うううううううう
うううううううう
★第1章「ふたつの風景」
光の風景と闇の風景/ガンサイトの世界では…/生検を勧められガンを発見/「私、元気だったのに…」/ガンを放置したほうが生存率は高い?!/ガン検診は全く無意味?/「有効性に疑問」とX線健診廃止へ/業界の利益のために人命軽視する?/なぜマスメデイアは真実を伝えないのか/「ガンだったんだから仕方ない」/検査してみたら末期ガン/40日後に山を越えた!/ガンから解放されたFさん
★第2章 呪縛の仕掛けと空気
ガン治療の拒絶は確信犯的な選択/「先生にお任せします」とは言いたいが/手術するしか助かる道がない?/「ガンの壁」と「ガン呪縛」/「早く入院して手術を!」の大合唱/人体に埋め込まれた治癒のプログラム/呪縛は「空気」によってもたらされる/千島学説とチョムスキー/生命は複雑で高度な有機的なシステム
★第3章 されどガンを侮らず
たとえ遠隔転移があっても大丈夫/治療でなく治癒への道/「がんなんか笑っちゃえ!」/「全快宣言」はしたものの…/ふと迷いも生じてきたりして/密かに死を覚悟して「おれいの章」/「戦争思想」に立つガン治療/ぼく自身の治癒への旅/足もみ整体/「気血」の正常化を目指して/全身が見事な「湿疹の花畑」と化す/波状的に繰り返す好転反応/湿疹はやがてすっかり消え去った/体は「治し方」を知っている/「寿命150年説」にも合点がいく/ルバング島で30年間生き延びた秘密
★第4章 ガン治療の悲劇と千島学説
なぜガン治療に成果が現れないのか/ガン細胞だけでなく人間まで殺すガン治療/『抗ガン剤で殺される』/ガン治療は現代のアウシュビッツ/真昼の暗黒・ガン治療の絶望/千島学説との出会いと驚き/絶食させた動物の骨髄を観察して/はじめての一週間断食/食べ過ぎこそが万病の元/生玄米で元気になった弟/生き物にとっての断食の意味/赤血球から細胞が生まれていた/「通常時」と「異常時」のいのちのいとなみの違い/10年間放置された千島の学位請求論文
★第5章 細胞分裂説の怪
医師から入った忠告の電話/長い沈黙に「入院?それとも死亡?」/「千島学説全集」との再会/千島学説の8大原理/ウイルヒョウの細胞分裂説/誰が細胞分裂を確認したか/細胞分裂説に基づいたガン治療/毒ガスから開発された抗ガン剤/明快な理論=細胞分裂説?/血液も細胞も生きている生命体/細胞は「場」に応じて行動を変える/自然は不断に連続的に変化する/はっきりと区別するのは人間だけ/変化のプロセス「AFD現象」
★第6章 血は腸で造られる
骨髄造血説の危うい根拠/骨髄造血説から生まれた骨髄移植/骨髄移植は「夢の治療法」?/インターネットの海をサーフィンする/墓標に刻まれた3度の骨髄移植/ドナーたちの切なる願い/骨髄移植の歴史を振り返ると…/明快な治癒方程式からなぜ「解」が出ない?/皮肉にも医師から見放された後に完治/米国ガン治療学会の告白?/点滴で幹細胞がなぜ骨髄まで行き着く?/幹細胞は3種に気まぐれ分裂する?/「巨大な医学構築物」の基礎そのものが危ない/「骨髄移植1万例」のその成果は?/骨髄移植に希望を託して/「ウソの骨髄移植=まねごと手術」/「まねごと」だったからこそ良かった/「赤血球→
細胞」の事実を観察した森下博士/レペシンスカヤの「細胞新生説」/骨髄造血説から見える数々の矛盾/手足の長骨がない人の造血は?
★第7章 千島学説的ガン治癒法
基本方程式は「食べ物→ 腸→ 体細胞」/千島学説は正しいけれど…酒向博士の体験/治癒のカギとしての炎症反応/炎症は体の自然な治癒反応/ガンは一種の「慢性炎症」/ガンは「血液の浄化装置=安全弁」/ガン治癒の決め手は「結局は食べ物」/肺ガンを克服した国際弁護士/千島学説に出会い希望の足場を得る/湿疹に苦しみながらも出口を見つける/「おめでとう!」と医師からの祝福/二つの医療「アロパシーとホメオパシー」/病気は皮膚から外に出ていく/「気・血の乱れ」と「動=血流」/からだは治し方をちゃんと知っている
★第8章 回帰の旅の物語
「気=超エネルギーの場」/全身的な活動を失った人間/ゼロ・ポイント・フィールド/生命の共鳴=壮大なシンフォニー/信号(情報)が生体を動かしている/脳も量子の法則に従って機能する/意識とはコヒーレントな光/響き合う宇宙の海=量子真空/生命体がもつ驚くほどの一貫性/すべての治療法に共通するもの/プラシーボ反応は医学の最重要な果肉/コヒーレントな光を蘇らせる/ハイ(変性意識)状態へのトビラ/吸う営みを呼び込む…呼吸/「回帰の旅」のマップ=千島学説
★終章 健康回帰の道しるべ
極微の生命体ソマチッドを発見/生命の謎を解いたネサンだったが…/ガン完治率75%の治療法の運命/ライフの成果を蘇生させたガストン・ネサン/社会的封殺の運命をたどった先駆者たち/健康回帰の道しるべ/胃相・腸相が悪いとガンになりやすい/『沈黙の世界』(ピカート)とガン/般若心経と量子真空世界の協奏曲
★あとがき
本の紹介
『ソマチッドと714Xの真実』
ガストン・ネサンを訪ねて
ガストン・ネサンは、画期的な顕微鏡ソマトスコープを開発し、
不思議な極微の生命体「ソマチッド」を発見した。
ソマチッドは「生命の謎」を解く重要なカギを握っており、
それは従来の生物学・医学等々を根本から覆す威力に満ちている。
しかもネサンはソマチッドの生態を観察研究することにより、
ガンや難病などの画期的な治療薬「714-X」もまた開発した。
クリストファー・バードが著わした『完全なる治癒』によれば、
714-X治療によるガン完治率は、なんと75パーセントだという。
果たしてこれは真実だろうか。もし真実だったとしたならば、
なぜその事実が、世界に広まっていないのだろうか?
そんな素朴な疑問を抱いてカナダのガストン・ネサンを訪ね、
ソマチッドと714Xの真実を明らかにしたのが本書である。
これ1冊さえ読めば、ガストンネサンのこと、ネサン裁判のこと、
そしてソマチッドと714-Xの全貌と、その真相が分かる。
本書では、長い沈黙を破って語られたネサンのメッセージも紹介する。
………………もくじ……………………
- カラー写真ページ
- はじめに
- ガストン・ネサンご夫妻からのメッセージ
- 序章 カナダへの旅「事始め」
- 第1章 ついに念願の初対面
旅の途上での思い
イメージと実像と…
- 第2章 ガストン・ネサンの偉業
初めにソマトスコープありき
ソマチッドの生命の営み
神秘的なソマチッドの宇宙
- 第3章「完全なる治癒」の証言
- 第4章 714Xの真実
- 第5章 714X効果とは?
- 第6章 日本のソマチッド事情
- 第7章 セミナーに参加して
ガストン・ネサン訪問記 萩原 優
ガストン・ネサン交響楽 稲田 陽子
- おわりに
- 資料
…………………………………………………………
★B6書籍版:392ページ・カラー写真ページ付き
★著者:稲田芳弘
寄稿 萩原 優 稲田陽子
特別寄稿 ガストン・ネサン
★発行:株式会社 Eco・クリエィティブ
★定価:2,500円+税125円 送料 290円
★予約販売価格:送料込み 2,500円
…………………………………………………………
「まえがき」より
2009年6月、日本からカナダのガストン・ネサンご夫妻を再び訪問した私たち一行は、一年ぶりにネサンご夫妻の素晴らしい笑顔と温かい歓迎に触れることができ、前回同様、エキサイティングで密度の濃い三日間の集中セミナーを受講することができた。
(中略)
ネサンご夫妻による二回にわたるセミナーを受けてつくづく思ったことは、すべての人間の人体に備えられた免疫システムのすごさと素晴らしさである。ガンもインフルエンザも免疫システムと深く関係し、さまざまな病気が発症するのも病気が治癒するのにも免疫力が作用する。そのことをガストン・ネサンはソマトスコープを駆使して解明したのだった。
そしてその免疫機構は、「フィジカル(身体的・物質的)、エモーショナル(感情的・情緒的)、インテレクチュアル(知性的・理知的)、スピリチュアル(精神的・霊的)」な4つのファクターの影響を受け、これらの調和的統合が健康維持や病気の完治の決め手になるという。その意味で「免疫システム」こそが病気を治癒するためのキーワードでもある。
ガストン・ネサンが果たした快挙は、こころや感情、意識といったものが健康や病気に深く関与しているということだ。しかもそのことを、彼は画期的な特殊光学顕微鏡・ソマトスコープを使って明らかにした。その意味でネサンは「目に見えないこころの働き」と「いのちの営み」の関係性を、見事に「科学」してくれたとも言えよう。ソマトスコープで観察した映像や画像が、両者のその関係性を誰の目にも明らかにしてくれるからである。
(後略)
…………………………………………………………
以下に、本書の出版に向けてにネサンご夫妻から寄せられた寄稿文の、そのほんの一部を抜粋して、以下にご紹介させていただきます。
ネサンさんからのメッセージを待ったことも出版が遅れた理由の一つでしたが、じっと忍耐?しながらお待ちしていた甲斐がありました。
そこにはとても素晴らしいメッセージが書かれていたからです。
(本ではネサンご夫妻のメッセージが16ページにもなっています)
心の声……
夫と私は2000年以来、グループ向けの専門的なセミナーは行ってきませんでした。
要望は絶えず増え続けていましたが、私たちは、どちらかと言えば、
個人的に研究をされている医師の方々を受け入れるようにしておりました。
そのようにすることで、個別の要求に沿った、より親密な交流が行えたからです。
そんな中、2008年の初め、日本のグループが、
ガストン・ネサンの仕事に興味を示しているということを知りました。
私たちに「このような方々をどう励ませばよいのだろう」
という心の声が聞こえたのは、その時でした。
(中略)
私は、皆様方の到着の前日、我々の母国語(フランス語)や第2言語(英語)
をコミュニケーション手段としないグループのために、
セミナーを開くという大きな挑戦について考えました。
代表団に同行する通訳の松山さんは、私たちの良き協力者であり、
私たちはとても頼りにしていました。
そこで自らホテルに赴き、日本からのお客様それぞれのお部屋に、
小さな花束と歓迎の言葉(フランス語の)をお届けしました。
興奮と幸福に不安が入り混じったような気持ちでした。
遠くからガストン・ネサンの研究についての話を聞きに来られるお客様です。
失望させたくはありませんでした。
その日の朝は、心に幸福を感じ、何か特別なことが起こるかもしれないと思いました。
2008年5月21日のことです。晴れた日でした。
私がクオリティ・イン・ホテルに出向いた時、
私たちのお客様はすでに玄関のロビーで私を待っておられました。
お一人お一人と握手をし、キスのご挨拶をしました
(お客様をお迎えする時の、こちらの習慣です)。
ホテルの従業員はカウンターの後ろで貴賓席に並ぶように、
このすばらしい瞬間の証人として、
うっとりと感動しながら静かに私たちを見つめていました。
この地方では、このような出会いはあまり一般的ではありません。
温かな雰囲気に包まれ、人間同士の魂と魂との繋がりが築かれたのです。
この瞬間から、言葉の壁があっても、
お互いに理解し合えるのだということがわかりました。
(中略)
見解と意図
私たちの意図は明らかでした。それは、
ソマチッド理論の精神における変性疾患(より正確にはガン)についての
我々の見解を日本の代表団と共有すること、
そしてそれ(ガン)を自然な方法で食い止めることです。
ガンについて、ガストン・ネサンの見解は革新的です。
彼はガンを「局部の疾患が広がったもの」ではなく、
むしろ「全身的疾患が局部化したもの」と考えます。
この一言がとてつもない波紋を引き起こし、ガン研究の既存の概念を覆しました。
ガストン・ネサンは、このような考え方を、
1950年代から60年後の現在に至るまで提唱し続けました。
そして、科学は、彼の理論の応用や彼の提唱する治療法に関して、
その正当性を認めたのです。
彼の主要な製品である714Xは、ガンに影響を及ぼすことが明らかな、
多数の生物学的環境の悪化を予防したり、回復させることを可能にします。
★はじめに
★序章 「ガン? あ、そう」

音声読み上げ
序章は音声のみ
ガン呪縛を解くの一部音声読み上げ

がん呪縛を解く音声化ファイル4章

がん呪縛を解く音声化ファイル5章

がん呪縛を解く音声化ファイル6章

がん呪縛を解く音声化ファイル7章

がん呪縛を解く音声化ファイル8章
序章「ガン? あ、そう」
●ある日突然「ガン宣告」
「生検の結果のことですが、これは典型的な乳管ガンです。皮膚などへのひどい浸潤も見られますから、この後すぐ外科に行ってください。もう連絡はとってあります。今後のことは外科のほうでお願いしますね」
朝8時半、まだ動き出したばかりの皮膚科の診察室で、若い女医さんからストレートにそう言われた。そのとき、数名の看護師たちが立ったまま黙ってぼくを見つめていた。
これはいわば「ガン宣告式」である。そのとき、医師にも、看護士たちにも、その宣告に対するぼくの反応を気遣う優しさがあふれていた。
「間違いなく乳ガンなんですね」 念を押すぼくに女医さんは、乳ガンであることは疑いの余地がないと繰り返し語り、ぼくの乳首をつかみながらその大きさを測った。定規を使っての簡単な計測だったが、2.5×3.5センチくらいの大きさになっていたようだ。要するに、これはもう正真正銘のりっぱ?なガン、ということらしかった。
乳ガンであることを確認したぼくは、心の中で一瞬「しめた!」と思った。それと同時に、(乳ガンかぁ、男なのに…、人には言いにくいちょっと恥ずかしい病名だなぁ…)という、もうひたすら苦笑するしかなさそうな、なんとも情けない思いも湧き上がってきた。
乳ガンといえば、女性だけの病気とずっと思い続けてきた。ところが友人の知り合いの男性が乳ガンで入院していることを聞き、「ええっ? 男にも乳ガンってあるの?」と、好奇心と驚きで思わず聞き返してしまっていた。無知と言えば無知で恥ずかしい限りだが、なるほど男にもちゃんと乳首なるものが残っており、その奥の残存乳腺がときどきガンにやられるのだという。あとで調べてみたところによれば、乳ガン患者のうち百人に一人近くは男性らしい。ということは、いま乳ガン患者が毎年4万人近く発生しているというから、その1パーセントの400人くらいの男性が毎年乳ガンにかかっていることになる。
いったいなぜなのだろう。インターネットの情報によれば、どうやらパソコンなどから発生する電磁波も大きく影響しているらしく、それに加えてストレスがある。そしてこのストレスというやつこそが、細胞のガン化にとっては最高のご馳走のようだ。そこまで分かったところで、(まてよ? そういえばぼくもこの20年近くほとんど毎日パソコンの前で、締め切りのプレッシャーやストレスを背負いながら根を詰めた仕事をしてきたんだから、ひょっとしたら…)という思いが湧き、以前から乳首脇にあった小さなしこりを一応診てもらおうということになったのだった。もしも知り合いの男性が乳ガンになってくれなかったら、わざわざ病院を訪ねて診てもらおうなどとは思わなかっただろう。しかも実際に診てもらったところ、その(ひょっとしたら…)が、なんと本当に「ひょっとしてしまった」のである。
女医さんからの話は意外と簡単に終わり、診察室を出たぼくに一人の看護婦さんが「ちょっといいですか」と話しかけてきた。たぶんいきなりガン宣告を受けたぼくが、すっかり落ち込んでいると思ったのにちがいない。
待合室の椅子に腰を下ろしたぼくに、看護婦さんは「大丈夫ですか?」とまず優しい言葉を投げかけてくれた。「大丈夫ですよ!」とぼくは笑顔で答えたのだったが、その言葉と表情を、あるいは「無理をして演じている空元気」と受け取ったかもしれない。実際、そのあとも、ぼくを優しく気遣う言葉がいくつとなく続いた。
その様子からすると、皮膚科の診察室で初めてぼくが乳首脇のしこりを見せたとき、女医さんも看護婦たちも、見ただけで即座に乳ガンと思っていたようだった。
ぼくが初めて皮膚科を訪ねたのは2005年4月末のことだった。しかし予約無しでいきなり出向いたこともあって、待ち時間が長くなると聞かされそのまま帰ってきてしまった。連休途中の5月2日にも病院を訪れてみたが、このときはさらに人が多くてやはりそのまま帰途についた。そして思ったこと、それは、(すごい人混みだなぁ。これだけ世の中には病人があふれているんだ…)という驚きの思いだった。
その1週間後の連休明け、5月9日にも病院を訪れてみた。予約せずとも朝早く出向いて待てば、診察くらいはしてもらえるだろうと思ったからだった。それまでは乳首の横にできたしこりを気にすることなどほとんどなかったが、「男の乳ガン」を知ったのに加え、時々痒さも感じられたため、妻の勧めに従って一応病院で診てもらうことにしたのである。
何時間か待たされはしたものの三度目の正直で、この日ようやく皮膚科で診察を受けることができた。そして(看護婦さんかな?)と思うほど若い女医さんに診てもらった結果、「乳管癌とパジェット病の疑いあり」と言われてしまったのである。「疑い」を「確定」するには検査が必要だという。確かに見た目だけで断定するのは乱暴すぎるというものであろう。となると、また改めて病院での検査が必要になる。病院嫌いのぼくとしては(わずらわしいなぁ)とは思ったが、その場で一週間後の日に予約を入れ、乳首の細胞を取り出して検査することに同意した。
●乳管癌とパジェット病の疑い?
5月16日の午後、乳首のしこりから細胞を摘出する小さな手術が行われた。あえて「手術」と呼ぶのは、麻酔を打ち、メスを入れ、乳首の深部から細胞を取り出して傷口を何針か縫うのだから、たとえ簡単な作業ではあっても、これは手術と呼ぶにふさわしい。そしてこの細胞検査が、「ガンの疑い」に明確な結論を与えてくれることになる。その意味でこの「手術」は、グレイな状況から白か黒かへとジャンプする、一つの決定的なステップと言えた。
「小さな手術」はあっという間に終わった。最初の麻酔注射でチクリと痛かった以外、痛みも不快感も全くなかった。なのに、女医さんや看護婦さんたちの気遣いは、大げさすぎるくらいに優しく親切だった。この病院は患者サービスで非常に評判が良いのだそうだが、それがガン宣告の入口ともなる検査だっただけに、よけいに気遣ってくれたのだろう。細胞摘出の手術が終わったあと、いくつかの検査を勧められはしたものの、それについては「改めて後で連絡する」ということにした。ガンであることがまだ確定したわけでもないのに、検査をする必要はないと考えたからだった。
しかし女医さんは、そのときすでに遠隔転移を疑っていたようだ。ここまでしこりが大きく成長している以上、転移があっておかしくないと…。検査を促すその口調からすれば、細胞検査の結果を待たず、一刻も早く検査を受けるべきという思いが言葉の端々に現れていた。女医さんは、ガンそのものよりも、遠隔転移を懸念していたのだ。というのも、女医さんは最初の検診で、患部を一目見ただけで「乳管癌とパジェット病の疑いあり」と判断していたからだった。そのことを妻に伝えると、妻はさっそく「パジェット病」をインターネットで調べてみてくれた。すると、パジェット病には次のような説明がなされていた。
パジェット病は、皮膚内部あるいは皮下にある腺に発生するまれなタイプの皮膚癌で、主に乳首に発生します。これは、乳管の癌が乳首の皮膚に転移したものです。男性にも女性にもみられます。乳首に発症したパジェット病の治療は、乳癌と同様に行います。
サイトでのさらに詳しい説明によれば、パジェット病を発症した皮膚は、「赤くなってジクジクし、硬くなり、かゆみと痛みを伴って、見た目は炎症を起こして赤い発疹ができた皮膚炎のように見える」ため、「確定診断には生検が必要」ということだ。女医さんはどうやらこの「まれなタイプの皮膚癌」を見破ったらしく、さらに「皮下にあるにちがいないガン」にも思いを馳せ、乳腺ガンと他臓器への遠隔転移を懸念したのだろう。だからこそ「一刻も早くエコーやCT、MRI等の検査を受けるように」と勧告したのにちがいない。
●皮膚科から外科に回され
細胞を摘出してから一週間後の5月23日、検査結果を聞くために皮膚科を訪れた。その結果「ガン宣告」が下されたのだったが、ガンだと判ってしまうと治療はどうやら皮膚科から外科に回されるものらしい。しかも外科での面談はかなり急がれているらしく、皮膚科では殺到する人混みをかき分けてすでに外科への緊急予約を済ませてくれていた。
「ガン宣告」のあと看護婦さんがかけつけて、「落ち込んでいるにちがいないぼく」を優しく激励してくれたことについてはすでに述べた。そしてそのあと、今度は外科の看護婦さんがやってきた。
そして言うには「ご家族の方もごいっしょですね?」
なるほど、ガン治療の面談では、家族同伴が相場であるらしい。しかしその日は一人で出向いていたために、妻がかけつけるのを待ってから面談、ということになった。
検査結果が分かるこの日の朝、妻は「いっしょに病院に行きたい」と言っていたのだったが、ぼくは一人で病院に出向いていた。女医さんや看護婦さんの予測とは反対に、ぼく自身は「ガンであるはずがない」という思いが強かったからである。
というのも、そのしこりはもうかなり前からぼくの右乳首横に現れていたもので、ぼくにとっては単なる「愛嬌のある変わったイボもどき」くらいにしか思えていなかったからだ。しかも2000年に全身の湿疹で生まれて初めて入院した際についでに診てもらったところ、医師から「別に心配ないですよ。もし気になるようだったら取ってあげましょうか」と言われたことがある。つまり、少なくても5年以上も前からそれはそこにあり、しかも医師はその時点で、「大丈夫、決して怪しいものではない」と保証してくれていたのである。
またその「大きなイボもどき」とは長い付き合いながら、別に悪さをするわけでもなく、しこりがあるがゆえに体調がおかしいとか、痛みや痒みに襲われるといったこともほとんどなかった。もっともたまにその部分に何かがぶつかったりしようものなら、異常な感覚の痛さは感じたが、ぶつかって痛いのは当たり前のこと。というわけで、ぼくにとってその「イボもどき」は、個性の一部としか思えていなかったのである。
そんなことから、「ガンであるはずがない」と思い続けてきた。乳首のしこりといえばまず乳ガンを疑うが、乳ガンは女性だけのものという思い込みもあった。そんなぼくがあえて皮膚科を訪ねたのはたまたま男にも乳ガンがあることを知り、しかも時々痛痒さを感じるようになったからである。そのことを黙っていればそのままだったろうが、うっかり妻に言ってしまったため、妻は執拗に病院に行くようにと勧めた。それで仕方なく病院に出向くことになったのである。
●ガン告知は家族にするもの?
