートの研究に携わったとされる「共同研究者」が実在の人物ではないことがわかったのである。
十九世紀のオーストリァの生物学者で、「遺伝学の父」と称されるグレゴール・メンデルもまたデータの改変が得意だったようだ。自ら唱えた遺伝学の理論をより完壁にするため、エンドウの交雑実験で得られたデータの「組み換え」を行っていたことを示す形跡が残されているのだ。メンデルが導き出した理論は確かに正しかったが、データを統計的に追試すると、その理論がメンデルの実験から導き出される確率は一万分の一程度でしかないことがわかっている。
医者のモラルの崩壊は、医療の分野だけにとどまらない。有名な手術法の開発にかかわったことで知られるある医者は、五年間で二五万ドル以上を脱税していて、結局、五件の脱税容疑で有罪となった。また、アメリカ医師会の理事会会長が、銀行基金一八〇万ドルを横領した容疑で告訴されたこともある。彼は罪状を認め、懲役一年六ヵ月の有罪判決を受けた。FBIはこの事件についてこう発表した。
「同会長は他の被告数人と共謀して、不正な利益を得るために間接融資を取り付けようとたくらみ……[座に資金が不足しているにもかかわらず、小切手で返済し……政府に対して詐欺行為を働いた」
これは例外的なことではない。アメリカ医学界の最高レベルで、こんなことが日常的に行われているのである。職務違反、データの改変と捏造、公金の着服。これが現代医学教の代表的な機関であるハーバード、エール、アメリカ科学アカデミー、アメリカ医師会の「大司教」や「枢機卿」の間でまかり通っているくらいだから、ほかの大学や医療機関の聖職者たちの腐敗ぶりたるや、推して知るべしである。

●自分を治せない医者たち

医者の仕事は人々の健康管理である。だが皮肉なことに、その医者が概して一般の人たちより不健康を極めているのだ。アメリカ国内の医者を対象に、健康障害と薬物汚染を調べた統計がある。
・精神障害を起こしている者一万七〇〇〇人(医者二〇人に一人)・アルコール依存症に苦しむ者三万人以上(医者一〇人に一人)・麻薬を常用している者三五〇〇人(医者全体の一パーセント)
これらの数字は、いずれも低めに見積もったものである。
さらに、医者と社会的・経済的・教育的な面においてほぼ同レベルにある専門職
(弁護士、大学教授など)と医者を比較した三十年間にわたる研究がある。
それによると、医者のほぼ半数が離婚あるいは結婚生活が破綻しかけていること、また、三分の一以上が中枢神経刺激剤(世界的に覚醒剤取締法の対象になっている)やバルビツール酸系などの睡眠薬を使用していること、そして、約三分の一が精神科医にひんぱんに通わなければならないほどの重度の精神障害に悩まされていることが判明している。これに比べて、医者以外の専門職の人たちははるかに健康だった。
薬物汚染はとくに深刻である。医者が麻薬や睡眠薬を常用する割合は、.般人に比べて三〇倍から一〇〇倍も高い。アメリカ医師会の会合で、オレゴンとアリゾナ両州では、医者のニパーセント近くが薬物乱用で州の医師免許委員会によって懲戒処分を受けていたことが明らかになった。しかも、アルコール依存症で問題を起こした医者の数はそれよりもずっと多いというのだ。
アメリカ医師会も、国内の医者の一パーセントから一・五パーセントが薬物を乱用していることを認めている。医者に対して生活習慣の改善、リハビリなどのいろいろな処置が数年にわたって講じられてきたにもかかわらず、この数字を下げることはできなかった。もちろん、こうした数字はいずれも発覚した場合に限ったものである。
イリノイ州医師会には、健康障害をもつ医者のためのパネル討論会がある。会長を務めるジェームズ・ウェスト医師はこう語る。
「イリノイ州の医者の四パーセントが麻薬常用者で、一一・五パーセントつまり九人に一人がアルコール依存症だ」
アメリカでは医者の自殺も多い。その確率は、自動車と飛行機による事故死や他殺を合わせた数字よりも高く、白人の平均自殺率の二倍である。毎年約一〇〇人の医者が自殺していることになり、この数は平均規模の医学部の卒業生とほぼ同じぐらいの人数だ。さらに、女性の医者の自殺率は二十五歳以上の女性の自殺率の約四倍にもおよんでいる。
なぜ医者に病人が多いのか。その原因をこう説明する者もいる。まず、簡単に薬が手に入ること。
そして、仕事が厳しいストレスに耐えながらの長時問労働であり、肉体的・精神的な限界状況に追い込まれてしまう。さらに、患者や地域からは、「早く治してください」という要求が繰り返される。
しかし、これは弁解にすぎない。これだけの理由で、はたして医者が自殺してしまうのだろうか。
私にはまだほかにも原因があると思えるのだ。例えば、研究につきまとう不正と腐敗である。薬や粉ミルクの営業マンが医者に取り入ろうとする様子を見聞きしたことがある人ならさほど驚かないことだろうが、彼らが医者にいろんな便宜を図ってくれるのである。夕食は接待してくれるし、酒も飲ませてくれる。研究会や講演会といった学会の手配もしてくれて、研究費が必要なら資金の援助まで面倒を見てくれるのだ。
しかし、これとて表面的な分析でしかない。医者がなぜこれほどまで病んでいるのか、その本当の原因に迫るには、医学界の体質を心理的・道徳的な観点から分析する必要がある。
医学界とは原始的で非情な権力構造によって成り立つ世界である。政治の世界では、妥協すれば政治生命を保つことはできるが、医学界ではそれは許されない。患者の頸静脈を断つことを躊躇したために、医者としての自分の生命が絶たれてしまうかもしれないのだ。
現代医学には譲歩という概念がない。世間では、利害が対立すれば話し合って互いの利益を確保しようとするものだが、権威主義の医学界では、勝利を収めた者だけが権力の階段を駆け上がれるのだ。
歴史を振り返れば、改革を試みた医者は医学界から追放されてきた。自らの信念を貫くには、医者という職業を賭けなければならないし、こんな危険を冒す医者などほとんどいなかった。
医者が譲歩を好まないのは、医者が同業者としか付き合わないからである。ほかの職業の人間と親しくするのはきわめてまれで、これは専門職とはいえ珍しいぐらいだ。外の世界を知る機会は限られ、他人に自分を理解させる必要がほとんどない。世間知らずのまま患者に向かい、同業者にしか通用しない独善的な見解を患者に押し付ける。仕事が終わればまたもとの世界に戻ればいい。これは、公共性が高く影響力の大きい職業では考えられないことである。
医者は患者を診る。確かにその通りだ。しかし、医者は患者を人間として診ているのではない。医療は患者の絶対服従を前提として成立しているから、その関係は主人と奴隷の関係に似ている。こうした関係では、医者が患者と意見を交わして、なんらかの影響を受けるということはほとんどない。
医者の理念とはつまるところ、人間的な要素が欠如した冷淡な態度で患者に向かい合うことにある。
これはプライベートでも変わらない。医者は自分を上流階級の人間だと思っている。共感を感じるのは上流階級の人間だし、われこそは真のエリートだと信じ込んでいる。
こうして、医者の独裁者ぶりはますます助長されていくから、医者が政治や経済について保守的になるのも無理はない。