皮膚科から外科に回されるのは仕方ないとも思ったが、どうして一人だけの面談ではダメなのだろう。ぼくとしては仕事が待っていたから少しでも早く外科に出向き、早く家に帰りたかった。しかし「家族の同伴がなければ面談できない」と看護婦さんは言う。それを聞いてふと思った。(そうかぁ、昔はガン宣告は直接本人にはしないで、家族にこっそりするものだったんだ)と…。それくらい、いまなおガンは恐ろしい病気と思われているのである。
「ご家族が到着したらお知らせください。すぐに先生に診てもらいますから」
外科の看護婦はそう言い残し、診察室に消えていった。外科での面談に「家族の同伴」が義務づけられたとあって、ぼくは病院の外に出て携帯電話から妻に連絡した。電話に出た妻は小さな声で「どうだったの?」と心配げだった。それに対して「正真正銘のりっぱな乳ガンだと言われたよ」と笑って答え、急いで妻に病院まで来てもらうことにした。
やがて妻が到着し、外科の診察室に呼ばれたぼくは、細胞検査の結果を見た医師からさっそく次のように申し渡された。
「このあと急いで検査を受けてください。まず採血。その後は胸と腋の下をエコーで調べます。さらにRI(骨シンチ)、CT、MRI、腹部のエコー等々の検査も必要になりますが、今日だけでは全部できませんので、できなかった検査はできるだけ早めにやってもらって、そのうえでもう一度お話することにしましょう」
どうやらその医師も、乳ガンの遠隔転移を疑っているらしい。というのも、ぼくの乳首のしこりを触ってみた後で、腋の下も指で触り、「うん、ここにも硬いものがしっかりある」と、リンパ節への転移を確認したからのようだった。
そして言った。
「検査が全部終わってみないとはっきりとは言えませんが、場合によっては乳ガンの手術ができないこともあります。この状態から察するに、肝臓、肺、脳、骨などへの転移が予想されますので、その場合には、手術してガンを摘出しても意味がないからです。まずは一刻も早く検査することが先決ですが、たぶん6ヶ月くらいの抗ガン剤治療がまず必要になると思いますので、一応そう思って今後のことを考えてください」
(ほら来た)ぼくはそう思った。
細胞検査の結果「乳ガン」を宣告され、腋の下を手で触って「硬いリンパ節」が確認され、そのうえ「遠隔転移の疑いが濃厚」などと申し渡されると、ガンが妙にリアリティをもった魔物として現れ出てくる。そして、ここから本格的な「ガン呪縛」が始まり、やがてその呪縛がどんどん強まっていく。こうして多くの人々がガンという得体の知れない魔物の餌食となり、恐ろしくて不気味なガン獄舎の囚人と化していくのであろう。それはともかく、その日はさっそく採血と、胸部、腋の下などのエコー検査を受けた。その他の検査についてもできるだけ早く受けることを約束し、その日は帰った。
妻はさすがにショックを受けたようだった。しかしぼくは、(よおし、ここからがドラマの始まりだぞ!)と、密かに「あるたくらみ?」を巡らし始めた。
●「ガン獄舎」の門
その「たくらみ」を一言で言えば、医師の治療計画には決して乗らず、自力でガンを完治させてしまうことである。というのも、医師は当然のごとく入院を勧め、遠隔転移があれば末期ガンと診断して化学療法を施すにちがいないし、また他の臓器への転移が認められなければ、まず手術、そして抗ガン剤投与や放射線照射を施すことになるだろう。
それが医師の良心に基づく医師の使命であり、ガン治療は一刻も早く開始する必要があり、それには病状に応じて手術、抗ガン剤治療、放射線治療を施すことがベストであると医師たちは考える。それが現代医学のガン治療の基本方程式である限り、医師はひたすらこの道を突き進んでいくことになる。その結果、患者は往々にして「最悪の結末」を迎えることになりかねない。早い話、ガンにではなく、ガン治療に殺されてしまうことも多いのだ。
このことは『患者よ、がんと闘うな』の著者、近藤誠医師も明らかにしていることであって、近藤医師が強調するように、
「手術はほとんど役に立たない。
抗ガン剤治療に意味があるガンは、全体のわずか一割にすぎない。
●ガン検診は百害あって一利もない」
というのが、残念ながら現実のガン治療の実態のようである。
にもかかわらず、多くのガン患者が医師の指示どおり入院し、医師の治療計画に従順に従って、結局はいつの日か亡くなっていく。もし手術、抗ガン剤治療、放射線治療に本当に効果があったならば、この20年間でガン死亡者が二倍にも膨れ上がり、年間30万人以上もの犠牲者を出すというようなことなどありえないはずだ。この事実を見るだけでも、明らかにどこかがおかしい。にもかかわらず、患者はガンと宣告されるや、妙に従順に、「ガン獄舎」におとなしく収監されてしまう。いったいなぜか。そこに摩訶不思議な「ガン呪縛」があるからである。つまり「ガンは怖い」。「ガンは死に至る病」にして、たとえ治療で一時的にガンから解放されたとしても、「再発」や「転移」という死の影に脅かされ続ける呪縛がそこに厳然と存在しているのだ。
この「常識」は、いったいいつから、そしてなぜ社会を覆い尽くしてしまったのだろう。このテーマを追っていくと、生物学、医学の根幹に突き当たる。要するに、現代医学はその基本からして、とんでもない錯覚と誤謬に陥っているのである。
実はぼくは、この問題についてぜひいつか書いてみたいと思っていた。というのも、最先端の量子物理学は宇宙や生命の神秘を徐々に解きほぐしつつあるというのに、生物学や医学は、いまなお古めかしくて荒っぽい古典物理力学的なものにしがみついているからである。生物学はともかくとしても、これでは人間の命に直接関わる医学に出口はない。それどころか現代医療は、ますますたくさんの「犠牲者たち」を拡大再生産し続けていくだろう。
実際この数年、ぼくの親しい友人たちもガン治療によって「殺され」続けてきた。殺されたというのは過激すぎるかもしれないが、「もし病院でガン治療を受けなかったら亡くならずに済んでいたはず」というケースをたくさん目にしてきたのである。その「犠牲者たち」の何人かに、ぼくはそれとなく「ガン呪縛」の怖さを示唆し、「ガン治療を始めたら殺されるよ」「そもそもガンという病気は…」などと説明してみたが、著名な医師でも医療専門家でもないぼくの言葉に耳を傾ける者は少なかった。そして結局は医師の勧めに従って「ガン獄舎」に入り、その挙げ句、苦しみながら亡くなっていった。しかしここ数年の動きを見ると、ガン呪縛から解放されうる気運もなんとなく感じられ始めていた。そこでこの機会に一冊の本を書いてみようと考えていたその矢先、なんとぼく自身に「ガン宣告」が下されてしまったのだ。
5月23日の「ガン宣告」の際に、一瞬「しめた!」と思ったのは、そのためだった。ぼく自身が晴れてガン患者になれたのだから、患者として発言し行動する資格が生じたことになる。それにしてもいざ医師から、「入院して即刻ガン治療に専念すべし」などと強い口調で勧告されると、それをはねのけるのに非常に大きなエネルギーが必要であることを思い知らされた。よほどの何かがない限り、この圧倒的な圧力を押し返すことはできないだろう。かくしてほとんどのガン患者が「ガン病棟の囚人」と化す。実際、ぼく自身にも、絶対的な威力を持つガン呪縛のそのパワーが、その後も周りから粘っこくまとわりついてきた。
ぼくのステージは「IIIb期」
医師に勧められた諸々の検査は、ガン宣告から10日後の6月3日に実施した。その日は朝一番に病院に駆け込み、まず骨シンチグラムのための注射をした。そしてそのあと、CT、MRI(頭部)、エコー、RI(骨シンチ)という順番で検査が進められていった。
骨シンチとはアイソトープ(弱い放射能を持つ同位元素)を注射して骨への転移をレントゲン写真で観察する方法で、特に乳ガンや肺ガンなどでは全骨転移例が多いため、遠隔転移が疑われたぼくもこれを義務づけられていた。しかし大事な検査とはいえ、放射能を持つ同位元素を体内に注入するのだ。それだけでも体のどこかがおかしくなるような気がした。
実際、注射をした瞬間、腕に射した注射針の周辺が異様にスーッと涼しくなり、やがて腹部や胸などが熱くなった。注射の痛みは大したことなかったものの、体内に注がれた異物が体内で明らかに異常な反応を引き起こしている。その後もやはり注射により、CT、MRIのための異物(造影剤)を注入をしたのだから、ぼくの体内には3種類の異物が注ぎ込まれたことになる。それは体内でいったいどんな反応を引き起こすのだろうか。そんなことを考えながらも、とにかくすべての検査を無事に終えた。
検査結果を見た上で、その日のうちに医師の判断が下されることになっていた。その場には、もちろん妻の同席も求められていた。検査結果が告げられるまでの時間はどこか厳粛で、その儀式が始まるまでのぼくは、「判決申し渡しの法廷に臨む被告人」ごときものとなった。
診察室に呼ばれて入ると、医師の前の壁にはさまざまなフィルムが貼り並べられていた。それらに目をやりながら、厳かな口調で医師は言った。
「胸と腋の下のリンパ節には異常が見られるものの、今日検査したフィルムには、特にはっきりとした異常は確かめられません。これならまだ手術が可能ですから、すぐに入院手続きをして手術ということにしましょう」
断定的にそう言いながらも、医師は遠隔転移が認められなかったことを意外に思っているようでもあった。それはともかく、医師はごく当たり前のことのように、ぼくに乳ガンの摘出手術を提案したのである。
ぼくがたぶん入院などしないだろうと思っている妻は、恐る恐る医師にたずねた。
「病期のステージは、何期と考えていらっしゃるでしょうか」
「浸潤型乳管癌で、病期はIII期です」
乳ガンの場合、しこりの大きさや乳腺の領域にあるリンパ節転移の有無、遠隔転移の有無などによってステージが決められており、ちなみにIII期は「局所進行乳ガン」と呼ばれ、IIIa、IIIb、IIIc期に分けられている。あとで調べてみたところ次のように説明されていた。
IIIa期:しこりの大きさが2cm以下で、わきの下のリンパ節に転移があり、しかもリンパ節がお互いがっちりと癒着していたり周辺の組織に固定している状態、またはわきの下のリンパ節転移がなく胸骨の内側のリンパ節がはれている場合。
IIIb期:しこりの大きさやわきの下のリンパ節への転移の有無にかかわらず、しこりが胸壁にがっちりと固定しているか、皮膚にしこりが顔を出したり皮膚が崩れたり皮膚がむくんでいるような状態です。炎症性乳ガンもこの病期に含まれます。
IIIc期:しこりの大きさにかかわらず、わきの下のリンパ節と胸骨の内側のリンパ節の両方に転移のある場合。あるいは鎖骨の上下にあるリンパ節に転移がある場合。
III期からさらに進んだIV期は 他の臓器に遠隔転移しているケースで、要するに末期ガンである。が、ぼくには乳ガンが転移しやすい骨、肺、肝臓、脳などの臓器への遠隔転移がはっきりと認められなかったため、医師はIII期と判断したのだろう。
ちなみに、後でいただいた診断書には、「病期:IIIb期」と書かれていた。
●転移する悪魔?
乳ガンが恐れられている理由のひとつに、骨に転移しやすいということがある。ガンが骨に転移するとひどい痛みに襲われて、それがますます患者を衰弱させ、やがては死に至らしめる。骨転移は乳ガン、肺ガン、前立腺ガンの3つだけで全骨転移例の80%以上を占め、これらのガンが転移をした場合、その50%以上が骨転移をもたらすというのだ。
そんなことから乳ガンの手術では、転移を恐れて患部をごっそりと取り去る手術が行われてきた。患部ばかりか、リンパ節、ときには筋肉の一部も取り去ってしまう。それでもやがて再発し、あるいは後に遠隔転移が起こったりもする。医師はぼくに対して手術を勧めたが、それは乳首のしこりを除去するだけでなく、リンパ腺の除去もやってのけるにちがいない。特にぼくの場合は腋の下に硬いリンパ節が確認されていただけに、いざ手術となったら、それこそ無実の体の一部までがごっそり犠牲になるのはほぼ明らかだった。
しかし「転移」の危険性を考えると、「それもやむなし」と思ってしまうのだろう。それくらいガンでは「転移」が恐れられている。「転移」がイメージするものは、体内に突如出現した「悪魔」が、折りを見て全身のあちこちに縦横無尽に移動して、そこで再び過激な破壊活動を開始するというものであろう。となれば、悪魔は徹底的に根絶しなければならない。毒々しい姿を見せている悪魔そのものを根絶することはいうまでもなく、悪魔が潜んでいそうな隠れ場所や、悪魔の気配を感じるものすべてを容赦なく根こそぎ破壊して、二度と悪魔が現れ出ないようにしなければならない。このように「ガンの転移は恐ろしい」ということから、過激な手術や抗ガン剤治療、放射線治療等々が容認されてきたのである。
それくらい「転移」という言葉には恐ろしい響きがある。いやそれ以前に「ガン」という言葉そのものが不気味な魔力を持っている。ひと昔前、ガンの宣告は「死刑宣告」にも似たものだった。ガンになったらまず助からない。ガンは苦しく、痛みが伴う。しかもガンを取り除いてみても、それは決して根絶せず、亡霊のようにまた現れ出る(再発)。さらに全身のあちこちに「転移」して、凶暴に猛威を振るうというのだからたまらない。
そこで以前は、「あなたはガンです」とは決して言わず、「あなたのご主人(あるいは奥さん、お母さん、お父さん、お子さん)はガンです」といった具合に、ガンは本人以外に告知されるものとされてきた。なぜならガンと知らされたそのとたん、ショックで多くの人々は混乱、落胆、絶望して、一気に生命力が萎えてしまうことになったからであろう。
余談だが、ガン告知にはさまざまなエピソードがある。その一つ、フランスの新聞「ルモンド」のジャーナリスト、ロベール・ギランさんの妻ヨシさんの場合はとてもユニークなものだった。ヨシさんは自らがガンの検査を受けたとき、医師に次のようにお願いしたという。
「主人はとても気が弱いので、もし私がガンだったら、主人には私がガンであることを絶対に知らせませんように。きっとひどくショックを受けるにちがいありませんから」
これはヨシさんから直接聞いた話だが、それくらいガンという言葉にはショッキングな響きがあった。それこそ人によっては致命的なダメージが与えられてしまう。だからヨシ・ギランさんは何よりも夫に気遣い、医師に「あなたの奥さんはガンです」とは言わせずに、「あなたはガンです」と自分にだけ告知してほしいと懇願したのである。そんなヨシさんは、パリから東京に定期的に通って、丸山ワクチンをもって快方に向かっていったのであった。
そのごとく、ガンそのものも恐ければ、転移という言葉もまた恐い。だから「恐いガンが恐い転移をしないように」と、ガン以上に恐い手術やガン治療を受け入れたりもする。ここに「ガン呪縛」があり、いったん呪縛に捕まったらそれはどんどん強まっていくばかりで、その呪縛から解放されるためには、そもそも「ガンが何であるか」を知り、「ガンはそんなに恐いものではない」ということをはっきりと知らなければならないのだ。
●ガン病棟で知った「神様」
児玉隆也はぼくが密かに尊敬するルポルタージュ・ライターだった。そんなこともあり、児玉の作品はことごとく読み、新しいテーマの作品を待ち続けていた。ところが突如『ガン病棟の九十九日』が絶筆となり、児玉の偉業もやがて忘れられていくこととなった。
ということから、児玉が最後に取り組んだのは「ガンの患者学」だったことになる。しかもその内容は「恐ろしいガンによる金縛り物語」だった。彼もまたガン呪縛にしてやられたのだ。しかしそれも無理はなかったと思う。なにしろガンに関する情報のほとんどが、「巨大な錯覚」から次々と生み出されたものばかりだったのだから…。
児玉は絶筆となったその作品を、まず病院のトイレで見た落書きから書き始めている。
夜なかになって、私は小便をしに起きた。放尿をしながら、もう「きのう」になったが、がんセンター病院の外来患者用トイレで見た落書きを思いだした。
薄い水色に塗ったドアには、駅や公園の便所にもあるその種の稚拙な落書きにまじって、ひときわ大きな籠文字があった。「神様、私の癌を治してください」
その横に別人の字で「歳をとったらもうだめだ」とか細く弱い筆圧で書かれていた。
そうだ、私は好奇心のあまり、いや、怖いもの見たさで、といった方が正確かもしれない、用を終えたのにわざわざ隣の便所にも入ってみたのだった。すると、あった。
「先生、早く薬を発見してください。お願いです、早く!」
そして入院から九十九日目の仮釈放(退院)の日、つまりこの作品の最終章で、彼は次のように綴っている。
死の話ばかりを書いてしまった。誤解を招くといけないので、今日……退院の日に、O先生から聞いた数字を書いておく。それを書くことは、私自身を勇気づけることでもあるので。肺癌の場合、五年前の治癒率は六〇パーセントだそうだ。五年後、つまり私や戦友の場合の予想治癒率は、七二パーセントだろうという。数字の上では、私は、生きる確率の方が、死より高いのだ。だが、こればかりは、私は神様におまかせしよう。
癌を病む前と後で、私の中に明らかに変わった点が一つあり、それは神様という言葉を知ったことだ。私は、初めてこの病院の患者になった日のトイレの落書きの主はどうしただろうと、何かのひょうしに考えてしまう。「神様、私の癌を治してください」と書いた癌患者の生命に、「神様」はどんな匙加減をお与えになったのだろう。
退院する児玉に、医師は言ったらしい。
「肺ガンの予想治癒率は72パーセントである」と。
1974年当時、それは本当だったのだろうか。ちなみにがんセンターのウェブサイト「がんの統計 '03」から「肺がんの臨床進行度別5年相対生存率」を見てみると、1期52%、2期14.8%、3期8.3、4期2.1となっている。
しかもこれは決して治癒率などではなく、5年間の生存率にすぎない。児玉の場合、実は4期の末期ガンだったから、「予想治癒率が72パーセント」というのは、医師が希望を与えるためのウソだったにちがいない。それとも30年前に比べて現在は、5年相対生存率が逆に極端に低下したとでもいうのだろうか。いずれにしても、手術や抗ガン剤、放射線治療等々の治療でガンは治せない。だから結局は、児玉自身もそうしたように「神様」におまかせするしかなくなってしまうのだろう。
児玉隆也の実際の余命は、入院からわずか5ヶ月ほどのものだった。しかし彼はそれを知らされていなかった。だからますます疑念や猜疑心が高まって、神経の針が絶えず極端(希望)から極端(絶望)へと振れていた。そして心の底から願った。「神様、せめてあと20年ほどの生命を下さい」と…。そのとき児玉は、まだ38歳だったからである。
実際には「余命5ヶ月」しかなかった彼は、次のように書いている。
私は病棟の老人たちを見ているうちに「同病相憐れむ」という言葉は美しすぎる、と思った。私のいら立った神経では「同病目を背ける」というのが、正直な実感だった。そして、あの歳までは生きたくないが「神様、せめてあと二十年ほどの生命を下さい」と言ってしまう。癌病棟に入ってみると、十年という歳月が、気の遠くなるとしつきに思える。健康でいる時は「十年しか生きられない」のだろうが、ベッドで、四角くちぎれた空をゆっくり落ちていく鳩の羽毛を眺めていると「十年も生きられる」という思いに変わるのだった。そして、六十代の患者が二人寄ると、きまって語り合うことになるあの言葉を、私は聞くことになる。彼らは必ずこう言った。
「若いときは戦争で、戦争が終わってからは子供を育てるのに苦労して、孫ができたと思ったらこのざまだ。せめてあと十年は生かして楽をさせて欲しいねえ」「ほんとうに」。
私は老人たちの「せめて十年」を聞きながら、「この人たちの十年をこっちへ下さい。私にはまだこれから大きくしなければならない子どもがいるのです」と「誰か」に祈っていた。そんな私は、まるで、「蜘蛛の糸」の、一番上を這い上がっている男のようだ。私のなかの「誰か」は、その後、次第に影を大きくしていくことになった。