●恐るべき医学部教育

医者には患者を見下す習性がある。どこでこんな悪癖がついたのだろう。この点について質問を受けると、以前は「医学部だと思う」と私は答えていたが、いまはそうは思わない。それよりもずっと前からのことだと気がついたのだ。学生は医学部に入る前からすでに悪知恵を身につけているのだ。
カンニング、成績上位者をめぐる足の引っ張り合い、受験戦争でライバルをけおとす……。悪知恵がなければ医学部には入学できないと、彼らは思い込んでいるのだ。それも不思議ではないだろう。
アメリカの大学制度は医学部に範をとり、高校は大学を模範にしているからである。
医学部の入学試験と教育方針では、有能な医者を育てることはまず不可能である。得点を競う通常の試験、医学部入学試験、大学での平均評定値の重視という点数絶対主義による入学審査制度では、人とろくに話ができないうえに、人間的な交流を嫌うタイプの学生を選ぶことになってしまう。そればかりか、この関門を通過できるのは、現代医学の独善的な権威に素直に服従する学生ばかりである。
彼らは自分一人の成功だけを願い、批判精神に欠け、誠実さとか清廉さといったものにはほとんど縁がない。
その大学あるいは違う大学の医学部に学士入学し、厳しい階層社会の医学界では、もっぱら受け身の姿勢で教育を受け、教授が安心して答えられる質問だけをする学生が求められている。これは一回にする質問内容はひとつにとどめておけ、ということである。私は医学生たちに、医学部を無事卒業するためのアドバイスとしてこう教えている。
「教授への質問は一回だけにしておきなさい。それ以上質問すると、命取りになるぞ」

医学教育は、優秀な学生を愚かな学生に変えて精神を腐敗させ、健全な医学生であっても病的な人間に変えてしまう。優秀な医者の卵を腐らせることはそれほど難しいことではない。入学試験官が意志薄弱で権威服従型の学生を選抜しておけば、あとは教授たちが治癒や健康などとはなんの関係もないカリキュラムを組んで学生の指導に当たればいいのだ。
アメリカで医学教育に携わる最高の教授陣でさえ、医学教育にも「半減期理論」が適用されると言っている。医学生が医学部に在籍する四年間のうちの二年間の教育内容が間違っていて、さらにその二年のうち.年が問違っている……というぐあいである。問題は、医学生にはどちらの半分が正しくて、どちらの半分が間違っているのかが区別できないまま、教わったことすべてを覚えなくてはならないということだ。
医学生は厳しく管理される。医学部ほど、学生と教官の比率が際立った教育の場はあるまい。医学部の最後の二年間には、教官一人に対して医学生が二、三人という授業がよくある。担当教官と学生が接する時間は長く、しかもその将来を大きく左右する力を握っているから、学生に対する影響力は絶大である。

●悲しき医学生

医学生はいつも疲れきっていて、気力も奮い起こせない状態にある。人間から意志を奪って特定の型にはめるには、猛烈な勉強に追い立てて(とくに深夜が効果的である)、休ませないことである。
実験動物のネズミのように無意味な競争に明け暮れさせるのだ。その結果、医学生は気力を失い、抵抗する気すらなくして恐怖心にむしばまれていく。
医者には、恐怖心が人一倍強いという心理的な特徴がある。そのため、自分の安全を必要以上に図ろうとするが、それが満たされることはない。それは医学部時代に、骨の髄まで染みついた恐怖心に際限がないからである。
医者は医学部で、失敗、誤診、不正医療の摘発、同業者の批判、失業と職探しに対する恐怖心を植え付けられる。医学部とは長時間耐久レースのようなもので、全員が勝ち残れるわけではないから、どの医学生も長い下積み生活で「自尊心欠乏症」に苦しみ、精神を腐らせていく。
医学生は恐怖心という「薬」を自ら進んであおり、本来もっていた治癒に対する直感と人間らしい感情を捨てていく。将来、医者となって患者の治療に当たるときのことを考えると、これは本人にとっても患者にとっても不幸なことであり、惜しいとしか言いようがない。
しかし、その代わりに報酬がひとつ与えられる。自分を偉い人間だと思い込み患者を見下す心、そう、「慢心」という心である。そして、医学生は教授と同じようにふるまって恐怖心を隠すように教えられる。
恐怖心と慢心という二つの感情の板ばさみになっていれば、医者が病的な集団となるのも不思議ではない。
医学生が生き残るために駆使する悪知恵を紹介しよう。生物学の試験で使う顕微鏡に違う標本を差し込む。尿検査のコップに砂糖を入れる。こうしてほかの学生をおとしいれようとするものから、レポートの代筆、定期試験の替え玉受験、やってもいない実験データの捏造といろいろある。
こんな経験の影響は、医者になって新薬の承認を得る際、改変や捏造されたデータを報告資料に紛れ込ませるという不正行為となって現れる。また、試験と成績をめぐる恐怖心と疲労は、薬物乱用とアルコール依存症を招く結果となる。教授から教わった慢心は、患者の生命と健康を顧みず、はては死に至らしめるような危険な治療をなんの抵抗もなく行う医者を生み出していく。
私は医学生たちにこう忠告している。
「卒業したら、できるだけ早く医学部と縁を切りなさい」
医学部での四年間の専門課程のうち前半の二年間は、教授は医学生の名前などあまり覚えていないから、生き残っていくのはたやすい。教授に目をつけられないように、目立つようなことは避けておけばそれで済む。後半の二年間は教授との関係は密になるものの、授業が少なくなるので、医学部の精神的攻撃で受けた心の傷を癒す時間も生まれてくる。
試験の準備を怠らず、意味のない競争に巻き込まれないように気をつけていれば、心に傷をあまり受けずにゴールまでたどりつける。そして、州の医師免許試験の受験資格を取得できたらただちに医学部と絶縁するのだ。卒業さえしてしまえば、医局に入って研修を積む必要はない。
アメリカには、卒後研修として、研修医制度を終了した者を対象に、有給常勤で時には病院の構内に居住させて完全支援を行い、専門分野における訓練を行う専門医学実習制度(レジデンシー)というシステムがある。
だが、医学生はこんな制度の犠牲になどなるべきではない。専門医学実習制度こそ完全支援の名のもとに、医学生を日夜洗脳して、人間的な温かみを欠いた冷酷な聖職者を養成する制度なのだ。
医者も人間にすぎない。患者もそうである。だから患者は、人間味のある温かい気持ちをもった医者に診てもらいたいのである。医者は現代医学というとてつもなく巨大な制度を背景に患者に医療を施す。医者に欠陥があれば、診てもらう患者は不幸への片道切符を手にしたことになる。
例えば、知的障害の子供や障害児をどう評価するか、これを医者と一般の人と比べてみると、夢も希望もないことを言うのは決まって医者だ。反対に、希望をもって語るのはどんなときでも親である。
同じ子供についてこうも評価が違った場合、私は親を信じることにしている。どちらが正しいとか間違っているとかという問題ではないのだ。大切なのはその子供に対する接し方である。どのような見通しであれ、信念に満ちた考えはやがて現実化していくものである。

●なぜ医者は不正を行うのか

医者は自分の利益を第一に、患者のことなど二の次といったありさまで、やりたい放題のことをしている。
『薬の総合事典』の発行元であるアメリカ医療経済社による統計を見て驚いたことがある。一七〇〇人以上もの人に、「担当の医者が不正医療で訴えられ、それが事実だったら、その医者に対する評価を変えますか」と質問したところ、なんと七七パーセントの人が「いいえ」と答えたのである。
世間の人々は医者が不正医療をすることを望んでいるのだろうか。あるいは、そんなことはどうでもいいのだろうか。
私には世間の無関心ぶりが理解できない。
保険会社が医者に悪用され、必要以上の出費を迫られていることは私もよく知っている。医者の間に腐敗と病気が蔓延して、乱診乱療がこれだけ横行しているにもかかわらず、医師免許を剥奪される医者は年間七〇人程度にすぎないことも知っている。
ここに医学界の謎のひとつがある。医学生のときにあれだけ恐怖心と競争心をあおられたにもかかわらず(あるいは、だからこそ)、医者は互いに批判して、問題ある仕事ぶりや不正行為を当局に報告することを極端にいやがる。例えば、病院が医者のミスや不正を発見しても、せいぜい辞職を勧告する程度で、州の医療当局に報告されることはまずない。それどころか、問題の医者がよその病院に再就職しようとすれば、すばらしい推薦状さえ書き添えてくれるのである。
双子の婦人科医としてかつて名を馳せたマーカス兄弟が麻薬の禁断症状で死亡したというニュースは、世間をあっと言わせたが、同僚の医者にとっては別に驚くようなことではなかった。亡くなる前の年に、彼らの麻薬中毒はすでに病院のスタッフには知れわたっており、病院側は休暇をとって治療に専念するよう指導していたのである。
兄弟がニューヨーク病院コーネル医療センターに一時復帰したとき、少しは中毒状態から脱していたかというと、そうではなかった。職員に取り押さえられるようなことはなかったが、州の医師免許委員会に報告されることもなかった。死亡した年の夏に勤務停止処分になっていただけである。二人の遺体が発見されたのは、彼らが患者に入院を許可する権限を失った日から数日後のことだった。
ニューメキシコ州のある外科医は、胆嚢手術で胆管を間違えて患者を死なせてしまった。解剖の結果、医療事故であったことが判明したが、この外科医が懲戒処分を受けることはなかった。手術方法の指導も受けなかったらしく、数カ月後にまたもや同じ手術で患者を死亡させてしまった。それでも懲戒処分されることはなく、手術方法についての指導もなかった。三度目の医療事故が発覚してようやく調査のメスが入り、この外科医は医師免許を剥奪された。

●医者がかかえる二つの病理

医学生のころは競争心をあおられ、医者になってからは熾烈な権力闘争に巻き込まれて憂き身をやつす。それでも医者が同僚の過失に目をつぶるのはなぜなのか。この謎を解くカギは、先ほど指摘した医者特有の二つの感情、恐怖心と慢心にある。医学部では互いを敵視し合うように教えられた彼らだが、いったん医者になるとその対象は患者にすり替えられていく。現状をくつがえすような活動や研究をしない限り、同僚の医者はもはや敵ではないのだ。
医者の恐怖心は終生消えない。医者にとって患者は、解決すべき問題を突然突き付ける人間にほかならない。この状況は医学部時代の試験を思い出させる。
「もし、この問題が解けなかったら……」
医者にとって患者は、安定した地位をおびやかす恐ろしい存在なのだ。たった一件の医療事故でも、それが世間に知れてしまえば、たちまちすべての患者が優位に立って、自分たちの安定した地位がゆらぎだす。
医学界に限ったことではないが、慢心の対象となるのは、その集団が最も恐れる部外者であって、同業者ではない。専門職多しといえども、医者のいばりようは尋常ではない。それが許されるのは、現代医学が宗教であり、医者が聖職者だからなのだが、それにしてもこんなに尊大で高圧的な態度をとる聖職者は、ほかの宗教では見当たらない。
宗教というものは、罪の意識を教えて救済を説く。それによって信者の行いが高められるのなら、その宗教は評価に値する倫理的な宗教である。逆に、罪の意識を教えるばかりで救済を説かない宗教、間違った行いを勧めて信者を幸福に導こうとしない宗教は邪教である。
罪の教えと救済について、どの宗教も説くのが姦通の戒めである。宗教が姦通の罪の意識を教えないなら、不倫や浮気はますます増えて、社会の基盤が崩れてしまう。自分の親が誰かもわからず、財産は親から子へと相続されなくなり、やがて性病が蔓延して、ついには社会を崩壊させるに至るだろう。とくに、社交的かつ活動的であることがよしとされる社会では、その危険性は一段と高くなる。
奇妙なことに、罪の意識は信者をその宗教にますます執着させていく。現代医学教の聖職者たちは、その影響力によってこの伝統的な罪の意識を取り除こうと努めてきた。現代医学教は人々を罪の意識から解放した。罪が罪ではなくなったのである。罪の報いが肉体に現れても、医者に行けば治してくれる。人々はそう考えるようになった。
妊娠すれば中絶、性病にかかればペニシリン。キリスト教の七つの大罪のひとつに大食があるが、肥満で心臓を病んでも冠動脈バイパス手術がある。アルコールに溺れても、医者が精神安定剤や睡眠薬を処方してくれるから、もう何も心配する必要はない。それでも効果がなければ、カウンセリングをしてくれる精神科医などいくらでもいる。
罪を説かない現代医学教だが、ひとつだけ例外がある。それは「医者に行かない」という罪である。
医者のもとにやって来さえすればいい。そうすれば、どんな罪からも解放される。現代医学教の信者たる現代人は、体のぐあいが少しでもよくないとすぐにでも病院に行かなければならないと思い込んでいる。
医者に行かなければ罪の意識を感じるように洗脳されているのだ。