●この30年のガン治療
児玉隆也の『ガン病棟の九十九日』は、最初から最後まで「ガンの恐ろしさ」を浮き彫りにしている。ガンのその恐さに身震いし、怖いガンに冒されているのではないかと猜疑心をかきたて、疑心暗鬼におののき、「神様、私の癌を治してください」「先生、早く薬を発見してください。お願いです、早く!」とトイレに書かれた落書きを自らの祈りに溶かし込んだ。だが、「神様」も「先生」も児玉のその祈りに応えてはくれなかった。そして彼の心はますますガンという悪鬼に縛られていった。ガン呪縛のあがき…。この言葉こそ、ぼくが児玉隆也の最後の作品を読んだとき、ガン患者を襲う心理的光景として見たものだった。
そのときからすでに30年…。もしもガン治療の目指したベクトルに間違いがなかったとしたら、「私の癌を治してください」という大勢のガン患者の願いは、この30年で「神様」にまで届いていたにちがいないし、「早く薬を発見してください。お願いです、早く!」と「余命」を数えながら懇願した膨大な数のガン患者の悲願に、世界中の多くの「先生」たちの30年も、それなりの成果を挙げてくれていたにちがいない。
しかし「医学の進歩」の現実は、当時の「ガンによる死亡者13万人」がいまや「32万人」にも膨れ上がり、いまだにガン患者は「拷問つき終身刑」から解放されることがない。30年前の児玉がそうだったように、ガン獄舎からの仮釈放はありえても、「再発」や「転移」という悪魔からは逃れることができず、ガンはいまなお「死に至る病」のままなのである。
「ガンの患者学」を書いた児玉隆也は、入院からわずか5ヶ月後に亡くなってしまったが、彼は死の直前、『この三十年の日本人』という本の「あとがき」を書いている。そこには「昭和五十年初夏」と記述されているから、その日から今年(2005年)でちょうど30年になる。もしも児玉がその後も生きながらえていたとしたら、あるいは『この三十年のガン治療』という本を書きたいと思ったかもしれない。
すなわち、「30年という歳月は流れたものの、ガンを治す薬も、治療法も、ついに発見することができなかった」と。実際、ガン治療が無力だった証拠に、児玉が亡くなった6年後、ガンが日本人の死亡原因の第1位に踊り出た。それまでのわが国の主要死因が感染症から成人病、いわゆる生活習慣病へと移行していくなかで、1981年に、ついにガンが日本人の死亡原因のトップになったのである。
ちなみに国立がんセンターの統計によれば、1981年のガン死亡者数は16万6399人、それが20年後の2001年には、死亡数30万4286人とほぼ倍増するに至った。これは総死亡の31%、つまり3人に一人がガンで亡くなっている計算である。
この上昇曲線はこれからもますます勢いを増していくらしく、試算によれば10年後の2015年には毎年74万人が新しくガンにかかり、その多くが亡くなるだろうという。そんなことから政府は「対がん10カ年総合戦略」を策定し、その政策予算を1993年に約20億円、1997年にはその倍の約40億円とした。また日本の医療費はいまやすでに30兆円を越えていると言われるが、その多くがガンに費やされていると言ってもいいだろう。
こうして児玉隆也の絶筆となった『ガン病棟の九十九日」』のテーマ「ガンの患者学」の主人公たる患者たちは、いまなお恐ろしい金縛り状態に置かれている。それだけにガン治療に殺された児玉は、「この三十年のガン治療」を「不毛」と書きたいところだろうが、事実は、決して不毛だったとも言えない。ガンを悪魔と決めつけて、手術、抗ガン剤治療、放射線治療という恐るべき武器でガンのテロに立ち向かってきた現代医療にとっては「不毛・敗北」であっても、その一方でまぎれもなく新たな変化と希望が芽生え出しているからである。
そもそもガン患者の仲間入りをして、本来ならガンの恐怖におののいていなければならないはずのぼくが、このような本を書いていること自体、それを物語っているとはいえまいか。それも、「ガンは決して怖くない」「ガン呪縛は必ず解ける」、ようやくそんな希望が鮮明になり出してきたからである。
第1章「ふたつの風景」
●「光の風景」と「闇の風景」
ガン治療に関して「ふたつの風景」がある。ひとつは、恐ろしいガン細胞を攻撃し、徹底的に殺しつくそうとする「戦争の風景」、そしてもうひとつは、ガンの発生理由に思いを馳せ、ガンの存在基盤を消し去ろうとする「平和回帰の風景」…。しかしいまガン治療の世界で見られるのは、圧倒的に「戦争(闘い)の風景」だ。ガンは怖い、ガンは悪魔だ、ガンをそのまま放っておいたら殺されてしまう。その不安と恐怖心が、医師も、患者も、そしてその家族たちをも、ガンとの戦いでの徹底抗戦にかきたてているからである。
戦争の風景から見えてくるガン治療は、暗い闇夜に出没するテロリストにおびえながら武力攻撃する軍隊のようであり、そこには絶えず強い緊張感(ストレス)がある。テロ集団(ガン細胞群)を一刻も早く見つけ出し(早期発見)、敵の勢力が大きくならないうちに、そして敵が他の場所に移動拡散(転移)しないうちに、総攻撃して殲滅せよ。それが「戦場」での思考と行動の原理原則になっているのである。
これに対して「平和回帰」の世界では、なぜ彼ら(ガン細胞)が登場してきたのか、そのことをまず根源に立ち返って考える。というのも、彼らは決して外から侵入してきたテロリストではなく、もともと体内にあった細胞が、何らかの原因で異常化(ガン細胞化)したにすぎないからだ。健康な細胞をガン化させたその原因とは何か。何がその異常化を引き起こしたのか。そう考えていくと、ガン細胞をやっつけてみても意味がない。テロとの戦争に突進していくのではなく、むしろ彼らがテロ行為を止め、自らテロ組織を解体してくれる環境に変えていくことこそが大事であると考えるのだ。
「戦争の風景」には、猜疑心や疑心暗鬼から発生する不安と恐怖のおどろおどろしい空気が満ち満ちているが、「平和回帰の風景」にはそれがない。そこでは「ガン細胞も自分の一部」と考えて、その異常化した心身の環境風土を平和的に変えていこうと出直すのである。
このように、「ふたつの風景」には全く違った表情がある。そしてそれは、ガンというものに対する全く異なった考え方に由来している。
この「ふたつの風景」をさらに別の言葉で言い表すとしたら、「光の風景」と「闇の風景」と言えるかもしれない。太陽の光に照らし出された明るく暖かい風景と、その光が消え失せた闇夜の孤独で不安な寒々しい風景だ。同じ場所でも、昼と夜では気配や心象が全く違う。昼なら安心できる世界でも、暗い夜には不安と恐怖に襲われてしまうのである。この章ではガン治療に対する、その「ふたつの風景」をまず覗いてみることにしたい。
●「ガンサイト」の世界では…
毎年30万人以上もの人々の命を奪うガンは、現代人にとってすっかり「身近な死の影」になってしまっている。家族や友人たちをガンで失った人はきっと多いにちがいないし、自らがガンで苦しんでいる人もたくさんいることだろう。
30年前、児玉隆也の作品を通して知った壮絶なガンとの闘いは、その当時のぼくにとっては「他人事」でしかなく、どこか遠い世界の出来事としか思えなかったが、しかしその後多くの友人知人たちをガンで失った昨今は、ガンがごく身近に感じられるものになってきた。そしていま、なんと自分自身にガン宣告が下されてしまったのだ。こうなると、仕事にも増してガンが緊急で重要な問題に思えてくる。ということから、これまで以上にガンや医学に関する本を読むようになり、またインターネットをサーフィンして、あちこちのサイトを覗いて見るようになった。
ガンが現代人の身近で深刻な問題になってきたためか、ネットには数えきれないくらいのガン関連サイトが立ち上がっている。しかもその多くが自らの経験を公開していて、その「ガン患者サイト」をたくさんの人たちが見ているようだ。驚くのはそのアクセス数で、数万、数十万というのはいうまでもなく、なかには百万単位のカウント数を誇るサイトもある。それくらいにガンサイトは、多くの人々の不安と関心を吸収し続けているのである。
それもたぶん、ガン宣告を受けた本人や家族たちが、必死の思いで治療法を模索しているからにちがいない。すなわち、病院でのガン治療の効果や副作用はどうなのか。ガンに効く何かいいものはないだろうか、ガン患者はどんな気持ちで治療に努めているのだろう、そしてその経緯と結末は? そういった思いが、多くの人々をあちこちのガンサイトへのサーフィンを誘っているようだ。その意味で、インターネット上の数々のガンサイトは、あるいは隠れたベストセラーと言えるのかもしれない。
そんな数々のガンサイトの中から、Nさんの事例を紹介させていただこう。そこには必死でガンと闘う「戦場の風景」が実にリアルに描き出されていて、これがほぼ一般的なガン治療の風景であり、ガン治療の現実が鮮明に浮き彫りにされていると思われるからである。
●生検を勧められガンを発見
Nさんは毎年人間ドッグで精密検査を受けていた。そんななか1999年、超音波検査で左乳房の乳腺に影が発見されたため、マンモグラフィ(乳房X線撮影)を受け、さらに医師から穿刺吸引細胞診を勧められた。穿刺吸引細胞診というのは注射器でしこりを刺し、細胞を吸引して顕微鏡で検査する方法である。その結果はシロで何も出なかったが、医師からは「どうも形が気になるので、生検をうけてみないか」と強く勧められた。
だがNさんにはしこりの自覚症状が全くなく、痛みはもちろん、その他の症状も全くなかった。そればかりか穿刺吸引細胞診の結果で「異常なし」と出たのだから、これ以上の検査はもう不要と思っていた。しかし医師から「しこり部分の周囲がはっきりせず、形としてかなりガンの疑いが濃い」と指摘されたため、ついに生検に踏み切った。生検とは細胞を取り出して顕微鏡で組織検査をすることで、それさえすれば白黒がはっきりするとあって、不承不承受け入れることにしたのである。
その結果、なんと「乳ガン」が宣告された。Nさんの病期はステージ1(1期:初期ガン)で、約1センチのしこりがあり、ガン細胞が乳管等を包む基低膜を破って外に出る浸潤ガンと呼ばれるものだった。
Nさんが医師から説明された治療方法は、まず手術だった。生検でしこりの一部は切除していたから、そこを中心にさらに切除し、同時に腋下リンパ節も切除する。いわゆる「乳房温存術がNさんには可能だったのだ。だが温存した場合には、再発予防のための放射線照射やホルモン療法、化学療法(抗ガン剤)等が必要になる。つまり、手術で乳ガンが完治するわけでも治療のすべてが終わるわけでもなく、その後も抗ガン剤治療を含めて最低1年間は治療を受けなければならず、「完治まで10年」と医師に言われた。
Nさんは入院し手術をした。だが術後の痛みがひどく、手術箇所が腫れていた。そこで内出血が懸念され、再び手術をした。再手術で辛かったのは、胃の内容物を出すために鼻から管を通し、気道確保のために管を通す一連の処置だった。
辛く苦しい再手術が終わった後、傷は順調に回復していったものの、人工呼吸器を付けていたためにのどが痛いし手術の傷も痛い。さらに頭痛、胃、背中、腕とあちこちが痛く、しびれや違和感もかなりあった。また肩から手首にかけてはブタのように厚ぼったくむくみ、リンパ節を取り去ったために体液やリンパ液の流れが極端に悪くなっていた。しかもまだ貧血が続いていた。が、やがてNさんは退院の日を迎えることができた。
退院後Nさんは外科を受診し、医師と今後の治療方針について相談する。そして「温存した乳房にガンが再発する危険性がある」ということで、続けて放射線治療を施すことになった。こうして放射線照射が月曜から金曜までの週5回、それが5週間の全25回続いていくが、その途上、Nさんはひどく副作用に悩まされる。
放射線治療が終わると、今度は抗ガン剤治療が始まった。抗ガン剤は1週目2週目に点滴と薬を服用し、その後2週間は薬を休む。この4週間を1クールとして6クール受けることになったのだ。しかし副作用が心配になったNさんが医師にたずねると、「生理が止まり、更年期症状がでることがある。吐き気、食欲不振、白血球の減少等が考えられるが、体質や症状によってかなり違いがあるので、始めてみないとわからない」という。
Nさんは「抗ガン剤は吐き気や脱毛、倦怠感等の副作用が強いもの」だとは知っていたものの、「私はきっと大丈夫」と自分に言い聞かせて病院に通い続けた。
さて、抗ガン剤投与の副作用はどうだったのだろう。
肩こりと動悸に悩まされ、不快感は収まらなかった。その症状が軽くなったと思ったら次に動悸が始まった。夜中に息苦しさで目覚める。動悸と胸の圧迫感があり息苦しい。そのまま緊急入院。ついに当初6クール受ける予定の抗ガン剤を3クールで中止。
●「私、元気だったのに……」
1999年に「乳ガン宣告」を受けたNさんは、こうして入院、手術から始まって、以来まる5年に及ぶガン治療を受けてきた。その内容は、「25回の放射線治療・CMF療法・ゾラデックス2年・ノルバデックス5年」であり、医師が予定した治療計画を2004年6月末に終え、その後は経過観察を受けているという。
医師が勧めた生検から初期がんを発見したNさんは、「早期発見・早期治療」に基本的には感謝しているようだ。だがその一方で、ふと思うことがあるという。「私、元気だったのに…。手術を受けるまでの私は、何ともなかったのに」と。
ガン治療を巡る2つの風景で、まずNさんの事例を紹介したのは、そこにいまのガン医療の基本姿勢と平均的な治療プロセスが鮮明に浮かび上がっているからである。すなわち、まず「ガンは恐い。ガンは悪魔」といった社会通念による圧倒的な呪縛があり、だからこそNさんは毎年人間ドッグで精密検査を受けていた。そしてその検査で左の乳腺に「影」が発見されたことにより、医師からマンモグラフィ、穿刺吸引細胞診、生検等々の検査をさらに勧められていった。そこには、小さな影にさえ鋭く疑いを向け、密かに潜んでいる悪魔を徹底的にあぶり出そうという現代医学の姿勢が鮮明に見てとれる。
その結果、ほぼ1センチの乳ガンが発見され、乳房温存術を受けたわけだが、手術を受けるまでのNさんには、痛みも、痒みも、不自由さも、自覚症状が全くなかった。ところが手術をした結果、急に深刻な状態に追いやられ、肉体的にも精神的にも今までと違う自分に、かなり落ち込んだという。
これに対して周囲の人々は、「あなたは疾患を早期に知るために検診を受け、その結果、幸いにも早期にガンが発見できた。あなたはとても運がよかったのだ」と激励し、慰めてくれた。しかし心のどこかにある「なんだか理不尽な思い」は消えなかった。それも、「手術をして本当に良かったのか」、そんな思いが、Nさんに繰り返し湧き上がってきたからである。
Nさんのこの思いは、たぶん多くのガン患者の心の奥底に時折頭をもたげてくる疑念だろうと思う。ただNさんは初期ガンだったから、「再発」と「転移」がない限りは普通の暮らしを営むことができる。それでも「闘病」で苦しんだ記憶はいまなお鮮明で、この先も「再発と転移」の不安を抱えながら生きていかなければならない。その意味で「ガン宣告」からの6年あまりのNさんの歳月は、人生に決定的な影響力を与えたと言っていいだろう。
●ガンを放置したほうが生存率は高い?!
Nさんの場合は、毎年人間ドッグで精密検査を受けていたからこそ「影」が発見されたのだった。もしNさんが精密検査を受けなかったとしたらどうだっただろう。いや、たとえガン宣告を受けても、入院や手術をしなかったらどうなったことだろうか。これに対して、医師は言うだろう。「そんなことをしたらガンがどんどん進行して大きくなっていくだけでなく、やがてあちこちに転移して取り返しのつかない大変なことになる」と。
これが社会の常識であり、現代医療の基本的な考え方になっている。「ガンをそのまま放っておくなんてとんでもない」、圧倒的多数の人々がそう考えているのである。
しかし、それは本当だろうか。『患者よ、がんと闘うな』の著者近藤医師は、「がんを放置したらどうなるか」の章で、1805年から1933年にかけて調査したイギリスのある病院での乳ガン患者250人のデータを紹介し、「ガンを放置しても、そうすぐには死なない」ことを紹介している。
それどころか、放置したほうが遥かに生存率が高い事実をそのデータは示している。イギリスの病院のデータは1805年からのものだから、いまからちょうど200年前に始められた調査だが、その当時はほとんどの乳ガン患者が末期状態にあって、当時は直径8センチのガンが「小さい」と表現され、またその約7割が、ガンが皮膚を食い破って乳房の外に露出していたという。ちなみにガンの進行度を表す病期分類では、1期はゼロ、2期が2%、3期が23%で、4期(末期)がなんと74%も占めていた。それほどの超進行ガン、末期ガンでありながら、5年生存率が18%、十年生存率が4%、なかには末期ガンでありながら19年も生きながらえた者もいたのである。
200年前といえば、早期発見・早期治療のためのガン検診などなかったから、ほとんどの患者が自覚症状を得て初めて医師に診てもらったのだろう。だからそのときにはすでにガンが皮膚を食い破って露出し、そのほとんどが末期ガンだった。
乳ガンが増大していく速度に関する知識からすれば、1期2期の乳ガンが成長して自覚症状を覚えるようになり、医師に診てもらいにいくまでには、ふつう数年から数十年かかると推測されている。ということは、200年前のその資料を1期2期状態からの生存率で計算したとしたら、遥かに高い数値を示すことになるはずだ。要するに、初期ガンを放置しておいても数十年の生存率が望めることになる。
これに対して「早期発見・早期治療」を目指し、手術でガンを切除した場合はどうだろうか。これに関してもハルステッドとその弟子たちが1889年から1931年までの期間に手術した420人の生存率データが残されている。それによれば、5年生存率が18%、十年生存率が6%で、その結果は放置した場合とほとんど変わらない。しかもこの手術は「治癒を目指した手術だった」ということから、恐らく末期(4期)の患者はほとんど含まれていなかったはずと推測されている。ということは、ガン検診などせずに放置しておいたほうがはるかに生存率が高いということになる。
このデータが示すさらに大きな問題は、手術そのもので死亡した患者が6%もいたという事実である。もっとも今日では技術の進歩により、乳ガンの手術で死亡する患者はほぼ皆無と言われてはいるものの、手術が成功したからといってガンがすっかり治癒したことにはならない。というのも、せっかく手術をしていながら、手術の合併症、後遺症の影響でジワジワと死亡していく患者が相次いでいるからだ。その理由は、手術をしても原発病巣を完全に抑え込むことができず、やがて「再発」そして肺や肝臓などへの「遠隔転移」が起こってくるからと現代医学では考えている。
そこでNさんも経験したように、手術に加えて再発予防のための放射線照射や、ホルモン療法、化学療法(抗ガン剤)等が必要になってくる。だが、それでも乳ガンが完治するわけでなく、その後も「再発」「転移」の不安が続いていく。だからこそ、
「私、元気だったのに…。手術を受けるまでの私は、何ともなかったのに」
と、ふと愚痴っぽくつぶやいてしまいたくもなるのであろう。
その愚痴に秘められた思いを突き詰めて考えていくと、ガン検診で早期発見、早期治療に走るのは本当にいいことなのだろうか。そんな疑問も湧き上がってくる。
これに対して近藤医師は、数々のデータを客観的に徹底検討した結果、次のように言う。
「早期発見が有効という証拠はどこにもない。
むしろ、内視鏡での感染や、医療被爆による発ガンのほうが問題だ」と…。
もちろんその他にも、早期発見、早期治療から始まる放射線照射や化学療法(抗ガン剤)等の生体への甚大な被害も、当然そこに含めなければならない。
●ガン検診は全く無意味?