●「医者は失敗を棺桶のなかに葬る」

医者という名の聖職者は、「患者を侵している病魔と闘っている」と言えば、何をやっても隠し通すことができる。患者の容体が思わしくないときには、「病魔と闘っています。けれども、私も人間にすぎません」とあらかじめ逃げを打っておく。この手を使えば、医者が勝てば「英雄」、たとえ負けても「敗れた英雄」である。
医者は決して正体を見破られない。患者を危険に追い込んだのは自分でありながら、状況がどっちに転んでもいいように予防線を張っておく。医者が絶対に負けないのは、意味もない医療処置を神聖で効果があるように見せかけているからだ。高価な医療機器を使い、やらなくてもいい危険な治療を行っては医療費を稼ぐ、それが医者という稼業なのである。
分娩監視装置が逆子の異常を示すと、医者は、「これは生死にかかわる状況だ」と言って帝王切開を行う。だが本当に危ないのは、医者が帝王切開を始めようとするまさにその瞬間なのだ。母子が助かれば自分は英雄、母子のどちらか、あるいは両方が命を落とせば、それは「生死にかかわる状況」
だったのである。
医者は負けない。負けるのはいつも患者だ。「医者は失敗を棺桶のなかに葬り去る」という古い格言は、いまでも通用する。医者は飛行機のパイロットにたとえられることがあるが、これは見当違いだろう。飛行機が落ちればパイロットは乗客ともども死んでしまうが、患者が死んでも医者は死なない。
「成功は失敗のもと」。
これは医者が責任逃れに好んで使う屍理屈である。保育器の未熟児に失明が異常に多く発生しても、「治療しなければ死んでいたところだから、それに比べれば運がいいのです」と言い抜け、「体重が一〇〇〇グラムに満たない未熟児は全員が失明して体に障害を残してしまいました。しかし、治療をしていなければ死んでいたでしょう」と答える。
この奇妙な理屈は、糖尿病性網膜症(糖尿病患者が視覚障害を起こして失明に至る病気)にも使われる。失明する患者がこれほど多いのは、「糖尿病患者の命を救い、延命に成功しているからです」と医者は言うのである。
医者は「延命処置は一定の成果を収めました」という言い訳をよくする。この言い訳は、治療成績のよくない病気に使われることが多い。実際、事故以外で患者が死ぬと、医者はたいていこの屍理屈で言い抜けているようである。人々の健康管理において、現代医学が無意味であることを証明する事実はいくらでもあるのだが、医者はその事実を徹底的に黙殺する。
自分の健康管理すらできないのが医者である。ところが、自分の病気の原因も医者としての良心にあるというのだ。同業者に精神を病んでいる者が多いことを指摘されると、医者はこう答える。
「医者が精神障害におちいりやすいのは、完壁主義者で仕事熱心なあまり、患者が快方に向かわないと罪の意識に悩まされるからである」
これはアメリカ医師会会長じきじきのお言葉である。
「患者に何がわかるというのか」
医者は「聖なる言葉」によってその身を守っている。ただの世間話と区別するため、宗教は聖職者の訓話に聖なる言葉をまとわせる。神と言葉を交わす聖職者である。その話は誰にも知られてはならない。もっとも、聖なる言葉といっても、医学用語もほかの業界の専門用語と同様の、単なる業界用語(隠語)にすぎない。医学用語とは世間の人々に本当のことを知られないために使われるものだが、もし人々がその意味を知ってしまえば、医者の聖なる力も無に帰してしまう。
例えば、院内感染が発生すると医者はわざと難解な病名をつけるが、こうすると患者もいかりを忘れて納得したような気になってくる。そればかりか、畏敬の念さえ医者に寄せるのである。
医者が高飛車に話すのも、患者に無力感を与え、医者にいっさいをまかせようとするためである。
神秘のべールで儀式を包み、科学の力がその意味を問いたださないかぎり、医者はどんな治療でも正当な医療だと言い切る。医者の説明は矛盾だらけで、論理などどうでもいいのだ。
医学用語には、患者を治療方針から遠ざける壁としての効果がある。
「患者に何がわかるというのだ。まして治療法に注文をつけるとは思い上がりもはなはだしい。患者は邪魔になるだけだから、治療にかかわらせてはいけない」
これが医者の基本的な考え方である。医者は患者自らが病気に立ち向かっていくことを好まない。
もし、医者が患者にこうした意思をもつことを促してしまえば、患者に十分な説明をしなくてはならなくなる。しかし、医者にはその気などさらさらない。そんなことをしてしまえば、決定権を独り占めにすることができなくなってしまうのだ。
科学技術の粋を集めたハイテク医療機器は、医者の権威づけに利用されている。あらゆる診察室にこうした器械が置かれているのは、それを目の当たりにした患者をすくませ、医者に尊敬のまなざしを向けさせるためである。そして、「やれることはすべてやりました」という医者の主張が、電気で作動する金属の塊によって呪術的な力を帯びるようになる。
これが黒い往診カバンひとつだったらどうだろう。医者が「やれることはすべてやりました」と言ったところで、患者やその家族は納得できるだろうか。
広い診察室にずらりと置かれた、総額数百万ドルはするというハイテク医療機器にスイッチを入れた瞬間、医者はやれることはすべてやっただけでなく、余計なことまでやっているのだ。
教会や寺院にはその宗教の本尊が収められている。医者の地位が高ければ高いほど、病院には多くの医療機器が安罹されている。現代医学教の大聖堂(大病院)や聖堂(中小の病院や診療所)に足を踏み入れると、「無謬性」の神話をまとった聖職者(医者)と向き合うことになる。無謬性とはキリスト教で「絶対に間違いを犯さない特質」という意味である。だから、医者はこの世でいちばん危険な存在なのだ。