「ふたつの風景」の内のひとつ「闘いの風景」は、ガンを悪魔視することから来る恐怖呪縛の光景だ。怖いガンは一刻も早く発見し、一日も早く治療しなければならない。そんな不安と恐れから、早期発見のためのガン検診が日本全国で盛んに行われているのである。
これに対して近藤医師は、「がん検診を拒否せよ」(『患者よ、がんと闘うな』第8章)と声高に呼びかけている。その理由は単純明快、「早期発見が有効という証拠はどこにもない」からだ。それどころか、肺ガンや乳ガン、大腸ガンなどでは、検診の無効性が、むしろ逆にはっきりと証明されてしまっているのだ。要するにガン検診は、「してもしなくても結果はほとんど変わらない」のである。といってもなかなか信用してもらえないだろうと考えたのか、近藤医師は肺ガン、乳ガン、大腸ガンに関する調査データを、同書でこと細かく紹介している。「調査」というのは、くじ引き割り付け試験の追跡調査で、これは多数の健康な人々にくじ引きしてもらい、「検診するグループ」と「放置するグループ」とに分けて十数年という歳月をかけてその後の成り行きを観察したものだ。
で、その結果はというと、アメリカのメイヨークリニックでのヘビースモーカー9000人に対する肺ガン調査では、死亡数はむしろ検診したグループのほうが多くなる傾向を示した。この他にもアメリカでは肺ガン検診に関する2つの割り付け試験が実施され、そのいずれも検診群の死亡数が減らない結果となってしまったため、結局は肺ガン検診の有効性が否定され、ついに欧米では肺ガン検診を取りやめてしまったのである(アメリカでは1987年に検診を断念)。
乳ガンの場合もほぼ同じで、スウェーデンのマルメ市で45歳以上の女性4万2千人を二群に分け、一方にはマンモグラフィという乳房のレントゲン撮影を定期的に受けさせ、他方は放置してガンの症状が出たときに検査するといった調査をしたところ、検診群の総死亡数は2万1千人のうち84人、放置群のほうは85人という結果が得られた。この程度の僅差ではとうていガン検診が有効とは言えない。
大腸ガンに関する調査では、アメリカのミネソタでのくじ引き試験の結果が報告されているが、4万6千人に対する13年に及ぶ調査の結果の死亡数は、放置群と毎年検査群の結果がずばり同じ216人だった。だとしたら、毎年大便検査をさせられた人々は、その時間と手間とわずらわしさがあったぶんだけ損をしたことにもなる。
こうして世界のあちこちでガン検診のくじ引き割り付け調査が行われてきたものの、そのいずれも検診の有効性を証明することができなかった。ちなみにこの他の割り付け試験結果の事例を紹介すると以下のようになる。
【試験名】 【試験の規模と内容】 【放置群総死亡/検診群総死亡 】
チェコ肺癌試験 喫煙男性6千300人 293/341
カナダ、乳がん試験 50~59歳女性3万9千人 13/13
カナダ、乳がん試験 40~49歳女性5万人 16/17
デンマーク大腸がん試験 6万人 204/201
イギリス大腸がん試験 15万2千人 164/165
つまりガン検診に有効性が認められないのだ。だとしたら日本でも検診が取り止められて当然なのに、なぜか日本ではいまだにガン検診キャンペーンが大々的に展開されている。また検診の有効性が認められず断念したはずのアメリカでも、その後も実際にはガン検診が行われている。それについて近藤医師は、かなりの皮肉を込めて次のように記している。
マルメ市での乳がん試験は、乳がん死亡も総死亡も減らせなかったのですから、論文の結論は「乳がん検診は無効」とか「有効ではない」とするのが素直なはずです。ところが研究者たちは、さまざまな統計的手法を駆使して、「マンモグラフィによる乳がん検診は、乳がん死亡を減らすことができるかもしれない」という結論を導いているのです。
「かもしれない」という表現は、なんとも小ざかしい。しかし、アメリカは日本に比べまだ正直ということができるだろう。というのも日本では、自らがまだ一度もくじ引き割り付け試験などしたこともないのに、さも検診の有効性が証明されているかのごとく「早期発見・早期治療・ガン検診のススメ」を絶えず繰り返し大合唱しているからだ。
ちなみに国立がんセンターのホームページを開くと、最初に「がん検診」のメッセージが掲げられ、「がん検診の利益と不利益」に関する説明が次のようになされている。
がん検診の最大の利益は、がんの早期発見・早期治療により救命されることであります。そのためには、より精度の高い方法で早期のがんを発見することが重要です。
一方、がん検診にも不利益な側面があります。
第一は、検診によってがんが100%見つかるわけではないという点です。どのような優れた検査でも100%の精度ではありませんし、病気になる個々人の差があります。従って、がん検診にはある程度の見逃しがつきものといえます。
第二は、過剰診断により、過剰な検査や治療を招く可能性があることです。検診によって「がん疑い」が増加すると、そのための精密検査が増加します。また、治療の対象とはならない微小ながんが発見された場合でも、手術や薬物治療が行われることがあります。こうした過剰診断や過剰治療は、医療費の増大を招くことになります。
第三は、受診者の心理的影響をもたらす点です。精密検査が必要ということで不安を感じることもあります。
第四は、検査に伴う偶発症の問題です。たとえば、胃内視鏡検査では出血や穿孔などの可能性があり、極めて稀ですが死亡に至ることもあります。検診の不利益としてよく取り上げられる問題に、放射線被曝があります。検診による放射線被曝は、機器の開発・改善により、その影響は最小限に抑えられるようになりました。検診の放射線被曝によるがんの誘発や遺伝的影響は極めて低いと考えられますが、全く何も起こりえないと断定はできません。
以上の説明をそのまま素直に読めば、「検診にはさまざまな不利益があるんだよ」というものだろう。が、その一方で、「それ以上に大きなメリットがある」という思い込みも誘発させてしまう。で、いったいどんなメリットがあるのだろうか…とさらに読み進めていくと、
がん検診の効果が本当にあるかどうか判定する指標としては、死亡率が用いられます。がん検診を実施することで、対象となるがんの死亡率の減少が証明されることが、がん検診の効果があるといえる第一条件です。
とある。ここまで書く以上は、その「がんの死亡率の減少」を証明するデータを示して当然なのに、どこを探してみても「死亡率の減少」を証明したものは全くない。それもそのはず、日本ではこれまでに一度もくじ引き割り付け試験をやったことがないのである。
にもかかわらず「検診は有効」と錯覚させ、「ガン検診のススメ」が横行する。しかしこれに水を差すニュースが、2005年7月17日の毎日新聞朝刊の一面トップを飾った。そこには大きな見出しで、「厚労省 有効性に疑問」「X線検診を廃止」等々の文字が踊っていた。
●「有効性に疑問」とし「X線健診廃止」へ
7月17日の毎日新聞一面トップの、7段組記事で大きく報道されたその記事から、まず「リード文」を紹介してみよう。
胸の病気の早期発見を名目に毎年1回、職場の健康診断で実施されている胸のエックス線検査について、厚生労働省は法的義務付け廃止の検討に入った。検査の有効性を示す証拠がないためだ。すでに専門家による検討会(座長・工藤翔二日本医大教授)を設置しており、結論次第で来年度にも廃止する。しかし廃止で1000億円規模の影響が出るとみられる業界は、検討会で「有効だとの証拠はないが、有効でないとの立証もない」と猛反発。日本医師会の委員も同調しており、最終調整は難航しそうだ。
この記事が伝えるものを一言で言えば、「検査に有効性を示す証拠がないから法的義務づけを廃止する」となるが、さらに記事中では、「エックス線被爆の影響で発ガンする人も出ている」とし、その危険性についても触れている。
つまり、効果がなく、むしろ危険性があるのだからエックス線検査を義務づけるのは意味がない。厚生労働省はそのように判断したのである。厚労省がガン検診に疑問を持ったのは、実はこれが初めてではない。同省は1998年4月にも、市町村の検診実施義務をなくしてしまっていた。それまでは乳・肺・子宮頚部、子宮体部・胃・大腸の五つのがん検診の実施を老人保健法で市町村に義務づけていたのだったが、同法の告示を改正してその義務づけを廃止してしまったのである。
このときも毎日新聞は、一面トップでこの5種類の検診の有効性に関する研究班の報告を報じており、その内容は以下のようになっている。
1(現行のままの検診で)「有効性の証明がある」とされたのは、大腸がんと子宮頚がんの検診だけ。
2 乳がんについては、「(医師が目と手で検査する現行の)視触診による検診は有効性の根拠が十分でない」と明記。欧米で実施されている乳房のエックス線撮影による検診を検討すべきと主張。
3 肺がんについても「世界的にみた場合、有効性について否定的な成績が多い」「検診の効果はあっても小さい」と断定し、各国で効果が立証されている喫煙対策を推進すべきとした。
4 子宮体がんの検診については「死亡率減少効果について報告はない」と、有効性の評価さえされていない現状を指摘。
5 (X線直接撮影による)胃がん検診では「有効性が強く示唆されている」としたものの、検診でのがんの見落としが10~40%あることなどを指摘し、検査の限界を受診者によく説明するべきと提言。(毎日新聞より抜粋)
このように日本でも実はガン検診の有効性が、かなり以前から疑問視されてきていたのだ。そして今回、ついに厚生労働省は「胸部X線検診の廃止」を打ち出したわけだが、肺ガンに関してはすでに1998年段階で「世界的にみた場合、有効性について否定的な成績が多い」としていたのだから、それも当然の判断だったにちがいない。
ところがこの厚生労働省の姿勢に対して医療業界は猛反発している。そしてその言い分は、
「有効だとの証拠はないが、有効でないとの立証もない」
というものである。これにはアメリカでの、「マンモグラフィによる乳がん検診は、乳がん死亡を減らすことができるかもしれない」というおかしな言い方と共通したものがある。要するに、ガン検診がなくなってしまっては、業界は経営的に困ってしまうのである。
●業界の利益のために人命軽視する?
実際、毎日新聞が報道するところによれば、業界を代表する連合会の梶川専務理事は、
「廃止は健康診断料金の大幅値下げや受診者の急減につながりかねず、死活問題だ」
と、思わずその本音を吐露してしまっている。
なにしろ現在の職場検診の受診対象者は5900万人にものぼり、その費用は推定で年間3000億円から4000億円というから、確かにこの市場がなくなっては大変と思う気持ちが分からないでもない。しかし、業界の利益のために不要なガン検診を強要され、しかもX線で被爆して発ガンするというのではたまらない。
この医療被爆(X線被爆)に関しては、厚生労働省による専門家の検討会で矢野栄二委員(帝京大学医学部教授)が、次のように述べている。
「X線被爆の影響で発ガンする人が延べ数万回から10万回の受診に一人出ると推計される」
しかし矢野委員のこの推計には明解な根拠がなく、どちらかといえば業界サイドからの推計の匂いが強い。というのも、国際放射線防護委員会が推定した危険率から計算すれば、「日本では毎年1万3千5百人ずつが医療被爆による発ガンで死亡する予測結果になる」と指摘されているからだ。
ちなみに矢野委員が言うように「数万回から10万回の受診で一人が発ガン」したとしたら、受診者5900万人の中から発ガンする者は、10万回で一人として見積もって毎年590人、また「数万」を1万として計算すれば5900人である。これに対して国際放射線防護委員会が日本に対して推定するものは、「ガン死亡者」1万3千5百人である。矢野委員の「推計」からX線被爆による「発ガン者」を計算すれば590~5900人となるが、これは国際放射線防護委員会が言う「死亡者」1万3千5百人から見ればあまりにも少なすぎる希望的な観測だ。いやたとえ発ガン者が年間590人だったとしても、危険性があって効果のない検診をそのまま放置するというのは無責任すぎる。これだけ大変な危険を抱えながらなおもX線検査を義務づけるのは、まさに「国家的犯罪行為」と呼ぶべきだろう。
それに、発ガンにまでは至らずとも、X線は免疫力を低下させるから恐い。しかも「有効性が認められない」というのだから、今回の厚生労働省の決断は当然だったというべきであろう。実際、「検診したために発ガンした」という証拠もすでにあちこちで上がっている。
その一つ、カナダの事例では、40歳から49歳の女性5万人にくじを引かせて二群に分け、一方は乳房の触診だけにしてそのまま放置し、他方は触診のほかにマンモグラフィを定期的に繰り返したところ、8年半後の乳ガンによる死亡は、放置組が18人に対して検診組は29人という結果が出た。なんとマンモグラフィを受けた検診組が、6割増しで乳ガンになり死亡してしまったのだ。
「マンモグラフィですらそうなのだから、胃や大腸や肺の撮影はもっと心配」
と言うのは近藤医師である。これらの臓器の検診では被爆線量も膨大で、発ガン率が乳房の4~5倍はあるからだ。だから当然ガン検診は危険ということになるが、特に集団検診では間接撮影装置を使うため、その危険度が直接撮影に比べて3~10倍になってしまうのだ。
X線の間接撮影では一本のロール状のフィルムで数十人の撮影が可能なため、職場や市町村などの集団検診ではまず間違いなくこの効率的で経済的な間接撮影が行われているという。アメリカではその危険性から間接撮影をとっくに止めてはいるものの、日本はまだそれが行われているらしい。そしてこの事実を近藤医師は「日本の恥」と批判する。
このように、危険でありながら効果がない。残念なことながら、それがガン検診の実態なのだ。だから厚生労働省もついに「X線検診の廃止」を打ち出すこととなった。
日本は世界最初で唯一の原爆被爆国であり、それだけに「被爆」に敏感であると思いきや、それが全く逆なのだ。いとも簡単にX線撮影を受けてしまう日本人は「世界一の医療被爆国」であり、国民一人当たりの医療被爆がイギリスの8倍にものぼるという。なぜそれほどまでに医療被爆が多いかといえば、集団検診が横行してきたからだ。その意味で、ようやく厚生労働省が「X線検診の廃止」を打ち出したことは高く評価したい。ただ、業界から猛烈な反発が出てきているだけに、結果が果たしてどうなるかは残念ながらまだ分からない。
●なぜマスメデイアは真実を伝えないのか?
第1章を「ふたつの風景」としながら、まだ「闘いの風景」しか書いていない。それもガン治療では圧倒的に「闘い」が主流になっているからだ。「ガンは恐い。ガンは悪魔だ。だからガンを一刻も早く見つけ出してやっつけてしまおう!」…。そうした「ガン呪縛」が早期発見に拍車をかけていて、職場での健康診断の法的な義務づけもその流れの中にある。
しかしここにきて、厚生労働省は「X線検査の廃止」に踏み出した。その理由は、「X線検査には害あっても益なし」と判断したからだ。これだけ明解な理由がありながら、しかし「早期発見のススメの流れ」にほとんど変化はない。それもそのはず、「害あっても益なし」の事実が全くといっていいほど伝わっていないからである。
実際、7月17日の朝刊トップで毎日新聞は、厚生労働省が「X線検査の廃止」に踏み出したことを大きく報じたが、そのほかのマスメディアはどうだったか。あるいは他紙も報道していたかもしれないが、少なくてもぼくにはその事実が確認できなかった。毎日新聞では一面トップで報じたからこそ読者の目にも止まった。しかしそれがもし小さなベタ記事、ゴミ記事的な扱いにすぎなかったら、多くの読者が見過ごしてしまったことだろう。
実を言えば、毎日新聞のこの記事は、ぼくのメルマガの読者がメールで教えてくれたものだった。そのメールが届かなかったとしたら、ぼく自身その事実を知らなかったことになる。その意味で、毎日新聞のその記事を教えてくれた読者にはただ感謝だが、それにしてもマスメディアが厚生労働省のこの動きを無視、軽視するのはなぜだろう。その理由は、記事の中で業界を代表して連合会の梶川専務が言っていたのと同じように、それが「死活問題にもつながっていくから」であろう。
早い話、その構図はこうだ。ガンは恐い。毎年ガンで30万人以上もの人々が亡くなっている。だから早くガンを発見するために、進んでガン検診や職場検診をしようという空気が社会全体を覆っている。その結果、職場検診だけでも年間3000~4000億円の市場が維持でき、市町村などによるガン検診や、人間ドックなどでの精密検査なども含めれば、検診のための巨大な市場が日本社会にできあがっているのだ。
しかしもしここで、「検査には害あっても益なし」などと報じてしまったらどうなるか。それはそのまま医療産業を直撃し、それこそ医療業界の死活問題にもなってくる。
マスメディアは広告という収入で経営が維持できているのだから、巨大な医療産業に甚大な影響が及べば、それは回り回って「自らの死活問題」にならざるをえない。なぜなら医療産業はテレビや新聞などの大切な広告スポンサーであり、だから医療産業を窮地に追い込むような報道はできない。広告に全面的に依存しているテレビやラジオは特にそうなのである。
そんなこともあってか、毎日新聞が一面トップで報じたニュースは、テレビでは全くお目にかかれなかった。もっともすべてのテレビをウォッチングしていたわけではないので断じることはできないが、テレビを含めた毎日新聞以外のマスメディアが、この問題を完全に軽視し、無視したと言わざるをえない。その結果、厚生労働省が「X線検査には害あっても益なし」と打ち出した事実は、社会にほとんど伝わらなかったと言っていいだろう。事実があっても、マスメディアが伝えなければ、なきに等しい。それは「ガン検診(職場健診)の真実」だけに限らず、ガン問題に関するすべてで全く同じことなのだ。
厚生労働省がいまさら言うまでもなく、ガン検診には有効の証拠がないばかりか医療被爆の危険性があり、また大腸検診の内視鏡検査では事故の心配もある。ちなみに全国1300余りの医療施設に対するアンケート調査では、1988年からの5年間で約500人前後の死亡事故があったと言う。これを全国の病院で計算すれば、大腸検診で毎年200人くらいが内視鏡検査や麻酔ミス、筋肉注射ミスで死亡しているらしいというから、この点からもガン検診は危険ということができるだろう。
さらにウィルスや細菌感染の心配もあれば、たとえ検診が安全だったとしても時間やお金の負担もバカにはならない。このように「害あって益なし」のガン検診が、なぜいつまでも行われているのだろうか。これに関して近藤医師は次のように述べている。医療現場からの勇気ある生の声だけに、鋭いその指摘には非常に強力なインパクトがある。
専門家たちががん検診を死守する理由は、歴然としているように思います。自分たちの生活です。がん検診は、いまやおおぜいの人たちの生活を支えています。病院は検査の部分で稼ぐだけではなく、発見したがんを治療するところで二重に稼ぐことができますから、いまやがん検診は病院の大きな収入源になっています。
人間ドッグや職場健診も、がん検診に意味がないとなれば、受診者ががた減りします。がん検診を統計的に解析する学者も、検診の無効が明らかになれば、研究対象がなくなってしまい、研究費を打ち切られる立場にいます。
行政も、保健婦や技師たちをかかえていますし、検診専門の施設をつくってしまった自治体もあります。ことに厚生省は、老人保健法などという法律をつくって、がん検診をそのなかに書き込んでしまいましたから、検診の無効を認めたら、法律作成に携わった先輩たちの非を認めることになるわけです。
こういう構造がある場合、だれが自分たちの不利益になることを言い出すものでしょうか。みなさんはここでも、専門家に頼らずに自分の頭で判断する必要があるわけです。
近藤医師が『患者よ、がんと闘うな』を書いたのは1996年のことだった。そのなかで近藤医師は、「厚生省は老人保健法という法律をつくってがん検診を義務づけたから、先輩たちの非を認め、自分たちの不利益になる検診の無効性を認めるようなことはしないはず」と書いているが、ところが同省はその2年後の1998年に、老人保健法で市町村に義務づけていた検診実施義務を廃止してしまった。しかもさらにこの7月、職場健診の廃止にまで踏み出したのである。
この事実は、厚生労働省が恥を忍んで自らの非を認めたことを物語っている。最近アスベスト問題が社会問題化してきたこともあって、ここでようやく医療業界の利益よりも国民の健康を優先する選択をしたということか。しかしいまだに多くのマスメディアは、どうやら「国民の健康」や「事実報道」よりも「死活問題」を優先しようとしているかのようだ。
●「ガンだったんだから仕方ない」
ガンを悪魔のように思ってガン検診に走り、いざガン宣告を受ければ医師の勧めに従って、多くのガン患者が手術、化学療法、放射線療法に身を委ねている。それがごく普通のことであり、最もポピュラーで代表的なガン治療の風景である。
ガンサイトから紹介したNさんの場合も、そんな壮絶な闘いの5年間を過ごし、いまは元気に暮らしているようだ。しかし、病院でのガン治療に従順な戦士すべてが健康回帰できるわけではなく、闘いの途上で無念の戦死に追いやられる者も非常に多い。そしてその多くはガンそのものに殺されたというよりは、ガン治療とガン呪縛で命が尽き果てたというケースのほうがはるかに多いような気がしてならない。
ぼくがガン宣告を受けたその一週間後、メディアは二子山親方の訃報でわき上がった。死因は口腔底ガン。元大関貴ノ花はまだ55歳、若すぎる「角界のプリンス」の死であった。報道によれば、平成15年12月に舌と下あごの歯ぐきの間にガンが判明したというから、その後わずか1年半足らずの戦いの果ての死であった。
ガン宣告を受けた二子山親方は、さっそく抗ガン剤投与と放射線治療を受けた。しかし昨年6月に再発して入院し、8月にいったん退院はしたものの、薬の副作用で話すのも辛いほどの状態が続き、今年1月に再び都内の病院に入院したという。入院中の1月30日には元大関貴ノ浪(音羽山親方))の断髪式に病室から駆けつけてまげにはさみを入れたが、そのときの映像は、まるで別人のような痛々しい表情を映し出していた。
土俵に上がることすら辛そうで、すっかりむくんでしまったその顔を見たとき、ぼくは改めてガン治療の副作用のすさまじさを知らされた思いだった。が、メディアはもっぱら「若貴兄弟のいざこざ」を報じるばかりで、誰もガンやガンの副作用については論じない。しかし二子山親方もまたガンに破れたのではなく、ガン治療に破れたというべきだろう。
二子山親方の死があれだけ大きな話題になりながら「あの顔」や「その治療法」が全く論じられなかったということは、「ガンだったんだから仕方ない」という空気が支配していたからであろう。それくらいに「ガンだったんだから…」という言葉には威力と呪力がある。そこには「水戸黄門の印籠」のような絶対力が秘められているのである。
しかし、それは本当だろうか。ガンだったら「死んで当然」なのだろうか。第1章でここまで述べてきた「風景」には、「ガンは死んでも当然」という空気がみなぎっている。その「空気」のもとで多くの者は寡黙になり、本当に死んでしまっても「仕方ない」と諦めてしまう。そしてこれこそがまさしく「ガン呪縛」の成せるわざなのである。
これに対して「もうひとつの風景」がある。
それは「ガンは消えうるもの」という大らかな光が注ぐ風景だ。本書のテーマはそこにあるだけに、この章では簡単なスケッチだけで終わらせたい。というより、「ガンとの闘い」には人々の感動を呼ぶ壮絶なドラマがつきものだが、「ガンと闘わない」自然治癒のほうは、実にあっさりと物語が済んでしまうのである。
たとえば、こんな具合である。「もうひとつの風景」を描き出す露払い的な事例として、友人の趙曽茂さん(上海音楽学院教授)から聞いた、彼の友人の極端とも思える治癒例をまず紹介してみよう。
上海に住む趙さんの友人Bさんは末期の大腸ガンと診断された。彼はまだ独身で若かったため、「余命が短いんだとしたら、働いて蓄えておいた金を使って思いっきり旅行しよう」と思い立ち、それっきり病院には行かずに、行ってみたいと思っていた場所を転々と旅し続けた。最初のうちは体調が思わしくなく、ときどき辛さや不安に見舞われはしたものの、旅をしているうちにだんだん面白くなってきてしまったのであった。
そんな旅の日々が半年も続くと、さすがにお金がなくなってきた。しかしそのころになると、彼はもうすっかり旅行の魅力と楽しさに憑かれていた。いつのまにか体調も良くなってきて一つの旅が終わるとまた次の旅がしたくなる。しかし、もうそのためのお金がない。そこでBさんは友人たちに頼み込み、借金をしながらさらに旅行を続けて行ったのである。
Bさんは二度と病院に行かなかったから、ガンが消えてしまったかどうかは確認しようもないが、なぜか体調はすっかり良くなり、以前あった体内の違和感もなくなったという。
で、ガン宣告から2年以上が経った時点でどうしていたかといえば、友人たちから借りた旅行資金を返すために必死になって働いていたという。そして借金を返し終わったら、再びお金を貯めてまた旅行に出かけたいらしい。もしBさんがガン治療のために入院してしまっていたら、「余命半年」の宣告がそのまま現実のものとなってしまったかもしれない。
以上はかなり極端な事例であり、ともすれば「ウッソー!」と笑われてしまいそうな話だが、これに似た事例は意外とあちこちにあるものなのである。というわけで、もう少し丁寧に詳しく、ごく身近で起こった治癒物語を続けて紹介してみたい。
●検査してみたら「末期ガン」
以下に紹介する治癒物語は、同じ札幌に住むぼくの友人に起こった事例である。
Fさんが「体調異変」を自覚したのは、2003年秋のこと。便秘がひどく、痛みもどんどんひどくなっていた。「おかしいなぁ、ひょっとしたら…」と、頭の中に「ガン」の文字が浮かんだりもしたが、必死でその思いを打ち消す日々が続いた。それだけは、絶対に自分で認めたくなかったからだった。そこで以前から知っていた民間療法を始めたところ、ひどい痛みがしばらくは治まった。が、やがてまた痛みと便秘に悩まされる。そんな「だましだましの暮らし」が数ヶ月続き、ついにとうてい我慢できないところにまで至った。
「痛みのサイクルは1ヶ月に1回くらいだったのに、それがだんだん狭まってきてほぼ毎日のように痛くなった。女房からは病院に行くようにとやかましく言われたけれど、やっぱり行きたくない(笑)。要するに、ガンを宣告されるのが怖かったんです」
Fさんのその思いは、誰にも共通するものであろう。しかしあまりにもひどい激痛と便秘に苦しめられ、のっぴきならない状態に追い込まれたFさんは、ついに「もはや自分をごまかすことはできない」と思うようになった。が、それでも病院には行きたくない。そこでインターネットを使っていろいろ調べてみた果てに、ある公的検査機関でまず検査だけしてみようと決意した。「病院に」ではなくて「公的検査機関」に足を運んだことには、二つの理由があった。ひとつは、「そこは検査の腕が良いらしく、検査で死亡した例がなかった」こと。そしてもうひとつが、「ガン宣告から緊急入院というベルトコンベアに乗らなくて済む」ということであった。それくらいFさんはガンを恐れており、同時に「きっとガンに違いない」という確信めいたものもあった。だからこそ「ガン宣告」の日をあたかも「死刑宣告」のごとく恐れ、その日を延ばし続けてきたのである。
「ガンと分かったとしていったいどうなるんだといった気持ちが強かったんですが、やっぱり白黒をはっきりさせなくてはいけないと思い、まず潜血検査を受けました。その結果プラス反応が出ましたので、仕方なく内視鏡検査ということになったんです」
運命の内視鏡検査は、10月31日に行われた。普通なら30分ほどかかるはずの検査なのに、Fさんの検査はわずか10分足らずで打ち切られてしまった。内視鏡を肛門から突っ込んではみたものの、S字結腸に大きな腫瘍ができていて、それ以上カメラを奥に入れることができなかったからである。しかも腸が破れてひどく出血していたようだ。こうして検査は軽く簡単に終わったものの、Fさんは重々しい気分に沈みきった。
「すぐに切らないと腸が塞がって腸閉塞になる危険性がありますから、優先的に手術してもらえるよう、先生に電話してあげます」とその公的検査機関で言われ、紹介状を持ってすぐに病院に行くようにとFさんは勧められた。手術は急を要するようだった。
公的検査機関からの帰途、「やっぱり…」という思いに沈み込みながらも、どうすべきかとFさんは考え続けていた。紹介状を持って病院に行くならば、即刻手術、入院、抗ガン治療等々のシナリオが待ち受けているにちがいない。そしてその終着駅は、「死」だ。
その夜、悶々と過ごしているうちに、Fさんはふと紹介状の内容が知りたくなった。いったい何が書いてあるんだろう?「この人はもうダメだ。すでに手遅れ」とあるのか。それともまだ多少の希望は残っているのか。とにかくそれが知りたかった。その内容を知った上で考えてみるのも一案かと思ったのである。そこでスパイ映画もどきに、熱湯の蒸気を使ってこっそり封を開けてみることにしたが、開封の痕跡が残らないようにと慎重にことを進めたにもかかわらず、封筒の表に書いてあった文字が不覚にも蒸気でにじんでしまった。
「しまった!と思いましたが、もう後の祭りです。これでは開封したことがバレてしまいますので、あとは大胆にハサミでジョキジョキ切って開けました(笑)。そしたら、こんな写真が出てきたんです。もちろん症状に関するコメントもありましたが、詳細は理解できませんでした、しかし末期ガンであることだけははっきりと分かりました」
Fさんが見せてくれた数枚の写真には、不気味なガンがトグロを巻いてはっきりと写っていた。そして写真に添えられた手紙には、「早急の加療が必要」との所見があった。
さて、どうしよう? やっぱり手術すべきか、開き直るべきか。 開封した果てのFさんには、さらに難問が待ち受けていた。普通なら、たぶん選択肢などないだろう。内視鏡で検査をして、これだけはっきりとガンが確認でき、しかも専門医が「緊急手術」を促して、優先的な手術依頼を病院の医師にしてくれているくらいなのだから、急いで病院に駆け込んで緊急手術をするのが当たり前である。しかしFさんは、もう一つの選択肢として残っていた「開き直り」のほうにしだいに気持ちが傾いていった。
「やっぱり手術するしかないのかなぁとも思いましたが、まてよ?とも思ったんです。というのも、私の知り合いで腹を切って良くなった人は一人もいませんでしたし、それにガンがある場所は、絶対にS状結腸だけじゃない。違和感からくる私の自覚症状では、ガンはS状結腸部分だけでなく、その上のほうにもどっかりあぐらをかいているはずだと、自分ではっきり実感できたからです。だからもし手術で切り取るとしたら、大腸をごっそり切って小腸を直腸に直接つなぐことになる。大事な大腸を全部切ってしまったら大変なことになる。だから、絶対に切りたくないと思ったんですよ」
そう思ったFさんは、とにかく自分なりの方法で対処してみることにした。というより、その手が残っていたからこそ、病院に行くことも手術することも断念できたのであろう。とは言っても、不安はあった。病院に行って手術をせずに「そんなこと」にかけて本当に大丈夫なのだろうか。取り返しのつかない、とんでもない間違いを犯すことになるのではなかろうか。そういった不安と迷いが、Fさんに波のように押し寄せてきたのである。
●40日後に「山を越えた!」
Fさんが開き直って選んだ「奥の手」とは、微量ミネラルを大量に摂取することだった。Fさんは苦しかったときにミネラルを摂取することでなんとか体をだまし続けてきていただけに、ここにきて微量ミネラルを大量摂取して免疫力を高めることにかけたのである。
ということで検査直後の11月の初めから、Fさんはとにかくミネラルの多量摂取に踏み切った。本来の5倍の量を毎日摂取することにしたのである。しかし11月中はやっぱり二日三日と便秘が続き、ものすごい腹痛に襲われた。4~5時間も続くその激痛が抜けたかと思うと、今度はひどい下痢になる。そして下痢が治まるとまた便秘…、そんな繰り返しに苦しめられたのである。
そんなとき襲ったのが、「とんでもない勘違いをしているのでは?」という不安だった。末期ガンであり、便秘と下痢の苦しさに襲われ続けているというのに、こんなことをしていて本当にいいのか。取り返しのつかないことになってしまうのではないかと…。いったん腹は決めたものの、心のどこかにそんな思いがよぎるのを禁じえなかったのである。
しかし入院して手術やガン治療をするのを拒んだFさんとしては、ただ不安に翻弄されているわけにはいかなかった。そこでミネラルの摂取と同時に、イメージ療法にも取り組んだ。すなわち腸内で働く小人たちの絵を描いて枕の下に置き、小人たちがせっせとガン細胞の修復作業をしてくれているイメージを思い描いたのである。
そんなのは子どもだましのようなものと思うかもしれないが、イメージ療法には不思議なくらいに劇的な効果がある。たしかテレビの「アンビリーバボー」でも、末期ガンに冒された少年が同じようなイメージ療法で完治したことが報じられていた。Fさんも不安を打ち消すかのようにイメージ療法に熱中したのである。
多量のミネラル摂取とイメージ療法、それがFさんの選択したガン治療であったが、それと同時に「明るく考えること」にもこれ努めた。というのも、「ストレスが引き金になってガンができたのではないか」と本気で思っていたからである。「あっ、あのときのあのことが、きっとガンの引き金になったんだな」。Fさんにはそれがはっきりと分かるという。
もしそうだったとしたら、ガンを恐れ、ガンに悩んでいてはストレスは高まりばかり。自分のネガティブな精神的な問題でガンになったのだとしたら、ものごとをポジティブに明るく考えることによってこそ、ガンを消し去ることができると考えたからだった。
そう思うと、どんどん考え方が変わっていった。最初のころは落ち込んだり深刻なったりして、夜中に眠れなくて悶々としていることも多かったが、「ま、ええわ」と腹を決め、ガンを受け入れてからはだんだん気持ちが変わってきた。そうこうしているうちに、40日後に「山を越えた」という実感が持てたという。
「おやっ?と思ったのは、12月に入ってから。しだいに通じが良くなってきて、1日に2、3回、中指くらいの太さの便が出るようになったんですよ。以前の便はうどんくらいに細く、キシメンみたいにねじ切れていたんですが、それがどんどん太い便になってきた。ですから、急激に回復してきていることが実感として分かりました」
そして12月10日くらいには、「もう山を越えたな」という実感があった。12月に入ってからは「おや、なんか調子がいいぞ」と希望が抱けるようになっていたのだったが、やがてそれが確信に変わっていったのだ。便の状態がどんどん良くなっていくのと同時に、さまざまな好転反応も出てきていたからである。
ガンが毒々しくトグロを巻いていた10月末の写真の状態から2ヶ月も経てば、普通ならガンがさらに大きくなり、腸が閉塞して当然だろう。ところがFさんの場合、「山を越えた」という実感が生まれるに至ったのだ。太い便が出るようになったということは、ガンが小さくなってきたことのまぎれもない兆候である。
ぼくがFさんに会って話を聞いたのは「ガン宣告から50日後」であったが、そのときのFさんの顔には自信と希望があふれていた。
ガンから解放されたFさん
2003年秋に体調異変を覚え、10月末の内視鏡検査で末期ガンと分かり、それなのに病院には行かずに「イメージ(意識)」と「ミネラル」にかけたFさんは、12月中旬には早くも「もう山を越えた」と実感した。
こういったたぐいの話は、巷ではよく「奇跡的」と呼ばれる。そしてそこには、普通では決してありえない、たぐい稀な幸運なケースという強い思い込みがある。たしかにそう思って当然だろう。なぜならほとんどの人々は、末期ガン宣告を受けたらあわてて病院に駆け込んで何らかの治療に飛び込んでしまい、Fさんのように病院治療を蹴飛ばすことなどまずありえない。だから希有に思えるのであって、末期ガンの治癒そのものが希有というのでは決してないのである。それはともかく、その後のFさんはどうなっただろうか。そして、なぜこのような「奇跡的なこと」がFさんに起こったのか。治癒の理由に関しては章を改めてじっくり考えてみたいが、結論から言えば、Fさんはガンから解放されてしまった。
末期ガンを放置しておけば、普通なら体全体に転移してやがて死というのが相場にちがいないが、FさんはS状結腸のみならず、自らが「ほかにもあるはず」と確信していた他の部位のガンも消えてしまっていた。上海のBさんの場合は医師から診てもらったわけではないので「ガン消失」の証拠はないものの、Fさんの場合は一年後に病院で診てもらった結果、「ガン消失」が明らかになったのである。
しかしそれでもなお「そんなバカな。そんなはずがない」と思われるにちがいない。そう思うのも現代医学からすれば当然であって、ガンが恐いとされている点は、ガン細胞が恐るべき勢いで増殖し、かつ転移することにあるとされているのだから、手術も抗ガン剤治療も放射線治療も受けずにガンが消失してしまうなどというのは、どこかオカルトじみたものに思えてしまうだろう。しかしそう思うのはガンを誤解しているからであって、ガンの消失は決して珍しいことではないのである。
かといって、ガンになってもそのまま放置しておけばいいと主張するわけではない。また、ガン患者の「弱み」につけこんで、高価で悪質な「健康食品」があふれ返っている現実も、正直ぼくとしては憂いざるをえない。しかしよくよく考えれば、現代医療でガンが治らないことを心のどこかで知っているからこそ、多くのガン患者がそれらに群がり、健康食品産業がここまで大きく育ってきたのである。そして実際、そこにはそれなりの効果もあるようだ。
いったいなぜか。それが本書のテーマであるが、この章では、ガンに「ふたつの風景」があることをまず知っていただきたい。「ふたつの風景」とは言っても、実際には「ひとつの風景」しか目に入らない。「ガンと闘ってやっつける」がそれである。しかしそこには本当の「勝利」はない。ガンと勇敢に闘って勝利したかに見えても、一度は敗退したはずのガンがやがて「再発」し、あるいはどこかに隠れていたガンがいつのまにか「転移」して、再び出てきてキバをむくことも多いからだ。その意味で、いったんガンになったら死ぬまで警戒し続けなければならない。そこには絶えず不安がある。そして不安や心配や警戒心から解放されることのない人生に、本当の「勝利」はないのである。
これに対する「もうひとつの風景」は、上海のBさんや札幌のFさんのように、末期ガンでさえ消えてしまう「秘策」があるということだ。いやこれは「秘策」などと呼ぶべきではなく、本来はこれこそが医療と健康の王道だった。しかし残念なことながら、躍進目覚ましい現代医学によってすっかり蹴散らされてしまい、「もうひとつの風景」は単なるおぼろな幻影としてしか見られていない。BさんやFさんなどの事例は、「偶然、幸運、たぐいまれ、特殊例」などといった言葉で軽くあしらわれ、ときには「オカルト、とんでもない錯覚、勘違い、悪鬼の仕業」などと逆にののしられてしまうのである。
しかしここにきて、免疫力や自然治癒力、ホリスティック医学等々の言葉が社会に広がるようになった。鍼灸や指圧、整体、ヨガ、呼吸法、ハーブ(生薬)療法、アロマテラピー、食事療法、アーユルヴェーダ等々の古来からの中国医学、インド医学などが見直されてきたのも新しい動きであるし、さらにはイメージ療法、ホメオパシー、ヒプノ(催眠)療法、ハイドロセラピー(水療法)、ナチュロパシー、霊的治癒等々の、ともすればちょっと怪し気にも見える波動系、潜在意識系の治癒も盛んになってきた。そしてこれらのすべてが「もうひとつの風景」の中に芽生え出している。
ただ残念ながら、そこには現代医学が描き出すような鮮明で明快でリアルなものが欠け、どこかおぼろでパワフルさに乏しいようにも見えている。しかも中にはいかがわしいものも混じっているから、「もうひとつの風景」はなかなか市民権を得ることができない。
これではガン呪縛はどこまでも続いていくであろう。「ガン呪縛を解く」ためには、現代医学をただ批判するだけではいけない。批判をするのではなく、なぜガンが発生し、どうしたらガンが自然に消えていくようにすることができるのか、その科学的、医学的、生物学的な根拠を明解に示していかなければならない。それなしに、いくら「もうひとつの風景」をたくさん見せたところで、命をかけてまでその風景の中に飛び込むような危険なことをする者はいないだろう。たまたまBさんやFさんは、開き直ることによって現代医学とは別の方法でガンの劇的な治癒が現実のものとなった。しかしよく見ると、その足元には明解な医学的・生命科学的な根拠がまぎれもなくあった。詳しいことは改めて説明したいが、彼らはガンを非常に真っ当な方法で治癒してしまったのである。
もうかなり昔の話だが、ラジオ番組で「末期ガンから生還した医師」が自らの体験を語っていた。そのポイントだけを紹介すれば、末期ガンが判明したときに、彼はそれまでの人生を振り返り、さまざまな出会いや出来事を思いだしては感謝して、涙がとめどなく流れたという。そしてすっかり自分が空っぽになったあとで、検査をしてみたらガンが消えてしまっていた。このような話はそれこそどこかオカルトじみ、医師が語るというのが不思議なくらいの内容だが、そこにもれっきとした科学的な根拠がある。ただ「科学的」とは言っても、現代医学が根拠とするニュートン力学的、古典物理学的な科学ではなく、量子論的、複雑系的な最先端を走る科学ではあるが…。
ということで、本書は「光の風景」「闇の風景」という「ふたつの風景」の中から、「光の風景」について論じてみようというものである。いや、単に論じるだけではなく、ガン宣告を受けたぼくはその風景の中に飛び込んだ。というのも、「闇の風景」の中ではガンを恐れ敵視して、やがてはその強力な武器で自らを殺してしまうことにもなる。不安や恐れ、疑い、闘いの姿勢では、まさに死ぬか生きるかの日々になる。それよりは、ぼくは「光の風景」のほうが好もしく思えた。だからぼくは、5月末から「光の風景」の中に溶け込もうとしたのである。
第2章「呪縛の仕掛けと空気」
●ガン治療の拒絶は確信犯的な選択
生検の結果「IIIb期のガン」と宣告されたぼくは、迷わず「光の風景」に飛び込もうと決心した。決心などというと、いろいろ考えあぐね、悩み抜いた果てに、勇気を奮い起こして決断したようなイメージが浮かんでしまいそうだが、ぼくの場合は決してそういうものではなかった。文字どおりほとんど迷わず、ごく自然にその方向へと進んでいったのである。
そこにははっきりその根拠があった。ひとつは、実際に周りで展開したいくつもの「ガンとの闘い」を見てきたことで、ガンと闘った人たちの末路はあまりにも哀れであり悲惨だったからだ。その多くがすでに亡くなってしまったが、それはガンとの闘いというよりは、ガン治療との闘いの果ての戦死と言うにふさわしかった。
またぼくの体そのものが、メスで切り裂かれたり、抗ガン剤という猛毒を受け入れたりすることを潔しとせず、「そんなことしないでよ!」と主張しているように感じられたことも、ガン治療を拒否したもうひとつの理由である。
体というのは正直なもので、必要な処置ははっきりと自らが主張する。これがもし大腸ガンで、ひどい便秘の苦しみにのたうち回っていたのだとしたら、ぼくはそこに素直に「体からのメッセージ」を受け取り、それなりの処置を病院にお願いしていたかもしれない。
しかしぼくの場合はそういった苦しみや不具合が全くなく、熱いシャワーを浴びたときに痛痒さを感じるくらいのものだった。「痛痒さ」という症状は、ぼくには「切除して!」という切実な叫びには聞こえず、むしろ「ほら、ここに異常が出たよ!」と、健康異常を教えてくれるありがたいメッセージだったのである。
しかし医師は、乳ガンが遠隔転移しやすいことを危惧していたし、しかも最初から遠隔転移を疑っていた。一刻も早く検査するようにと強く勧めたのはそのためだったろう。それは医師としての当然の判断だったとぼくも思う。もし「転移」が見られたとしたら病状はすでに末期にあり、現代医療ではそれこそ希有な「劇的生還」に望みを託す以外にないからだ。
医師のその強い勧告に従って、ぼくも遠隔転移の有無を知るために、検査だけは受けてみようと考えていた。しかしたとえ遠隔転移が認められたとしても、そのまま入院、手術、ガン治療というエスカレーターを進んでいくつもりは全くなかった。その理由は、ガンは部分的な異常ではなく、「ガンは全身病」と考えていたからである。
そして、これが病院治療から離れて「光の風景」に飛び込もうと考えた3つ目の理由だった。ガンが「全身病」であると思ったのは、もちろんぼくのいい加減な素人推理によるものではない。そこにはキチンとしたある確かな医学的根拠があった。そしてそれこそが本書のメインテーマなのであるが、それについては第4章以降で詳述してみたい。
このように、ガン治療に関して周りで起きたことを実際に見てきたこと、自分の体からの直感的なメッセージ、そしてガンに関する医学的根拠…、以上の3つの理由から、ぼくは「光の風景」の方向に進んでいこうと考えたのである。
ここでは「光と闇」などと二つにはっきりと分けてしまっているが、このように二極分解して論じるのは実は決してぼくの好むところではない。ものごとはそう単純ではなく、強引に二極分解などしようものなら、かえって真実が見えなくなってしまうことが多々あるからである。それを承知の上であえて「光の風景」などと称するのは、そこに心を乱す不安や恐れをほとんど感じないからである。その意味で、「闇の世界」のような不安や苦痛、恐れ、闘いを強いられる病院でのガン治療を拒絶したのは、ぼくの確信犯的な選択と言えた。
●「先生にお任せします」とは言いたいが…
さて、5月23日にガン宣告を受けたぼくは、とにかく迷わず自己治癒の道を選んだ。ということは、病院での手術や抗ガン剤治療、放射線治療にノーを突きつけることである。とは言っても、医師から「一刻も早く入院するように」と強く勧められ、「入院できる状態になったらすぐに連絡してほしい」と言われていた以上、それをそのまま無視してしまうのは非礼とも思っていた。医師も看護婦さんたちも心からぼくのガンの状態を心配し、その良心と使命感に従ってぼくを思いやってくれていることが伝わってきていたからである。
しかもぼく自身、「即刻手術すべし」という勧告に対し、そのときはっきりとノーとは言っていなかった。その場の空気と医師たちの善意に配慮して、「いまは忙しいので、仕事に区切りがついたら」とあいまいな返答をしてしまっていたのである。そのように約束してしまったからには約束を破るわけにいかず、いずれはキチンと返答しなければならないと思っていた。それが礼儀であり、人間としての道理でもあるからだ。そこで入院勧告から1ヶ月後の7月4日、医師に電話を入れ、妻といっしょに病院に向かった。面談を希望する理由としては、「病院での治療計画を詳しく聞き、そのうえで具体的に考えたい」ということにした。
7月4日の午後4時、ほぼ一ヶ月ぶりに診察室に入ったぼくは、「あれ以降もずっと仕事に追われていたもので…」と、すっかり連絡が遅れてしまったことを弁解がましくまず詫びた。それに対する医師の反応は、言葉こそ丁寧で紳士的だったものの「仕事と命とどちらが大事なのか」と鋭く問うような響きに満ちていた。確かに、「あなたはガンです。それも3期の…」と宣告され、「早く入院して手術するように」と強く勧められているのに、それを1ヶ月も放っておくのは非常識というものであろう。しかも素直に「入院します」とは言わずに「治療計画を聞きたい」と願い出た。これには医師が頭にカチンときたとしても不思議ではない。
こういうとき、患者としては「医師を怒らせてはいけない」とまず考える。そしてそれには「先生にすべてをお任せします」というのがベストであろう。そう言うことで患者の医師に対する信頼感がはっきりと伝わって、それが伝われば「よし、任しておきな!」と医師も気分が良くなってやる気を出してくれることにもなるからだ。実際、仕事でのぼくのやり方は原則的にこれだった。細かいことをいちいち言われず、ぼくのクリエイティビティを信頼して任してくれる仕事だけを基本的に選んでやってきたのである。
その意味では、これがもしガンでなかったとしたら、最初から「お任せします!」と言っていたかもしれない。しかしそれが今回に限ってはできなかった。そんなことをしたら、それこそ「ガン獄舎で拷問付き終身刑に服する囚人」になってしまうと思ったからだった。
余談だが、「先生」という呼び方は、ふだんのぼくは基本的にしない。しかし医師にその気になってもらうには、やっぱり「先生」と呼んだほうがいいにちがいない。なぜぼくが「先生」と呼んだり呼ばれたりすることを避けるのかといえば、そう呼ぶことで余計な上下関係が生まれてしまいがちだからだ。明確な上下関係や強弱関係からは、ともすれば自由でフラットなコミュニケーションを阻害するおかしな空気が生まれやすい。だからすべてから解放されるには、そんなおかしな空気の支配を受けない自由な立場を確保する必要がある。そこで心から尊敬する人に対しては先生と呼んでも、形式的に先生と呼んだり呼ばれたりすることをできるだけ避けてきたのだった。
●手術するしか助かる道がない?