●自分の体は自分で守る

これまで述べてきたような問題を解決するために、いろいろな改革が導入されてきた。しかし、私にはどれひとつとして効果があるようには思えないのだ。例えばリハビリテーションがそうである。
リハビリという医療処置は、病気の原因を取り除く治療法ではないからである。
医者は病気の原因ではなく、病気の症状に振り回されている。これは現代医学の宿命的な課題であり、医者はこの問題にはあまり触れたがらない。だからいつまでたっても、根本的な治療ができないのだ。医者が行っているのは病気の原因を取り除く根治療法ではなく、その症状を抑えるだけの対症療法にすぎないのである。
医者の知識を更新する卒後教育なるものが試みられたが、効果はあがっていない。卒後教育の多くは医学部教育と同じ内容である。医学生のときに身につけた知識を繰り返し学んでも意味はあるまい。
また、卒後教育の担当者が学生時代と同じ教授陣というのも問題である。その教授陣の卒後教育を担当する教授陣はどこにいるのだろう。
自分の体は自分で守るべきである。そのためには恐怖心と慢心という医者の基本的な性格をいつも考えに入れておかなくてはならない。作戦としては、医者の慢心を刺激することなく、その一方で恐怖心を利用することである。そうすれば患者も優位に立つことができる。内心では医者は患者に恐怖心を抱いており、何をしてくるかいつもびくびくして、不安で不安でしようがないものなのである。
医者は弁護士を恐れている。それは弁護士の力にではなく、患者と団結するからである。医者が本当に恐れているのは患者である。医者が不正医療を行ったら、裁判に訴えなさい。裁判所こそ良心的な判断をくだしてくれる(かもしれない)場所である。そして、医療問題に詳しく、医者と対決する勇気のある優れた弁護士を選びなさい。
医者がこの世で最も嫌悪する場所、それが被告席なのである。そこは聖職者として世俗的な義務を免除されてきた自分が、一転して患者に問いただされる場所だからだ。しかも、患者には味方が何人もついている。
医療過誤の訴訟件数が増えていることは、医者の牙城を切り崩すために立ち上がった人が増えてきたことを意味している。私はこれを評価したい。
医者から被害をこうむったが、裁判に訴えるほどひどいものではない。
こんな場合は、医者にどの程度の戦いを挑むべきか。これには慎重さが肝心である。医者の対応に備えるためではなく、患者がどう戦うかで効果のほどが決まるからだ。医者が怒って脅してきたら、ひるまずに立ち向かいなさい。本気で立ち向かえば、医者はたいてい引き下がる。彼らは損得を考える。
医者に立ち向かうなら、最後までやり遂げる覚悟を固めなければならない。抵抗運動を遂げるだけの意志の強さと体力に自信がもてるまでは、医者に感づかれてはいけない。いくら議論しても医者の考え方を変えることなどできるものではない。
抗がん剤に代わる治療法を希望しても、医者はその願いを聞き入れてはくれない。ミルクを勧める医者に母乳育児を主張してもしかたがない。新聞の記事を見せて医者に考え方を変えるように迫ったり、新しい治療をしてくれるように働きかけてもむだである。現代医学に代わる治療法や健康法を見つけた方が賢明である。
キリスト教徒は聖職者を不適格だと判断したらどうするだろう。立ち向かうこともあるだろうが、実際はそんなことはめったにしない。たいていはその教会から去るだけである。そう、これが私の答えである。数年前なら考えられもしなかったことだが、現代医学教に対する信仰を捨てればよいのである。
最近ではたくさんの人が現代医学教から抜け出している。

第8章 予防医学が予防しているもの

●病院の倒産を予防する医学

知人の医者からこんな手紙をもらった。
「人々に希望を与え、世の平和に貢献するために、私は返事を出した。
「医者をやめることだね」
医者だからこそできることとは何だろう」
治療医学の救いようのなさはこれまで見てきた通りだが、予防医学もそれに劣らずひどいものである。現代医学が人々の生活を管理しようとするとき、予防医学は格好の口実に使われてきた。予防医学こそ、現代医学が生み出した巨大な魔物のようなものなのである。
「問題を未然に防ぐため」を口実に、権勢欲に溺れた連中が、やりたい放題なのは周知の事実で、例えば、国防総省は「国民を敵から守る」という使い古された大義名分で、年間数千億ドルにもおよぶ軍事費を使っている。その大半は役にも立たないことに費やされているが、とはいっても、国防総省は「敵が襲ってこないのは、多額の軍事費のおかげである」と主張することはできるだろう。
では、医学界は、「病人がいないのは、多額の国民医療費のおかげである」と言い張ることはできるだろうか。国民の健康管理という聞こえのいい名目を掲げて、やはり毎年数千億ドルもの費用が投入されているが、現状は、国民医療費が高騰すればするほど、病人は減るどころかますます増えていく一方である。
アメリカは国民皆保険制度のない国である。高齢者や身体障害者向けの医療保険制度、それと低所得者向けの医療扶助制度を除けば、医療保険は、生命保険と同じように、個人あるいは職場単位で保険会社と契約が交わされている。しかも、この保険は任意保険である。医療保険にまったく加入していない三七〇〇万以上の人と、契約していても部分加入でしかない五〇〇〇万~六〇〇〇万人を合わせると、その数は一億人弱にも達する。この数字は、国民の約四割が突然の病気やけがに見舞われても、満足な医療を受けられないことを意味している。
国民皆保険制度を導入しようという議論も一部でされているが、この制度にあまり期待は寄せられまい。将来のことを考えると、健康面と財政面でさらに深刻な事態を招くことにもなりかねないからだ。たとえ、無料で医療が受けられるようになったとしても、病気そのものが減ることなどはありえないことだし、すでに濃厚で過剰となってしまった医療をこれ以上増やしてどうしようというのだろう。

●予防接種に警戒せよ

医学界と国が手を携えて推進する「予防措置」の大半は、危険であることと無意味であることの二点において、数ある現代医学教の儀式のなかでも比類のないものである。伝染病のワクチン接種、いわゆる予防接種がその典型で、接種が原因で死亡してしまう事例がいくつも発生しているのだ。
ジフテリアは、かつては恐ろしい病気だった。命を落とす者さえいたが、いまではほとんど発生していない。それにもかかわらず、予防接種はいまだに続けられている。まれに大流行することもあるが、予防接種の効果を考えると疑問が残る。
以前、シカゴで大流行して一六人の犠牲者が出たことがあった。シカゴ公衆衛生局によると、このときのケースでは、一六人のうちの四人がジフテリアの予防接種を受けており、その四人には完全な免疫ができていたという。また、このほかに五人の人間が数回にわたって予防接種を受けていて、検査の結果では、五人のうち二人には免疫ができていたことが確認されている。
三人の死者を出した別のケースでは、死亡した人のうちの一人、また二三人の保菌者のうちの一四人に免疫が備わっていたことが報告されている。
百口咳ワクチンの是非については、世界中で激しい議論が起きている。接種を受けた子供たちの半数にしか有効性が認められないにもかかわらず、高熱、けいれん、ひきつけ、脳症(高熱のために起こる意識障害)などの副作用を引き起こす確率は無視できないほど高い。各地区の公衆衛生局は、六歳以上の子供に百日咳ワクチンの接種を禁止しているが、百日咳も今日ではほとんど見られなくなった伝染病である。
おたふくかぜワクチン(ムンプスワクチン)にも疑問が残る。このワクチンを接種すれば、確かに流行性耳下腺炎の発症率を抑えることはできるが、免疫が消えてしまえば元の木阿弥である。流行性耳下腺炎や麻疹、風疹には、一九七〇年代後半にそれぞれワクチンが開発されたが、こうした病気では、天然痘や破傷風、ジフテリアのような重い症状は現れない。
麻疹にかかると失明すると信じられているが、実際にはそんなことは起こらない。「差明」という症状は単に光に対する感受性が強いだけのことだから、窓にブラインドをするという昔ながらの処置が効果的だ。
麻疹ワクチンは、麻疹脳炎という発症率一〇〇〇分の一と言われる伝染病を予防するためのもので、麻疹を何十年も治療した経験のある医者なら、この伝染病は普通の子供で一万分の一か一〇万分の一くらいの発症率でしかないことくらいは知っているはずだ。
しかし、ワクチンには、一〇〇万分の一の確率で脳症、さらに、それよりも高い確率で、運動失調症(手足の筋肉の異常)、知的障害、精神薄弱、精神遅滞、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、情緒不安定、無菌性髄膜炎、てんかん、ひきつけ、半身不随のような致命症となりかねない神経性障害などの副作用を引き起こすことがあるのだ。
風疹ワクチンも依然として議論の対象である。接種年齢が専門家の間でも一致していないのだ。また、このワクチンには一時的とはいえ、数カ月にわたる関節炎を引き起こす危険がある。
アメリカでは、子供に接種されることが多い風疹ワクチンだが、風疹と診断された妊婦の場合、接種を受けると肢体不自由児が生まれるおそれがある。その確率は年次と研究によってばらつきがあるものの、胎児の保護という点を考えると、その有効性についてはさらに論議を重ねる必要がある。