治療計画を問うたぼくに、担当医はこう答えた。
「1ヶ月前のCT、MRI、エコー、RI(骨シンチ)の検査で遠隔転移は認められなかったものの、いつ転移が起きても不思議ではない状況にある。突然状況が変わって、深刻な事態に進むことも十分にありうるし、その可能性のほうがはるかに高い。だから治療ではまず手術をして乳腺を切除し、かつ周辺のリンパ節を全部摘出することが不可欠で、さらに詳しく調べてみたうえで補助的な治療をすることになるだろう」と。
補助的な治療とは、抗ガン剤投与、ホルモン治療、放射線治療などのことで、抗ガン剤の投与は自宅からの通院で可能であり、2種類の抗ガン剤を3週間で3回、それを8回行うので合計24回(24週)、つまり半年間にわたる抗ガン剤治療が予定されているという。
また放射線治療に関しては、乳ガンは鎖骨リンパ節に再発しやすいため、やはり胸壁に照射したほうがいいという。要するに、これが一般的、標準的なガン治療であり、一言で言えば、「助かる道はこれしかない」ということのようだった。
医師が説明してくれた内容は、あえて聞かずともほぼ予測できていたものだった。が、もうひとつ、手術の内容が気になったので聞いてみたところ、手術によってガン部位の切除はいうまでもなく、リンパ節も周辺のものは全部ばっさりと切除してしまうという。で、その後遺症はと聞くと、生きている限りは一生手を保護することが不可欠で、たとえば日焼けなどにも細心の注意を払わなければならないらしい。手術後に手が腫れることもありうるから、そのときにはマッサージするしかないとのこと。「しかしそんなことよりも何よりも、命と後遺症のいったいどっちが大事なのか」と、医師は説明しながら、その一方でぼくを問いつめるようなニュアンスも滲ませた。
診察室ではすぐ側に一人の看護婦さんが寄り添い、少し離れて立ったまま4名の看護婦さんがぼくを見つめていた。彼女たちもたぶん医師と同じように思っていたのだろう。「仕事とか後遺症とかよりも命のほうが大事なんじゃないの」と…。実際、命は仕事やお金よりも大事である。大事だからこそ病院治療は受けたくない、それがぼくの結論であった。
病院治療は受けないが、そのまま放置しておくというわけでもなかった。体内にガンという生体異常が発生している以上は、これまでの生活を改めてその原因になったものを消し去らなければならない。それにはいくつかの方法があるだろうが、とにかく必要なことは免疫力を高め、できるだけストレスから解放されることだ。とは言っても、そうあわてたり急ぐ必要もないだろう。医師は「このままにしていたら遠隔転移する危険がある」と警告したが、ぼくは「体内環境さえ変えればその心配はまずないだろう」と考えていた。
ぼくがガン宣告を受けたとき、さすがに妻はショックを受けたようだったが、ぼくの考えを基本的には理解してくれていた。しかし「手術してガン治療を受けるしか助かる道はない」という医師の確信に満ちた言葉を受け、かなり動揺を覚えたようだった。特に「いつ転移しても不思議ではない」という言葉には非常に強力な威圧を感じていたらしい。
そこで妻は医師に、
「最近では、免疫力を高める代替医療のことをよく耳にしますが、それについてはどう思われますか」とたずねた。この質問に、医師は鼻で笑いたくなる衝動が抑えられなかったのであろうか、ややムキになった感じで言った。
「それで治った例というのはほんのわずかしかありません。だから奇跡と言われ、社会の話題になったりもするのです。実際にはほとんど効果がないからこそ、その事例が珍しがられるということです。
ガンというのは、そんなに生易しいものではありません。全く何の医学的な根拠もないそんなリスクの高いものに頼るよりは、すぐに手術をすべきだと思いますよ」
そこには「呆れはてた」というニュアンスが滲んでいた。外科医としてはそれも当然のことだろう。すぐ目に見えるところに明らかに皮膚浸潤した大きなガンがあって、それを除去しさえすればとりあえずの危険が回避でき、再発や転移を防ぐために抗ガン剤治療を受ければ生存が望めるというのに、この場に及んでまだわけの分からない民間療法に触手を動かしている。専門家の目から見れば、ぼくらの質問が愚かに思えたとしても不思議ではない。
医師は妻の質問を頭からバカにしたわけではなく、それなりの誠意をもってかなり言葉多く「民間療法の危険性」を説明してくれたが、それを一言で言えば、「民間療法に頼るというのは自殺行為のようなもの」ということに尽きた。そしてその言葉も最初から想定していたものだった。それにしても医師の言葉には強烈な説得力、呪縛力がある。「ガンは恐い」から手術できるものはさっさと切除してしまう。これがガン治療の常識になっているのである。
●「ガンの壁」と「ガン呪縛」
この章のテーマは「ガン呪縛の仕掛けと空気」であるが、その呪縛はいうまでもなく「ガンは恐い」という常識から始まる。恐いものだからできるだけ早く見つけ出し、徹底的にやっつけようとする。ここに壮絶な「ガンとの闘い」が開始され、闘い疲れてついには亡くなってしまうのだ。この場合の死は、ガンとの闘いにおける戦死である。もしもガンと闘わなかったとしたら戦死はない。ガンを患って死ぬことがあったとしても、それは病死ないしは自然死だ。「戦死」と「病死ないしは自然死」とでは、同じ死ではあってもその質が全く違う。
いったいどこがどのように違うのか。これに関して養老孟司との対談集『自分を生ききる』に登場した中川恵一医師は、『週刊ポスト』で次のように述べている。
実はがんは「穏やかな病気」なのです。自然な死といってもいい。「がんで死ぬ」と分かってから、まだ時間がある。その間に人生の総決算なり、幕引きも自分でできる。
それは美しくなくてもいい。例えば好きなことをやる。おいしいワインをがぶ飲みするのでもいい、何でもいいのです。それをできる時間があるのに、その時間を苦痛だらけにしてしまうのは不幸です。
にもかかわらずガンと宣告されるやいなや、多くの場合すぐ手術、抗ガン剤治療、放射線治療というお決まりのコースをまっしぐらに進んで行く。そのさまは、あたかも「そこにしかもはや助かる道が残されていない」かのようだ。多くのガン患者をそう思わせてしまうくらいに、ガン呪縛は骨の髄まで染み込んでしまっているのである。
これに対して「バカの壁」で知られる養老孟司さんは、『週刊ポスト』(05・8・12号)で非常に面白い発言をした。「諸行無常を忘れた日本人のガンの壁」というのがそのタイトルで、養老さんが言う「ガンの壁」とはまさに「ガン呪縛」そのものである。すなわち、いざガンと診断されるや多くの患者はたちまち金縛りに遭い、一挙に思考停止に陥ってひたすらガン治療にひた走っていく。そのさまをして養老さんは「ガンの壁」と称しているのである。
そして養老さんはその「ガンの壁」のおかしさを、次のように言う。
まず医者のほうで必ず「治さなきゃいけない」と思い込んでいることが間違い。すぐに手術をして、がんを完全に摘出しなければ気が済まない。でも僕は「医療=治療」とは思っていない。医療は「手入れ」なんですよ。
手入れとは毎日、毎日、患者の全貌が見えるわけではないけど、なんとか思うようにしようと努力すること。がんのような老化で起こる「自然現象」に対して医者ができることは、それしかない。それなのに医者が「潔癖性」だから、どうしても切らなきゃならないと思い込んでしまう。同じ意識は患者の側にもある。潔癖性の医者と患者が集まると、すぐに「手術しましょう」ということになる。でも、治らないのなら緩和ケアで痛みを和らげるとか、何もしないという選択肢だってある。
要するに、ガンに対する選択肢はいくらでもあるのに、日本人の潔癖性が「バカの壁」を作り出し、たちまち「ガン呪縛」に陥ってしまうというのである。「恐いガン」に呪縛されてしまったら、ほとんどの人々がまず間違いなく手術、ガン治療へと突っ走る。それしか選択肢が見えなくなってしまうからだ。そして「ガンとの闘い」で戦死したり、戦死とまではいかなくても「再発」や「転移」の不安におののいて、多くの戦士たちがその後の人生を痛々しいものにしてしまう。ガンはそれくらい強力な呪縛力を持っているのである。
潔癖性の日本人はとかく「ガンとの闘い」に直進してしまいがちだが、「選択肢はいろいろある」と言う養老孟司さんは、50代のころ検査を受けて「肺に影がある」と言われたとき、「がんでもまァいいや」と思って、それで済ませたという。そして言う。
結局、日本ではがんは暗い話になりすぎてるんですよ。だから皆、触れるのを嫌ってしまう。そういうタブーみたいなのは作らないほうがいい。どんな病気だって死ぬ可能性はあるし、生まれた以上、誰だって死ぬんだから。がんを告知されても、「えー、がん? あっ、そう」で済ませればいいんですよ。
養老さんのこの姿勢には、ガン呪縛は見られない。ガンであろうがなかろうが、どんな人間も必ずいつかは一人残らず死ぬ。人間の死亡率はずばり100%。そのように腹をくくってしまえば、ガンもその強烈な呪縛力を発揮しえないのだ。
末期ガンを宣告されたFさんの場合もそうだった。
「いま生きている人も、100年後にはほとんどの人が死んでしまっている」
と思ったとき、なんとなく気が楽になったという。養老さんが指摘するのはまさにこのことで、「生まれたときから死ぬことは決まっている」のである。なのに、いざガン宣告を受けると、なぜか「ガンでだけは死にたくない」と思ってしまう。しかし中川恵一医師が言うように、ガンは本来が「穏やかな病気」であることから、死ぬまでにはそれなりの時間がある。だから残された人生を楽しんだり、人生の意味を反芻することも可能になるのだ。
がんのことをよく知っている医者は、脳卒中や心筋梗塞なんかより「がんで死にたい」と思う。それは死ぬ準備ができるからです。もちろんいつか死ぬことは生まれた時からわかっているんだけど、それがすごく具体的になる。
戦争中は若い人も「いずれ死ぬ」と当たり前の感覚でいたけれど、それが戦後60年の間に大きく変わった。死から逃れることが医療の役割のようになってきて、今度は「死なないのが当然」みたいな時代になった。でも、がんの場合は、必然的に自分が死ぬことを考えなければならなくなる。でも生まれたときから死ぬことは決まってるんだから、そんなこと考えたって本当は何も変わらない。(養老孟司)
この養老節は、あくまでも「ガンで死ぬ」ことに関するコメントであるが、もしもガンが治癒できたとしたら、その意味がさらに鮮烈に光ってくる。つまり、死がいつか間違いなくやってくることは、ガンになるならないに限らず当たり前のことで、ましてガンが治癒できるものだと分かったら、ガン宣告を受けても「あっ、そう」で済ませばいいわけだ。
しかしここまで言い切ってしまうと、ガン呪縛社会からは大きく乖離してしまうだろう。なぜなら養老さんもまた「ガンは恐い」ことを前提として死を語っているのであって、「ガンは恐くない」という考え方は、いまの社会では、たわごと、非常識にすぎないからだ。
たしかに、毎年30万人以上もの人々がガンで亡くなっている現実を見れば、ガンの恐さはすでに証明済みと言えるかもしれない。またガンの痛みや苦しみも多くの人々が身近で見聞きしているところであろう。しかしくどいようだが、それはガンそのものの苦しみというよりは、そのほとんどがガン治療によるものなのだ。乳ガンで5年間もガンと闘い続けてきたNさんの例を見るまでもなく、「手術を受けるまでは何ともなかった」のに、手術を受けガン治療を受けるに及び、「夜中に目覚めるほど動悸と胸の圧迫感が息苦しく、そのまま緊急入院」するほどの状態に陥ってしまった。これはまぎれもなくガン治療による苦しさである。
病気に対する恐れは人類が古来から抱いてきた感情で、「呪縛」はある意味で運命づけられているものかもしれない。14~15世紀初頭のヨーロッパでは黒死病(ペスト)により全ヨーロッパ人口の4分の1が亡くなったと言われているし(日本にも1899年に侵入して大小の流行を起こした)、また幕末(1858年)の江戸ではコレラが大流行して、江戸人口の約3%に当たる2万8千人が死亡したと言う。その後も肺結核やハンセン病(ライ病)が「悪魔の病気」のごとく思われ、その中で患者に対する不当な差別が湧き起こった。病気に対する不安と恐怖のその感情は今日でもエイズ(HIV)、狂牛病、SARS等々に向けられている。その意味で人類史は、まさしく奇病・難病・疫病との闘いだったとも言える。
こうした疫病に対して画期的な成果を上げたのが現代医学(アロパシー)であった。だからこそガン治療に関しても現代医学への信仰と期待が高まっているのだろうが、だがガンは疫病とは明らかに違う。その証拠に、これだけ莫大なお金、人材、エネルギー、時間をかけながら「ガン撲滅」も「勝利宣言」もいまだにできず、逆にガン死亡者は年々増え続けて、いまや死因の3分の1の年間30万人以上もの人々が「ガン死」しているのだ。
その比率、その人数からすれば、これはかつてヨーロッパで猛威を震ったペスト以上に深刻な社会問題である。ペストの場合は発病から死までの時間が非常に短かったが、ガンはそれが多少長いだけだ。こうしてガンには「悪魔のごとき病気」というレッテルが貼られることになった。ここにまず呪縛の出発点があり、さらにそのうえにさまざまな大量の情報が折り重なり、「呪縛の構造」がすっかりできあがってしまったのである。
●「早く入院して手術を!」の大合唱
その「呪縛の構造」を解き明かすために、ぼく自身の事例で考えてみよう。
何を隠そう、ぼくもかつては、実はガン呪縛にかかっていた。30年前の児玉隆也の『がん病棟の九十九日』もその引き金になっていたし、その後も親しい人たちを次々とガンで亡くしていたからである。特に後輩のHさんが悪性リンパ腫(細網肉腫)と診断され、あっという間に亡くなってしまったのは非常にショックだった。1979年9月から化学療法と放射線療法が開始されたものの、Hさんは一年足らずで他界してしまったのである。そのときの彼女はまだ29歳、結婚してまだまもないころの非業の死であった。
ほぼ時を同じくして、尊敬していた大先輩もまたガンの犠牲になった。彼の場合はその最期があまりにも悲惨であり、見舞いに行くたびにぼくの手を強く握りしめながら「無念だ!」と言っては男泣きに泣いた。そのときの彼はまだ40代に入ったばかり、ガンが経済的にも困窮をもたらしたため、遺される家族のことがもう一つの痛みになっていたのである。
その他にも親戚や友人たちもガンに冒され、ガン治療で苦しんだ果てにことごとく亡くなっていった。こうした体験が繰り返し刻まれると、ガンは本当に恐いものだとつくづく思う。実はそれ以前から「ガンの真相」を解き明かした千島学説を知っていたのだったが、そのころのぼくは「理論や理屈」よりも「悲しい現実」に圧倒されていたのである。
いま思えば、ガンの苦しさとその無念の死が、実はハードなガン治療によるものだったことに気づいたりもする。しかしその当時はガンの恐さのみが浮き立って見えていた。実際、ガンに関する情報のことごとくが「闘いの記録」であり、出版物においてもその傾向が圧倒的に強かった。こうして「恐いガン」「ガンとの闘い」「ガン戦死」等々の情報の雨が絶えずあくことなく降り注ぐと、それはやがて激流となり大河となる。そしてあらゆる事象を飲み込んで「ガンは悪魔」という一方向に奔流し続けていくのである。
「ガン悪魔説」の情報の雨は止むときもあるが、そこに自分の周辺で起きる「悲惨なガン」の実感的な体験が加わると、大河が今度は氷河のような固定的なものに変質してしまう。すなわち「悪魔のようなガン」というイメージが単なる知識や情報に留まらず、固くて厚く、強烈で巨大な信念と化してしまうのだ。こうなると、その絶大なパワーの前にはどんなものもたちまち圧倒され、ガンに対する感情的な恐れがますますガンを悪魔視していくようになる。こうなってしまっては、もはやこれに異論を唱えるのは不可能だ。
その結果、実際には乱暴なガン治療で殺されても、「ガンだったんだから仕方ない」と諦めてしまう風土がすっかり醸成されてしまった。要するに、骨の髄までガン呪縛が染み通っている。だからこそ「ガン宣告」が死刑宣告にも近いショックになってしまうのだ。
ぼくが病院の診察室でガン宣告を受けたとき、看護婦さんたちが優しくぼくに気遣いながらも厳粛な面持ちでじっと見つめていた光景は、そこにまぎれもなく「ガン呪縛」があったからだろうし、また医師が熱心に入院と手術、ガン治療を勧めてくれたのも、医師自体がガン呪縛にかかっているからであろう。そして医師が医師としての信念と良心と使命感とに基づいて「即刻入院して手術すべし」とはっきり言葉にするとき、患者にはその言葉が呪いのごとく絶対化される。そこには「それ以外に助かる道がない」というメッセージが強烈に刻印されているからである。
ぼくが初めて外科を訪ねたそのときに、待合室のベンチには一人の婦人がすっかり沈み切った面持ちで座っていた。そこに看護婦さんが駆けつけて、しゃがんでヒソヒソと話をしてあげていたが、あれもたぶんその婦人が「ガン宣告」を受けた直後の光景だったのだと思う。そしてその婦人の家族らしいもう一人の女性もまた、慰める言葉も見つからないくらいに沈み込んでいた。ガンはそれくらい人の心を暗くし、絶望に追い込んでしまうのである。
このことはすっかり「社会の空気」ともなっており、ガンと聞くとみな一様にまず驚き、「すぐに治療を!」と条件反射的な反応を見せる。ぼくの周辺もそれは同じで、みんながみんな一刻も早い入院と手術を勧めた。以下はぼくが「ガン宣告された」と伝えた友人からのメールであるが、ある程度理解があったその彼でさえ病院治療にこだわっていた。
●ありゃあ、大丈夫なんですか?