●乳がんの集団検診の危険

乱診乱療の犠牲者は子供と高齢者だけにとどまらない。女性はここでも餌食にされている。その典型が乳がんの集団検診である。この検診がどんな役に立つのか、それを示す根拠など実はどこにもありはしないのだ。しかし、医学界が乳がんの予防措置を盛んにアピールして世問に知らしめた結果、『不思議の国のアリス』さながらの珍事が現実に起きている。
「乳がんや卵巣がんなどの女性特有のがんは家系によっては多発するおそれがある。そこで、予防措揖として、乳房をあらかじめ切除しておくか、卵巣を摘出しておく必要がある」
こんなスローガンをいったいどう受け止めたらいいのだろう。この手の予防措置としての手術のもうひとつの例が、成人女性を対象にして行われている膣の摘出手術である。この手術は、一九七〇年代にがん予防を理由に始まった。狙われているのは、妊娠中にDES処置を受けた女性を母親にもつ、まだがんになどなっていない女性たちである。
女性は医者と話すときには気を許してはならない。女性の命を守ることを口実に、医者は何を切り取るかわかったものではないからだ。もちろん、男性はこんな口実におびえる必要はないだろう。男性の命を守るために「男根切除術」を行おうとは、さすがの医者も考えてはいまい。
医者が好んで行う予防措置は、患者に害をおよぼすだけでは済まされない。医者は予防に必要な情報まで握りつぶしているから、被害はさらに広がっていく。
私は乳がんには医学的に四つの原因があると考えている。未出産あるいは出産回数の減少、人工乳育児、ピルの使用、更年期障害治療剤プレマリン(結合型エストロゲン)などの卵胞ホルモン剤の使用である。この四つの原因について、女性はぜひ熟知しておいてほしい。
予防措揖を名目に、女性に対して行われているキャンペーンがもうひとつある。それはコ定の年齢を超えたら子供を産むのは危険だ」というもので、医学界の広報活動によって、そう思い込んでいる人は世間に大勢いる。
私が医学生だったころは、「四十五歳を超えたら子供を産むべきではない」と言われていた。それが、研修医のころになると四十歳となり、さらに専門医学実習生だったころには三十八歳というように、その年齢はだんだんと下げられてきた。
出産年齢の上限に制限を加える理由について、医者は「年齢とともに卵子が疲労する」と説明する。
「疲労卵子症候群」が奇形児の原因になるとでも言いたいのだろう。では、男性に「疲労精子症候群」がないのは、どうしてなのか。
母親の年齢と奇形児の出産に、実は因果関係など認められないのである。それどころかジョンズ・ホプキンス大学医学部の研究で、レントゲン検査で医療被曝を経験した女性は、レントゲン未経験の同年齢の女性に比べると、ダウン症児が生まれる確率が七倍も高いことが明らかになっている。この報告の正確さはこれ以外の研究によっても裏付けられている。
高齢出産で奇形児が生まれた場合、その原因のひとつは、出産するまでに母親が何度も不用意に浴びてきた必要もないX線にあったのである。
医者は健康とは何かを考えない
現代医学が編み出した主力商品「予防医学」は、危険性ということにかけては相当なしろものである。
予防医学というから、一般の人たちは、てっきり病気を予防してくれるものだと思い込んでしまつた。こんな誤解を招く呼び名など、さっさとやめにすべきだろう。病気にならないように健康を管理するということは、本来は一人一人が自分で行うべきものなのである。
しかし、現代医学はそう思っていない。病気の予防を大義名分にして、医者はかなり過激な医療行為をしつづけているし、その激しさは治療医学と同じくらい、あるいはもっと強圧的で物騒なものになっているのが現状である。
そもそも現代医学は、健康とは何かということを考えない。だから、ほとんどの医者は、人が健康であることをどう定義したらいいのかわかっていない。医者にできることといえば、「正常」と診断するぐらいである。次から次に検査を受けても「異常所見なし」という人はめったにおらず、受ければいずれかの検査で異常が見つかる。それはなぜなのだろう。人が「正常」である限り、医者は何の利益も得られないからである。
かつて医学界では、公衆衛生を専門にする医者には非常に低い評価しか与えられていなかった。その仕事が衛生設備の普及など、健康的な生活の基本条件を整えることにあり、ほかの医者の仕事を減らすことになっていたからである。しかし、集団検診を主な活動として推し進めるようになると、公衆衛生を専門とする医者は「患者供給係」へと変身し、医者の需要をかき立てるようになった。いまでは、医学界での彼らの評価は非常に高い。
人が自力で健康を保てるとは現代医学は考えていない。病気というのは、いつ襲ってくるかまったく見当のつかない災難であり、これを払い除けるには生活習慣を改めるぐらいのことではとうてい無理で、現実世界とはかけ離れた儀式が欠かせない。これが医者の思考パターンなのである。
現代医学教では、「病院に行かない罪」以外には罪はない。そして、人間というものは病気になるべき運命を原罪として背負って生まれてきた存在であり、病気でないことが証明されない限り、その人間は病気だと考える。だから、いくら病気ではないと言い張っても許してはもらえないし、許しを得るためには、検査と予防接種を受けたあかしを示して、自分と自分の家族の病歴を告白しなければならない。医者はこれに基づいて審判をくだす聖職者なのである。
もし、本当の意味で予防医学が行われているのなら、人はもっと健康になって、病院に行く回数も減っているはずである。しかし、現代医学が目指しているのはまったく逆のことである。関心を寄せるのは、もっぱら自らの権威の維持である。病院に行く回数が減るということは、現代医学の権威を損ねることだから、それは絶対にあってはならないのだ。
現代医学教が栄えていくためには、健康ではなく病気が必要だ。世間に蔓延するさまざまな病気にいつ襲われるかと悩んで恐怖におののけば、それだけ現代医学の誘い文句にのせられて、人は医者の思うつぼにはまっていく。

●決まり文句は「手遅れ」

乱診乱療という言葉通り、医者は濃厚で過剰な医療を毎日のように行っている。いったん末期患者の治療が始まると、検査漬け・薬漬け・不要な手術・人工呼吸器への接続といった、ありとあらゆる儀式めいた処置が繰り広げられていく。そして、儀式をひと通りやり終えるまで、医者はその手を絶対にゆるめようとはしない。
こんなことが許されるのは、事実を覆い隠す医者ならではのだましのテクニックが駆使されているからだ。それが、犠牲者に罪をなすりつけるという手口である。この手口を使うとき、医者はこんな意味のことを口にする。
「あなたが病気になったのは、生活習慣に原因があったからではありません。本当の原因は、早期発見・早期治療を徹底しなかったことです。病気になってから病院に来たのでは遅すぎるのですよ」
時には医者の予想よりも早く患者が死んでしまうことがある。それでも医者は自分のせいで患者が死んだとは絶対に認めようとはしない。難解な医学用語を駆使して立場を逆転させると、犠牲者に責任をなすりつける例の決まり文句を吐く。
「手遅れでした」
現代医学教の信者は自分の健康に自信がもてない。病気がいつどこで自分の身に襲ってくるかわからないと信じ込んでいるからだ。信者は緊張や不安、罪の意識に悩まされて、心穏やかならぬまま日々の生活に追われる。健康に関する自己責任と自己管理の能力は麻痺させられているから、自分よりも強い医者という存在に身をゆだねてしまう。
医者は、自分の処方した薬を患者がきちんと服用していないとすぐにいかり出す。どうやって患者を医者の指示に従わせるかは、現代医学にとっても頭の痛い問題なのだ。
現代医学が理想とするのは、モニターで監視して、患者が薬を飲まないとブザーが鳴るとか、電気ショックを与えて無理にでも飲ませる機械である。しかし、こんな「服薬指導システム」はさすがに認められたものではない。だから、患者を問いただす、これまでの方法で羊の群れを管理しなくてはいけない。
宗教は一般に、信仰に冷めた信者が増えてくると、守りに転じて神学を作り上げるものである。ようやく築き上げた地位をくつがえされるのを防ぐために、自分たちの神学の大切さをでっちあげるべくことさらに言い立てる。

●いま望まれる医学

医者が犠牲にしてきたのは、女性や子供そして高齢者である。すでに述べたように、医者に呪いの言葉をかけられた高齢者は現役を退き、老人ホームに監禁される状況に追い込まれる。
だが、現代医学が究極の目標にしているのは、すべての人々を現代医学教に監禁することである。
医者はあらゆる機会を利用して、患者に無意味な治療を強制的に受けさせようと試みる。新しい医療処置が次々に合法化されていくのは、医者が国民一人一人に対してさらに強い力を行使したいからである。
だから、子供を家で産み、母乳で育て、学校に送り、自分で効果があると考える方法で病気を治療しようとするとき、その人は間違いなく医者と対決しなければならなくなる。
「予防医学」でも言葉の言い換えが行われ、世間の目はくらまされた。現代医学教は、予防医学とほかの医療とを区別することによって、予防医学が病気を未然に防げるかのような錯覚を人々に与え、妄想としか言えない医療処置を合法化することに成功した。
現代医学が推進している医療を「予防医学」と呼ぶのなら、そう呼ばせておけばいい。私たちが実践する自主的な健康管理は、予防医学とは呼ばないようにすればいいのだ。「母乳育児が母親を拘束し、子供の依存心を高めることになる」と言うのなら、母乳で育てて子供の依存心を高めることに努めよう。純粋な自然の食べ物にこだわることで変人と呼ばれるなら、自ら変人と名乗ろう。
現代医学は正統でない医者に、やぶ医者の烙印を押そうとする。それなら、いま最も必要とされるのは多くのやぶ医者である。大切なのは言葉ではなく行動だ。それも、現代医学教を粉砕してしまえるだけの行動である。
アメリカには、がんや心臓病のような重い病気の予防を目指している優秀な研究者が何百人といる。
だが、その研究方法が現代医学から見て正統でないために、医学界から追放されないよう細々と研究をしているのが現状である。
ノーベル化学賞と平和賞を受賞したライナス・ポーリング博士の場合がその典型的な例である。ビタミンCががん患者に有効的であることを博士は研究によって解明したが、それを確認するために国立がん研究所に資金援助を依頼したところ、門前払いをくらったのである。
私の知り合いの医者のなかには、こう言っている者が何人もいる。
「自分や自分の家族ががんになれば、公認されていないがん治療に頼るつもりだ」
医者自身が信頼していない治療法で、どうやって人々の健康を保証できるというのだろうか。
私たちは現代医学と縁を切ったほうがいい。そのためには、現代医学の呪縛から自らを解放する確固たる決意、それに健康と病気に対する社会全体の取り組み方を新たに構築する知恵や勇気、戦略を持つ異端者軍団が必要となるだろう。
いま、切に望まれるものは何か。それは、医療に対して、現代医学とは違う視点に立った「新しい医学」なのである。

第9章私の考える新しい医学

●「生命」の核心に向きあう

新しい医学、それは現代医学教を根絶やしにするための私の構想である。
これまでのしょうで、なぜ人々が現代医学からその身を守らなければならないのか、そして、そのためにはどうすればいいのかを私は説明してきた。具体的には、医者の指示が正しいかどうかを判別する方法、医者を識別する方法、医者と対決する方法、医者の乱診乱療を避けて健康を維持する方法である。
読者のなかには、これらの方法のうち、すでにそのいくつかを試してみた方がいるかもしれない。
そして、ひとつでもこの方法を試してみた人なら、自分の身を守る以上のことを成し遂げたことに気がついたことだろう。そう、あなたは現代医学をくつがえしたのである。
私は、現代医学教という宗教と訣別することを繰り返し訴えてきた。
人には主義主張にかかわらず、なすべき課題にきちんと向き合わなければならないときがある。これは私の信念だ。新しい医学に向かって一歩でも踏み出せば、もう立ち止まることはできない。引き返して再び自分の健康を医者にゆだねるか、そのまま突き進むか、道は二つにひとつしかないのである。
まずなすべきことは、自宅で子供を産み、母乳で育て、子供に予防接種を受けさせず、職場や学校の健康診断を拒否することである。そして、なぜ手術を勧めるのか医者に問いただし、薬を使わずに自分や自分の子供を治療してほしいとはっきり意思表示をすることだ。
わざわざ闘争宣言などする必要はない。ただ行動によって表せばそれで十分である。
現代医学が個人とその家族の健康に介入しようとしてくる限り、自らの責任において、自分と自分の家族の健康を管理しようとすることは、一種の政治活動なのかもしれない。新しい医学は、家庭こそが健康の基本であり、地域社会とはその家庭が寄り集まったものだと考えている。
そして、目指しているのは、政治的な立場の違いを超えた、生命の核心とでも言うべきものだ。それがクオリティー・オブ・ライフという問題だが、そうなると、新しい医学もまた宗教的な色彩を帯びてしまうことはどうしても避けられない。
現代医学はその性格上、生と死、生命の意味といった宗教的問題をあつかいながら、結局、それ自身が宗教と化してしまった。その惨憺たるありさまは、薬や医療機器といった生命のないものに基づいて、現代医学教ならではの教義を繰り広げてきてしまった結果である。だから、現代医学は偶像崇拝の宗教に成り果ててしまったのだ。