稲田さんは、医療関係にもお詳しいのですから、すぐ病院へ行って下さい。
ご家族もご心配されていると思います。
稲田さんおひとりの身体ではないんですからね。病気には戦っていきましょうよ。
義母からはさらに色濃い心配の反応が返ってきた。それもそのはず、義父は肺ガンで亡くなっていたし、親戚にもたくさんのガンの犠牲者がいたからである。しかもちょうどそのころは義母の義姉が乳ガン手術をしたばかりで、その印象がまだ鮮烈だったためか「すぐ入院して早く手術を!」と繰り返し熱心に勧めた。妻はそんな義母とぼくとの狭間にあって、かなり混乱し苦悶したようだ。ぼくの生き方、考え方に一応の理解は示しながらも、医師や義母を含めた周辺すべてから押し寄せてくる「早く手術を!」の大合唱を、一人で真っ正面から受け止めていたからである。
多感な時期の二人の娘たちも、ぼくがガンと知ってからはなんとなく言動に変化が現れた。妻には「入院しなくて大丈夫なの?」と何度も語りかけるようになったらしい。それらはすべてぼくのことを心配してくれる思いからのものだけに、家族や周辺からのその風圧を押しのけて進んでいくことは大変なことだった。もし妻もみんなと同じように「手術路線」に加担したとしたら、ぼくは完全な孤立無援状態に置かれたことだろう。しかし幸いにも、妻はぼくが意図していたものをそれとなく分かってくれていた。そんな確かな足場があったからこそ、ぼくも病院でのガン治療の勧めを蹴飛ばすことができたのである。
●人体に埋め込まれた治癒のプログラム
家族が病気になったとき、「早く病院へ!」と言うのが当然だろう。それが家族の愛情の証であり、健康回復への確かな一歩にもなりうるからだ。しかしぼくには、そのことへの抵抗感がかなり以前からあった。病院治療に対する疑問と不信感めいたものが、早くも高校時代から芽生えていたからである。余談になるが、そのことについて少し触れてみたい。
ぼくが高校2年の秋、二歳歳下の妹に対して「余命半年」という診断が下った。病気は腎臓病。中学三年の夏休みに、音楽部のサイクリング合宿で遠出をしたその直後、ひどく疲れて倒れ込み、緊急入院した妹だった。そして医師の予告通り、妹は中学卒業間近の3月10日に息を引き取った。それはぼくが初めて体験した身近な死だっただけに、その余命宣告から死までの半年間、そしてその後のぼくの生き方に、妹の死はとてつもない影響を与えることになった。
高校時代といえば、たぶん人生で最も多感な季節と言えるだろう。そんな人生の季節のある日、ぼくは兄から「妹の余命」のことを聞かされた。そのときのことはいまも鮮烈に記憶に刻まれている。色鮮やかな秋の風景が、「余命半年」という言葉を耳にしたとたん、一気にすべて色あせてしまったのだ。
それ以来、生命とは? 死とは? 人生とは? と考え続ける日々が続いた。高校二年の秋といえば大学受験ももう間近である。しかし妹の死を宣告されたぼくにとって、生命と死以外のことなど、もうどうでもいいもののように思えていた。
病院の治療に苦しむ妹が、カソリックのシスターたちと出会ったことで洗礼を受け、マリアという洗礼名を得たこともあって、やがてぼくも密かに聖書を読むようになった。このとき初めて「神様」という言葉に切実な思いを寄せたものだったが、しかし「神様」は妹を救ってはくれなかった。聖書から始まったぼくの読書遍歴はその後、ニーチェ、キェルケゴール、ヘーゲル、西田哲学、老子、さらには日本の古典へと、脈絡もなくはてしなくさまよっていった。その途上、ふと「医学」にも心奪われ、「医師になりたい」と思うこともあったが、しかし妹を診る大学医学部の医師たちの言動は、ぼくの医学や医師への疑念を強めるだけだった。医師たちにとっての妹は単なる研究実験対象でしかなく、夢や感情を持つ生きた人間としての配慮がほとんど感じられなかったからである。
それまでのぼくはどちらかと言えば理科系志望で、もし妹の余命宣告がなかったとしたら、進路には間違いなく科学分野の何かを選んでいたと思う。しかし妹はその病気と死によって、ぼくを哲学への道に誘い込んでくれたのである。病気や死に対して、医学的にではなく哲学的にアプローチするようになったのは、ぼくにとって幸いだったように思う。というのも、医学専門家ではなかなか見えないものが、死や生命を哲学することで見え出してくることもあるからである。たとえば、妹に触発されて聖書を読み始めたとき、旧約聖書の創世記でまず目に止まったのが、アダムとイヴに対する神からの次のメッセージだった。
「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(第1章28節)
このくだりは、英語版の聖書によれば「生めよ」の部分が「Be fruitful」となっている。そして「fruitful」といえば「実り多い」という意味だ。ということは、人間(アダム&イヴ)には最初から「実り多い」方向へと向かう生命のプログラムが埋め込まれていて、人は誰もが自動的に健やかな果実を結実するように生まれついているのではないか。それがそもそも人間の本来の姿なのだと、その旧約聖書の言葉がメッセージしてくれているように思えた。
「ビー・フルートフル! 」(すくすく成長し、豊かな結実をもたらせ!)…。
このメッセージが神(宇宙・自然)からプログラムされているからこそ、人は生まれ、健やかに育ち、そして実り豊かな結実を求めて生きたいと思うのだろう。その途上何かの事情でトラブルが生じたとしても、この生命のプログラムが自動的に自己修正、自己調整を施し、人はあくまでも豊かな結実に向かって進んで行く。ちなみに病気になっても体内には自動的に自己治癒力が働き、それが自然に治癒をもたらしてくれるのだ。
人間はいうまでもなく、すべての生命に仕込まれたこの「Be fruitful !」のメッセージこそが、まさに成長と生命進化のパワーの源泉であり、かつ人生を貫くダイナミズムであるにちがいない。ぼくにはそのように思われたのだった。
しかし妹は「余命宣告」どおり亡くなってしまった。その後のぼくはますます書を読みふけり、山や自然の中を一人歩き回り、大学に進んでからも点々とあちこちの大学での聴講(盗講?)を繰り返したが、その途上「自然食」「自然農法」「千島学説」などにも出会った。
そんな遍歴の中で思ったのは、宇宙も自然も生命も、いくら分析してみても理解できないということだった。この宇宙に存在するものは、エネルギー、物質、情報まで含めて、ミクロからマクロの世界まですべてが精妙・巧妙につながっている。そしてすべてが絶えず変化、流転、進化しながらも、そのベクトルは「Be fruitful」に向かっていると直感した。
漠然としたその直感は、その後、量子論やフラクタル理論、複雑系の科学、遺伝子の科学、糖鎖の科学等々を学ぶことによって徐々にぼくの頭の中に具体的なイメージを生み出していった。環境問題ひとつを考えても、つながりを無視しては解決の出口がない。すべてのものが絶妙につながり合い、相互に微妙に影響を与えあっている。しかもそこには神秘なくらいに絶妙なバランスがある。なのに現代医学は、自然や生命システムが本来的に内包するバランス機能を無視して損傷を負わせ、一方的に乱暴な治療行為を施していく。それもすべて「ガンは悪魔」という思い込みと、勝手な決めつけに呪縛されているからである。
「呪縛」は「空気」によってもたらされる
この問題は改めて別章で書くこととして、さて本章の「呪縛」のテーマに戻ろう。
「呪縛」の「呪」には「いのる・のろう」という意味があり、それは心や意識、思い、信念、感情などの精神的エネルギーを指している。そして「縛」には文字どおり「しばる」という意味があり、早い話、「捕らえて縛って動けないようにつなぎ止める」ということだ。
ということから「呪縛」は、心理的に縛りつけられてしまうことを意味するが、ここで重要なのは「心理的に」ということである。つまり、実際に自分を縛りつける縄や鎖があるわけでもないのに、社会の空気(常識)や専門家の忠告や信念、また家族や友人たちなど周りの人々からの心配の感情に縛られてしまい、すっかり身動きがとれなくなってしまうのだ。
いや、それ以前に、社会の空気による「自縛」もある。外の誰かから言われるまでもなく、さっさと自分で自分を縛ってしまうのだ。こうした「自縛」や「呪縛」はいったい何に起因するものだろうか。この問題を掘り下げるとしたら一冊の書物が必要になりそうだが、ここでは簡潔に「空気」と言っておきたい。しかり、呪縛は空気によってもたらされる。
ここで言う「空気」とは我々が呼吸している物質的な空気(エアー)ではなく、「呪」すなわち、心や意識、思い、信念、感情などといった精神的・心理的なエネルギーのことである。さらに突っ込んで言えば、旧約聖書などの古代文献の至るところで語られているルーア(ヘブライ語)、プネウマ(ギリシア語)、アニマ(ラテン語)ということになるだろうか。
アニミズム(物神論・物活論・汎霊説)はこのアニマから出た言葉であり、19世紀後半にイギリスの人類学者、E・B・タイラー卿が定着させたものであるが、これはすべてのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方だ。日本でもこうした霊的な感覚は古代から息づいており、言葉の持つパワーを「言霊」と呼んでいる。呪縛を呼ぶ空気には、そういったスピリチュアルなパワーが潜んでいるのである。
ここまで話を突っ込んでしまうと、たぶんおどろおどろしいものを感じてしまうだろう。しかし「空気」には、まぎれもなく人々を呪縛する力がある。ある空気が社会を支配するとき、その中で人々は金縛りに遭ってしまうのだ。「空気」が非常にやっかいにして危険なものである点は、いざ空気支配が起こってしまうと、事実が吹っ飛ばされて排除されてしまうことだ。いやそれ以前に、ある種の空気に支配された社会や組織では、事実を事実として言葉にすることすらできなくなってしまう(自縛・自粛)。
身近な例を考えてみよう。企業で役員会議が行われたとする。そのときに自由な意見を出し合う前に、トップが「この企画をやろう」と最初から結論めいた発言をしたとしたら、それがその場に特殊な空気を生み出して、トップに逆らうような発言がしにくくなる。企画を「進めること」が会議の空気を支配してしまい、たとえそれが危険な賭けであることを示す事実が多々あったとしても、空気呪縛が自縛を誘って、発言の自粛が起きてしまうのだ。
最近のテレビ宣伝で、オペラを観て「どんでん返し」を言葉にした社員が、上司の「どんでんは返さないでしょう」という反論にたちまち言葉を失い、苦笑して同調するシーンがあるが、そこにも小さな空気支配がある。「どんでん返し」のシーン(事実)はあっても、上司の一言から生まれるその場の空気がその指摘を押し潰してしまうのである。
空気呪縛による心理的支配は、このような小さなシーンから大きな社会的問題に至るまでのすべてのレベル(位相)に存在している。ちなみに戦前の狂信的な開戦気運も、あの当時の空気支配がもたらしたものだったし、バブルもまた空気のなせる業だった。マスコミを通じて拡大されたバブルの空気の中で愚かな投資や買い物をした人は、「あの当時の空気ではそう考えて当然だった」と思うことだろう。つまりは、事実を見つめて自分の頭で判断することなく、空気に縛られ、空気に支配されて行動したということである。
このように空気は絶大な力を有し、人々の心理や思考を左右する。そしてその中でほとんどの人々が、身動きのとれない金縛り状態に陥ってしまうのだ。
このような空気支配から逃れる道はないものだろうか。これに対して『空気の研究』の著者山本七平は、「水を差す」ことこそがそれであると言う。
例えば、青年たちが集まって共同事業の夢を熱く語り合う。若いがゆえに夢がどんどんふくらんで、みんながみんなバラ色の未来を語り出すと、希望の空気がいよいよ強く大きく広がっていく。そんななか、誰かが小さな声でポツリとつぶやく。
「だけど、先立つものがないよなぁ」と。
すると、とたんにその場を支配していた空気が崩壊・消滅してしまうのだ。
この場合の「先立つものがない」という事実のつぶやきこそ「水を差す」行為であり、事実が示されると空気はしぼむ。つまり「事実を示す」ことによってのみ、異常にふくらんだ空気に水を差すことができるのだ。だから危険な空気支配から逃れるためには、事実を事実として示し続けていくことが何よりも必要なのである。
だが、いざ空気が社会全体を強烈に支配してしまうと、「水を差す」ことすら困難になる。実際、戦前の日本には、「戦争するために先立つ金も石油もない」という事実があったものの、そのことを勇気を持って敢然と指摘する者は少なかった。ジャーナリズムこそ事実を事実として伝えるべきだったのに、当時の新聞や雑誌などのマスメディアは、逆に国民を煽って開戦の空気を強化する方向に突っ走っていった。こうして空気支配に「水を差す」者がいなくなると、空気は破裂の極限までどんどんふくらんでいく。破裂とは、「敗戦」そして「バブル崩壊」などのことである。
「呪縛」の問題を考えるとき、この恐ろしい「空気」の存在を考えずにはいられない。空気の支配が呪縛現象を引き起こすからである。そして「ガン呪縛」もまた同じように、「ガンは悪魔」という強烈な空気支配の中で起きている。これを解くには具体的な事実を示すことによって「水を差す」しかない。地道に淡々と事実を事実として一つずつ提示していく以外に方法がないのである。しかしこの試みは、正直、絶望的ないとなみのようにも思える。なぜなら、日本の医学学会もマスメディアも、ますます「ガンは悪魔である」と「ガン呪縛」を強化しているように思えるからである。
●「千島学説」とチョムスキー
そんななか、幸いなことに妻だけはぼくの考えに理解を示してくれた。とはいっても、医師や周辺から届く「早く入院して手術を!」という声に圧倒され、「病院にいかないで本当に大丈夫なんだろうか」と時々は不安な思いや迷いも生じたらしい。なにしろ世の中は圧倒的な「ガン呪縛の空気」で支配されているのだから、それも当然のことだったろうと思う。
妻がなぜぼくの考えに理解を示してくれたのか、そこにはそれなりの背景があった。
結婚前のことであるが、義父、すなわち妻の父が肺ガンで「余命1ヶ月」と宣告されたとき、ぼくはそれに対して小さなアドバイスをした。義父は病院に収容されてすでにガン治療を受けていたから、せめて延命をと願って、千島学説に基づく食事療法を勧めたのである。
しかし普通なら、それを受け入れるのはかなり難しいことだろうと思う。「余命1ヶ月」の末期ガンが、たかが食べ物程度のことで好転するなど、とうてい考えられないからである。それにいざ病院に囚われてしまうと、医師がそんなバカげたことを許してくれるはずもない。しかし義父が入院した公立病院には義父のいとこが副院長として勤務していて、しかも義父の担当医でもあったために、病院内での勝手なわがままを許してくれたのである。
そんなわけで、義父は病院でガン治療を受けながらも、玄米食や酵素類の摂取、また義兄から送ってもらった丸山ワクチンなどさまざまなことを試みることができた。で、その結果は、余命1ヶ月と宣告されたのに、その後2年半以上延命することができた。義父のいとこである担当医は、強烈な抗ガン剤を使っているのに義父が副作用に負けないで生き続けていることを、ややいぶかりながらも喜んだ。たぶんそれを抗ガン剤の効果と思っていたのだろう。「余命1ヶ月」の宣告は、実はガン治療で体が弱り切ったのを見て宣言したものだったのに、ところが食事療法を始めたとたんに元気を取り戻していったのである。
それはともかく、なぜ妻は「千島学説」を意外とすんなりと理解することができたのだろうか。その理由をあとで聞いてみたところ、青学の英文科時代に英文法学者ノーム・チョムスキーの「変形生成文法」に出会い、その「有機的・生命発生的文法理論」にすっかり感動を覚えて夢中になって学んだことが、「千島学説」の理解を助けたという。
ぼく自身は「変形生成文法」の内容をよくは知らないが、妻の説明によれば、言葉が音声として現れ出るのはその深層に根源的な言語能力があるからであって、そこから表に無限に言葉が現れ出てくる。つまり、意味そのものは深層構造にあり、それが変形規則(受身化規則など)を経て、実際の言葉(文)として表層構造が現れ出るという画期的な文法モデルをチョムスキーは明らかにしたのである。いわば哲学の言う「現象の中に本質が潜み、本質は現象する」、また般若心経の言う「色即是空、空即是色」ということだろう。
この場合、それでは変形規則としてどんなものがあるのかということが議論の中心となるために、チョムスキーの理論は「変形文法」と呼ばれ、またこれは無限の文を生成するための理論という意味で「生成文法」と呼ばれているらしい。
ここで重要なことは、彼が表層的な言葉の構造だけを分析したのではなく、それを現象化させるに至ったその深層構造に触れたことだ。つまり「意味と構造の関係」に目を向けた。言葉というのは表層的な単語の単なる総合ではなく、すべてが深層レベルで絶妙につながりあっていて、だからこそ生命のあるひとつの文として意味と構造が一体になっている。要するにチョムスキーは、言葉を単なる機械論的、構造主義的なものとしてではなく、深層レベルからの発生と有機的つながりとしての文の構造を明らかにしたのである。
●生命は複雑で高度な有機的なシステム
ややこしい話になってしまったが、確かに千島喜久男医学博士の「千島学説」とチョムスキーの「変形生成文法」は、ものごとの捉え方、発想の仕方が非常によく似ていると言えるだろう。それはものごとを単純に機械的に分解して表層的な構造を見るのではなく、人体や言葉などを有機的な生命システムとしてトータルに理解しようとする。人体も言葉もたくさんの部品の単なる総合といったものではなく、高度に絶妙に統合された生命のシステムとして見てこそ初めて理解できるものだからである。
しかし現代医学は、複雑な人体を構造的にそれぞれの器官や機能に分解し、それらの単品の異常を病気として考えてその部分を治療しようとする。これに対して「千島学説」は緻密な実験と観察に基づいた「生命弁証法」の立場から人体の生命システムを統合的に考察し、現代医学の根本を引っくり返す全く画期的な学説を発表した。これについては第4章以降で紹介したいが、そこには生命の神秘と驚異を解くカギが見事に提示されている。そしてそれこそが「ガン呪縛」の社会的空気に「水を差す」ことのできる厳然とした事実でありながら、この革命的な医学理論は長い間すっかり封印されてしまったのである。
しかしぼくが妻にこの「千島学説」の話をしたときに、妻は意外とすんなりとその意味するものを理解をしてくれた。その理由は、それがチョムスキーの「変形生成文法」に酷似したものだったからだった。これら両者の内容は、「複雑系の科学」から見ればごく当たり前のものである。それだけに、いまなら多くの人々に理解されるであろう。生命というのは複雑で高度な有機的なシステムであるだけに、単に構造主義的な立場から単純な要素に荒っぽく還元して理解したと考えるのは非常に危険なことである。実際、現代医学のように分解すればするほど迷路にはまってしまい、治療でもたちまち悪循環に陥ってしまうものなのだ。
そろそろこの章を締めくくらなければならない。
すでに述べたことではあるが、ぼく自身がかつては「ガン呪縛」に陥っていた。その理由は、見るもの聞くもののほとんどが、「ガンは悪魔」というものばかりだったからである。その空気が厚く社会全体を黒雲のごとく覆い尽くしていたし、また周辺で見た数々の悲惨な知人たちの「ガン死」もその空気を強化した。こうなると、なかなかガン呪縛からは抜け出せない。しかし幸いなことに「千島学説」に出会い、数多くの「ガンの自然治癒」の事例を知ることができたことが、ぼくをやっかいなガン呪縛から解放してくれたのである。
これはぼく自身のことであるが、妻のように「千島学説」を知らず「ガン治癒」を見たことがないケースではあっても、生命的なシステムや環境・生態系などに関心を抱いている人の場合、意外とガン呪縛から解放されやすいようだ。そこにそれを理解するための自分なりの根拠(事実・体験)があるからだろう。妻の場合はチョムスキーへの共感と「変形生成文法」の理解がその根拠だった。さらに「余命1ヶ月」のはずの父親が、食事療法などで3年近く生き延びたことも「呪縛」から解放される新たな事実として加わったことだろう。
このように、小さな事実を積み重ねていくならば、「ガン呪縛」から解放されるときが必ずやってくる。そのためにはしっかりとした医学的な根拠が不可欠となるが、それには「千島学説」がある。そして「現代医療によらぬガンの完治」の新たな事例の一つに、「ぼく自身の治癒例」も加えることができたらと思う。
とは言いながらも、これは決して「治癒しました!」という立場から書いているものではない。それだけにまだ不確かであり、完治の終着駅がはっきりと見えてきたわけでもない。しかしぼくにはいま、自然治癒への確かな予感と確信がある。だからこそ「早く入院して手術を!」と勧められても、自分の中の「ビー・フルートフル」のメッセージに素直に耳を傾け、「完治」という実を実らせようと思うのだ。そしてそこから頑強な「ガン呪縛」に、たとえ小さなものではあっても風穴を開けたいと思っている。
第3章「されどガンを侮らず」
●たとえ「遠隔転移」があっても大丈夫
5月にガン宣告を受けたぼくは、医師や周囲の人々が勧める手術を拒否し、その後もそのまま仕事を続け、ほぼいつもどおりの生活を送ってきた。ただ数々の検査の結果、もしも遠隔転移が見られたなら、そのときは開き直って仕事に休止符を打ち、「究極の治癒の旅?」に出ようと思っていた。ストレスがガン化の最大原因と考えていただけに、絶えず締め切りに追われる仕事などから一時離れるのがベストと思ったからである。