●生命を祝福する医学

現代医学は、生と死のみならず、人生に起きるさまざまな問題をあつかう伝統的な宗教を攻撃してきた。だが、新しい医学にとって、これは二度と繰り返してはならない過ちである。
私は本書のなかで、現代医学教を可能な限り排撃してきたつもりだが、では、現代医学に代わる新しい医学とはどのような医学なのだろうか。それをこれから説明したい。私は医療現場から悪い医者を一人残らず追い出し、新しい任務を成し遂げるのにふさわしい医者を送り込みたいと考えている。
信仰は宗教にとって最優先される課題である。だから、新しい医学にもやはり信仰は欠かせない。
だが、新しい医学では、患者は医者や医療技術、薬といったものをあがめる必要はない。求められるのは、生命そのものをあがめる信仰である。
新しい医学は生命に畏敬の念を抱き、生命を慈しむことによって現代医学を追い払うことを使命とするが、患者と伝統的な宗教の間に割って入ることはない。なぜなら、すべての伝統的な宗教は、新しい医学と同様、生命を尊んでいるからだ。
価値観とは、物事の根本的な善し悪しを判断する規範意識である。それはどんな人にとっても不可欠である。価値観など関係ないと言う人ですら、価値観など不要という価値観をもって生きている。
人は価値観から逃れて生きていくことはできないのだ。
そこに宗教が求められる素地がある。宗教はさまざまな価値を順序づけ、選択肢がいくつもあるときに、人が選ぶべき行いを指し示してくれる。だが、現代医学は登場すると同時に、それまでの価値観を崩してしまった。現代医学は人々にこう呼びかける。
「人はもはや、これまでの価値観にとらわれることはない。生活習慣が原因で病気になろうと、現代医学が治してみせる。善悪の判断を迫ってくる道徳からあなたたちを自由にしてあげよう。その代わり、現代医学の倫理をひたすらあがめなさい」
人間である以上、生物学の法則を避けて通ることはできない。生物学こそ新しい医学の倫理と価値観の核となるものである。新しい医学は生きとし生けるものを祝福する。
一方、新しい医学が罪として批判する価値観の多くは、現代医学教が認めてきたもの、美徳だとして奨励してきたものである。例えば、
・妊娠中の体重増加を制限すること。
・ピルは妊娠より安全であると誤解して自由に服用すること。
・定期健康診断を毎年受けること。
・栄養に対して無知であったり、間違った考え方をすること。
・子供に予防接種を定期的に受けさせること。
・そのほか、現代医学が健康に貢献するとして勧めているさまざまな行為。
新しい医学がこれらを「罪」として戒めるのは、生命をおびやかす危険性があるからだ。
人の体に宿る生命は、適切な条件さえ整えば、自然治癒力というすばらしい修復能力を発揮する。
新しい医学が人々に前述の行為が罪であると意識させるのは、自然治癒力を発揮させる条件を整えるためである。

●豊かな人生を送るために

現代医学が医療機器に依存した、人間を死に至らしめる形式だけの医学なら、新しい医学は人に希望を与える医学である。新しい医学は、現代医学のように見せかけだけで意味もない儀式を行うのではなく、意味ある行いによって生命を祝福する。
当然、この宗教にも聖職者はいるが、新しい医者は仲介者となって信者と神をとりもったりはしない。また、医者のふるまいは患者の自己決定権によって厳しく制限されている。とはいえ、ルールを守っていくためには仲介者は欠かせない。新しい医学においては、その仲介者は信者が病に侵されたときに助け出すための存在である。
新しい医者が目指しているのは、最後には自分の仕事をなくしてしまうことである。だから、人々には、医者に依存することを日に日に減らしていくように指導する。人は医者に頼らずに生きていくことを学ばなければならない。なぜなら、信仰の中心は医者ではなく、生命を祝福する個人・家族・地域社会であり、それらが三位一体となってはじめて、生命・愛・勇気という健康の泉が湧き出すからである。
心と体の管理は、一人一人に課せられた責任である。なかでも食生活は重要だ。炭水化物やタンパク質、食物繊維、ビタミンといった栄養のことだけを考えていればいいというわけではなく、純粋な自然の食物を食べ、純粋な自然の水を飲むことを心がけなくてはいけない。
人間も自然の一部であり、自然と調和しなくてはならない存在だ。そのためには、どんな食生活が自分に最もいいかを十分に知っておく必要があるだろう。口から入るものは人格に多大な影響を与え、口から出るものを左右することすらある。
ほかの欲求についても、食生活と同様、「栄養バランス」を心がけなくてはなるまい。ある意味で、人の生き方にかかわって、好ましい影響をもたらすものはすべて「栄養」と言えるだろうし、その内容についての責任は個人にゆだねられている。
正しい「栄養補給」をできるかどうかは、生きていくうえで健康の実現にかかわる切実な問題である。テレビの前に座り込んで、現実離れした世界に何時間もひたることは、心と脳を豊かにする栄養補給ではなく、貴重な時間をただ浪費するばかりである。こうした時間は、自分と周囲の人を豊かにする前向きな活動に充てることこそ望ましい。自分の生活の質を豊かにする「栄養補給」については、五感を鋭くして吟味すべきだろう。
食物だけでなく、行動も聖なるものだ。つまり、生物学的な意味でも、自分の生命のためにも、人にはやっていいこととやってはならないことがあるのだ。すべての宗教が天職について説くが、それは、その宗教に身を捧げた聖職者のことを指している。
しかし、天職とはすべての人が享受できるものではないだろうか。人はみな長生きをし、幸福で実り豊かな人生を楽しむことを天職として授けられ、それを最後まで務めあげるように定められているのだから。

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