万が一、脳や骨、肺、肝臓などへの「転移」があったなら、ぼくの体はかなり酷い状態に追い込まれていることになる。そのときは、まずは身体と心に休息を与え、そこから治癒への一歩を踏み出していかなければならない。それには仕事も断念しなければならないだろう。仕事を休んでしまえば経済的にも支障を来すが、それもある時期はやむをえない。
「3b期」のガン宣告に加え、さらに検査で「遠隔転移」が認められ、「末期」と再宣告されたなら、正直これは大変なことである。しかしそれでもぼくには「大丈夫」という確信があった。なぜならガンは外部から侵入した悪魔とは違い、細胞のガン化は、意味あって自らの内側で起こっているものなのだ。だから、その内なる環境を変えることができるなら、たとえ時間はかかっても「ガンの治癒」は起こりうる。大事なことは慌てて手術をしたりガン治療に走るのではなく、自らの内部環境を一変させることだとぼくは考えていた。
問題は、いったいどうしたらそれができるのか、そのことに尽きる。これに関しては追々書いていきたいが、まず必要なことは、自分の置かれている状態をできるだけ正確に知ることだった。果たして「遠隔転移」はあるのかどうか。それしだいでぼくの出方も決まってくる。その意味でも医師が勧めた数々の検査結果が、当初のぼくの最大関心事だった。
その結果は、すでに書いたとおりシロだった。乳首のガンは「3b期」ではあっても、他所への「転移」は見られない。それが分かったとき、正直ホッとすると同時に、心のどこかでちょっとガッカリする気持ちも湧いてきた。というのも、全身転移の末期ガンからの治癒のほうが「劇的」に思えたからである。それに、もしもぼくが絶望的な状態からガン完治を果たしたとしたら、多くの末期ガン患者に大きな希望を与えることができるだろう。そんな思いがチラリと心にうごめいたとき、ほんの一瞬ではあったが、「転移なし」の結論に小さな失望感を抱いたりもした。
●「治療」でなく「治癒」への道
こんなことを書くと、たぶん強がりと受け止められるにちがいない。確かに、何の根拠もなくそう思ったのだとしたら、それは単なる強がりに過ぎず、さらに言えば無知からの脳天気な楽観、つまりバカでしかないだろう。しかしぼくには「千島学説」という確かな医学的根拠があった。これは30年以上も前からぼくが密かに関心を抱いてきた画期的な学説である。そして、いまこそそのことを一冊にまとめてみたいと思っていたその矢先、ぼく自身にガン宣告が下された。それだけに、どうせなら「末期症状」からの「劇的な治癒」を実証してみたいという奇妙な気持ちもあった。だからこそ「転移なし」に対して、小さな失望感がわずかながら顔をのぞかせたりもしたのだった。
それはさておき、「転移なし」の結論を得たぼくは、そこからその後の治癒計画を立てた。といっても「末期」ではないのだから、それほどあわてて一大決心をするまでもないだろう。このぶんなら仕事はこれまでと変わりなく続けることができるし、生活習慣を根本から大きく一新するまでもないだろう。ただ、食べ物だけは気をつけるようにし、かつてのような根を詰めた徹夜仕事はできるだけ避けるようにしようと思った。
この章では、ぼくが始めたガン治癒の概要について触れてみたいが、「治癒計画」を立てたのは、当然のことながらガンをそのまま放置してはいけないと思ったからである。病院での手術やガン治療は避けても、ガンを放置しておいていいわけではない。なぜなら、ガンが明らかに体の異常を知らせてくれているのだから、そのメッセージを軽視したり無視するわけにはいかない。そのまま放置しておいたら、それこそやがて死に至るだろう。「ガンは恐くない」とは言いながらも、その意味は「適切な治癒対策を施すなら」という条件付きのものである。そしてここでのキーワードは「治療」ではなく「治癒」である。
問題は「適切な治癒対策」とはいったい何か、ということだろう。それが分かればガンも恐くはない。それこそ養老孟司さんではないけれど、「がん? あっ、そう」で済ますことができるわけだ。しかし現実は、ガンを宣告されると、どうしてもあわてて病院でのガン治療にのめり込みがちだ。とはいえ最近では、手術の効果への疑問や抗ガン剤の恐ろしさが少しずつ浸透してきたためか、免疫力を低下させるガン治療はできるだけ避けたいと考える人も増えてきたようだ。そこには『患者よがんと闘うな』の著者、近藤誠医師の影響や、「免疫力」を重要視する安保徹医師、また帯津良一医師を初めとするホリスティック医学等々が果たした役割も非常に大きい。いまや日本の医療の現場でも、手術や抗ガン剤投与などへの疑問が徐々に広がり始めてきているのである。
●「がんなんか笑っちゃえ!」
「ガンは恐い」と考えて、ガンそのものよりもっと恐いガン治療に走るのも恐いが、ガン治療が恐いからといって中途半端な治療でお茶を濁すのもまた恐い。要するに、「適切な治癒対策」を施さない限り、やっぱりガンは恐いのである。というわけでこの章は、「されどガンを侮らず」という視点からガン治癒について考えてみることにしたい。
まず紹介したいのは、インターネットで見つけた「がんなんか笑っちゃえ!」という「タッチーさん」のサイトである。この方は2000年の春、不正出血に驚いて病院で検査したところ、子宮頸ガンの宣告を受けた。ステージは1b期の初期ガンだったため、医師からは手術することを勧められた。しかし「手術だけは絶対にいや!」と思ったタッチーさんは、『患者よ、がんと闘うな』の本に共感し、近藤医師の治療を受けるためにあえて病院を変え、放射線治療に取り組んでいく。ガン告知から1ヶ月後の6月初旬のことだった。
タッチーさんは通院治療するつもりだったが、副作用の下痢の恐怖に怯えて6月末に入院し、7月21日には放射線治療がすべて無事に終了した。そして退院してMRI検査を受けたところ、ガンは元の大きさの8分の1にまで縮小していた。放射線治療は一応の成功である。
とはいえ、ガンのすべてが消えたわけではない。実際、その後、
「 外陰部は痛痒くてかなり辛い。汗疹もひどくなっている。治ったはずなのに、組織診のあとの出血が長引き、ナプキンかぶれで尚更ひどくなったようだ」
とタッチーさんは書いている。それでも「放射線治療成功」ということから、タッチーさんは10月に「快気祝い」を持って職場に復帰し、退院から3ヶ月後に再びMRI検査を受ける。すると組織に異形が見られたため、今度は別の医師から手術が勧められた。放射線治療はもうこれ以上できなかったからである。失望したタッチーさんは、HPに書いている。
「ここまで来て今さら手術をしなくちゃならないなんて!
今までの半年は何だったの?ゼロからではなく、マイナスからのスタートだ」…と。
タッチーさんは「快気祝い」を「全快祝い」と信じたかっただけに、そのショックは当然のことながら非常に大きかった。
●「全快宣言」はしたももの…
その後の体調は一進一退を繰り返し、翌2001年2月下旬に病院を訪ねると、 MRIの結果は「ガンが増大している可能性がある」というものだった。放射線治療でいったんは8分の1まで縮小したガンが、再び大きくなってきているらしいというのだ。そして迎えた「ガン告知1周年記念日」に、タッチーさんは 「手術」と「放射線治療」の心の問題を夫とじっくり話し合った。が、懸念していたガンの増大は、幸いなことに単なる杞憂に終わった。
「腫瘍は残存するも、大きさに変化なし。リンパへの転移もみられない」というのである。しかしそれでもガンが完治したわけではない。だが、ガンにすっかり振り回されてきた1年間を振り返り、タッチーさんは次のように「全快宣言」をする。治療終了後の「心のあり方」が何よりも大切と考えたからであった。
ここに、高らかに全快を宣言します。
「わたしのがんは、治りました! みなさん、ありがとう!」
少しだけ、気持ちが楽になりました。少しだけ、世界が色づいて見えてきました。
今まで「がん」に振りまわされていた時間を何にどう使ったらいいのか、
これからじっくり考えることにします。
(がん告知から1年目 2001年5月20日 記)
そう宣言しながらも、タッチーさんはどこか後ろめたいものを感じていた。彼女は比較的楽といわれる放射線治療を選んだからである。そして言う。
「がん」とは苦しみながら闘って勝つものだという非難の声が、
どこからともなく聞こえてくるような気がしました。
もっと辛い治療に耐えなければ、「がん」は決してわたしを許さないだろう。
「がん」を甘く見すぎているんじゃないだろうか。
この治療法で、本当に良かったのだろうか。
取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか。
そう思うと、情けなくて切なくていらだって、
不安な日々を過ごすことになってしまったのです。
●ふと迷いも生じてきたりして
『患者よ、がんと闘うな』の本を読んで共感し、あえて病院を変えて放射線治療に運命を託したタッチーさんは、ここにきて「ガンとは、苦しみながら闘って勝つものではないか」と、ふと迷いが生じるようになったのだった。しかし自らが行ったその選択を、「これで良かったのだ」と一方で確信するようにもなる。というのも、
「後戻りはできないのです。振り返らず、前を向いてしっかり歩いていこうと思います。
再発や転移は怖いけれど、笑っていれば、きっと大丈夫・・・。
これからは、もっと自分に素直に、自然体で生きていきたい!」
「がん」を宣告されても、あした死んでしまうわけではありません。
じっくりと腰を落ち着けて、自分に一番あった納得できる治療法を、自分自身で選びましょう。後悔しながら残りの人生を送ることがないように・・・。
さあ、みんなでがんなんか笑っちゃいましょう。
しかしタッチーさんのこの「笑い」は、やっぱり空元気に過ぎなかったようだ。HPを読み進めていくと、「全快宣言」をしたその日に口からの出血があり、それがだんだんひどくなっていく。そして6月に入るや右鎖骨リンパに腫れを発見、リンパ節が腫れていたのだ。
7月に入ると、今度は胸にしこりを感じた。さらに8月下旬には、
頭が痛い。右耳がスッキリしない。首が太くなってきた。あっちこっちに、しこりができてきたような気がする。胸のしこり、押すと痛い。前より大きくなっている。胸骨のリンパのしこりか、乳がんか。「転移かもしれない」って、忘れていたのに思い出しちゃった。ほんとに、死んじゃうのかなあ。いつなのよ。
どういう風になるんだろう。少しずつ弱るのかな。いきなり倒れるのかな。
どうしたらいいの。何も治療できないの。夫が、可哀想過ぎる。
早く知りたいけど、怖い。 から元気も、ちょっぴり、疲れちゃった。
●密かに死を覚悟して「おれいの章」
その後のタッチーさんは、心のどこかで密かに死を覚悟したようだ。実際、夫婦で旅行に出かけたり、大学時代の友人と会ったりもした。それから迎えた秋は、メランコリックな気分がいっそう深まっていったようだ。タッチーさんは不安にさいなまされながらさまざまな検査をし、そしてその結果がついに10月10日に明らかになる。
検査結果は、「両肺に小結節影が多発しており、肺転移の所見。気管前リンパ節が腫大しており、リンパ節転移を示唆。左仙腸関節に強い集積を認められ、転移が疑われる」というものだった。「それで、これからどうすれば?」という質問に対して医師は、
「今の段階で考えられることは3つ。治癒のための治療、延命のための治療、そして対症療法です。まず、治癒は見込めません。1ヶ所だけ治療しても意味がありません。延命となると抗がん剤ですが、それはやめた方がいいでしょう。苦しんで長く生き続けても、辛いだけだと思います」
と、つれなかった。これは、タッチーさんが現代医学から見放された瞬間だった。
10月10日に絶望的な検査結果を受け、その後のタッチーさんは猛烈な寂しさに襲われたり、たまらなく心細くてなってパソコンの前から動けなくなったりもした。そんななか家族で食事に出かけたり、カラオケで久しぶりに歌ったりもしたが、それもただ寂寥感を深めるだけだった。そのころから代替療法に関心を寄せ、講演会に出かけてささやかな希望を抱いたりもしたのだが、何かがあるとまた憂鬱になる。
そして11月を迎えるや、タッチーさんはHPに「おれいの章」を書き込んだ。
生き様や死に様を、大勢の人が見守っていてくれる。ただそれだけのことがとても大事。わたしを絶望や孤独の淵から救い出だしてくれる。ありがとう。ありがとう。
…HPをご覧になっている皆様へ…みなさん、ご心配をおかけしてすみませんでした。
掲示板やメールでのたくさんの励まし、ありがとうございました。
おかげ様で、こんなわたしでも、冷静に現実を受け止めることができました。
「終わらなかった日記」の転移騒動は、残念ながら、「治る見込みはない」という最悪の形で、一応、幕を閉じようとしています。本当に悲しいです。これでは話が違います。作者は大喜劇を書くつもりだったのですから。でも、まだまだこれからです。
わたしは、何も後悔していませんし、何も諦めてはいません。
HPや掲示板は、今までどおり続けていくつもりです。自分のために、そして誰かのために。みなさん、これからも、ずっとおつきあいくださいね。よろしくお願いします。あっ、それから、今はとっても元気です。(2001年11月7日 記)
自分のホームページの読者に「おれいの章」を書き込んだタッチーさんが亡くなったのは、翌2002年7月22日。それは「ガン宣告」を受けてから2年2ヶ月後のことだった。
しかしタッチーさんのHPは今もそのままアップされていて、この2年余りのタッチーさんの不安や希望や苦しみや喜びの心に記録が、いまなお多くの人々に読み続けられている。
そのトップページを飾るのは、タッチーさんの娘さんによる代筆である。
このHPへお越し下さりありがとうございました。
残念ながら、2002年7月22日午前6時、こちらの世界とはお別れしました。
突然のことで驚かれた方もいらっしゃるかと思います。
私のホームページをご覧いただければ、 私が考えていたこと、たくさんの思いがお伝えできることと思います。美人薄命とはよく言ったものです・・・笑
正直まだ生きていたかったですが、充分すぎるほどの幸せを与えて下さった仲間、友達、家族にとても感謝しています。
悔いはありません。私らしくいさぎよく逝きます!!
皆様も今日は私のために泣いて、明日からはケロっとして下さい。
でも、たまには思い出してね。 ありがとう・・・
1b期の初期ガンだったタッチーさんは、手術を拒み放射線治療を選んだ結果、ついに帰らぬ人となってしまった。これに対して多くの医師たちは「初期ガンなら手術をすれば治ったのに…」とその死を悔しがるだろう。タッチーさん自身も、そう思うことがあった。「とりかえしのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか」と…。この場合「適切な治療法」とはいったい何だったのか、手術か、抗ガン剤か、放射線治療か。現代医療では選択肢がわずか3つしかない。しかもそのすべてが「ガンとの闘い」の武器選びの範疇のものである。
●「戦争思想」に立つガン治療
ここにタッチーさんの無念の死を長々と紹介したのは、彼女が「ガンとの闘い」を避けたいと願い、「がんなんか笑っちゃえ!」と大らかな気持ちでガンと向き合ったにもかかわらず、わずか2年余りで悲しくも戦死してしまったからである。その闘病ドラマは、胸が絞られるほどに心が傷むブラックユーモアだ。「闘いたくない」というのに結局彼女は闘わされ、そして無惨にも闘いに破れた。それもそこに、大変な錯覚があったからである。
その錯覚とは、たとえばメスで体を切り裂き、ガンを除去する手術が刀やマサカリで戦う戦闘方法だとしたら、抗ガン剤治療は手当たりしだいに毒ガスを撒いたり、空から絨毯爆撃をするようなもの。そして放射線治療は、レーザービーム銃であっという間に敵を焼き殺すようなものといったイメージから発生したのかもしれない。つまり、マサカリや毒ガスで戦うのは野蛮で残酷きわまりない戦争だが、最新鋭のレーザービーム銃やコンピュータを使ってのピンポイント攻撃なら、敵にさほど苦しみも与えずに瞬間的に殺せるから「人に優しい」といった錯覚があったのではなかろうか。
なるほど、ガン細胞の殺し方はそれぞれに違うが、たとえ放射線治療がガンを瞬間的に殺すとは言っても、だからといって「人に優しい」とは絶対に言えない。殺す方法は違っても、それはあくまでも「ガンを敵視して殺す戦争」なのだ。だからこちらが敵意をむき出してガンに総攻撃をかければ、手元が狂って罪のない大勢の市民まで間違えて誤射してしまう。そして戦闘に巻き込まれた多くの市民たちの激しいその恨みが、結局は体全体に広がってしまう(再発・転移)のである。
タッチーさんの戦死はまさにそのようだった。最初のガンは8分の1まで縮小したというのに、あっというまに肺や胸など全身に広がった。もしもタッチーさんがガンとの闘い(放射線治療)をせず、文字どおりガンと大らかに「笑って」付き合ったとしたならば、ガン宣告からわずか2年で亡くなってしまうというようなことはありえなかっただろう。というのも、タッチーさんは「1b期」の初期ガンだったからである。
ガンと闘いたくなかったタッチーさんが願ったのは、「おれいの章」を書いたころから関心を持ち始めた代替療法のような穏やかなものだったかもしれない。
「1期から一気に末期だなんて、ダジャレみたい」と10月末に書き込んだタッチーさんは、「きょうから体に悪いことはいっさいしないことにする」と決意して、HPの中で「代替療法とは」「わたしはベジタリアン」という新しい連載を始めた。しかしその後も体の不具合と不安が続いたためか、2002年4月に再び入院し、再び放射線治療が開始された。タッチーさんは心身ともに深く傷つきながら、なおも戦場に出向いて戦い続けたのである。
「1期から一気に末期」へとステージを飛躍させたものとはいったい何か。
それは「窮鼠猫を噛む」ではないが、強力な軍隊の有無を言わさぬ無差別攻撃に市民が憤り、一気にテロリスト化、ゲリラ化して反撃に出たようなものかもしれない。「戦場」では、怒れば普通の市民でさえ武器を持ち、やがてゲリラ化、テロリスト化して戦いに転じる。戦場とは、決着がつくまで敵と味方が殺し合いを続ける場なのである。
それが分かっていながら、なぜ現代医療は「ガンを殺そう」とやっきになるのだろうか。いまの病院医療を乱暴な言い方でたとえれば、マサカリや刀でやっつけられる相手なら勇猛果敢に斬り込んでいき(手術)、それが無理なら毒ガスや絨毯爆撃で「敵」が集まっていそうな場所を襲撃し(抗ガン剤治療)、時と場合によっては最新鋭の兵器を使ってピンポイント攻撃をする(放射線治療)といったものだ。
その基本的な戦略思想は、敵(ガン)を殺す「戦争」であり、その戦術にはいろいろある。しかしいずれにしてもそのガン治療は、「戦って勝つ」というものだ。
ガン治療のこうした戦略戦術は、すべて「ガンは悪魔」という見方から生まれ出ている。ガンは疫病神にして危険な殺し屋であり武装ゲリラ、だからその存在が体内に認められた以上は徹底的に攻撃して殲滅するしかない。しかしそれは本当だろうか。いや、その見方、考え方が根本的に間違っているからこそ、いまだにガンが「死に至る病」として君臨し続け、年間32万人もの戦死者という不幸を再生産し続けているのではなかろうか。
その証拠に、いつのまにかガンが消滅したという事例が多々見られる。すでに紹介した上海のBさんもそうだったし、札幌のFさんもそうだった。その他にもそれぞれの代替療法で数多くのガン完治がはっきりと確認されている。ということは、たとえガンが「悪魔」だったとしても、その悪魔にも「改心」の余地があるということだ。凶悪と思われているテロリストも、状況しだいでは普通の市民に戻ってしまうのである。
この事実は、「ガンは悪魔」という現代医療の大前提を根本から引っくり返してしまう。もし「悪魔」に「改心」の余地があるとしたら、なぜ医療はその道を進まないのだろうか。いや実際には、さすがに「戦争思想」の愚かしさに気づいたらしく、ホリスティック医学や免疫療法など、さまざまなガン治療が社会にはあふれ出してきた。代替療法が広がってきたのもそれゆえのことだろう。とはいえ、そのほとんどがいまなお古典物理学的な古めかしい生物理論・医学理論に基づいている。だが、そこに足場を置く限り、急増するガン患者や難病患者に希望の出口はないと言わざるをえない。
それでは、いったいどこに希望の出口はあるのだろうか。それについては次章で論じることとして、ここではぼくが選んだ「治癒への旅」を簡潔に述べてみたい。
●ぼく自身の「治癒への旅」
「されどガンを侮らず」のタイトルどおり、ぼく自身は「ガンは恐くない」と思い、逆にガン宣告を「ラッキー!」とは思ったものの、決してガンを侮ったわけではない。右乳首が大きくガン化したのは明らかに体内の異変を告げる症状であり、それだけにそれをそのまま放置しておいてはいけない。ガンはあくまでも治癒しなければならないのである。
そこでまず食事を切り替え、二十代にやったように玄米を食べようと考えた。ぼくがそう言うまでもなく妻も同じように思ったらしく、さっそく圧力釜で炊いた玄米が出てくるようになった。ただ、長い間歯がひどい状態になっていたために、十分に咀嚼することが難しい。そんなこともあって歯科治療が終わるまでは、粥のように柔らかく焚いた玄米がぼくの一応の基本食になった。
正直、これだけでも時間をかけてやってさえいけば大丈夫と思ったが、数年前から分子生物学や「糖鎖の科学」に興味を持って調べてきた経緯もあったため、これを機に糖質栄養素や酵素などもできるだけ摂取するようにした。また微量元素(ミネラル)も生体に不可欠であることから、その補給にも努めることにした。このほか、そのころ仕事でちょうどラッキーな出会いがあり、プロポリスに関してもタイミングよく格好の情報やモノを入手することができた。そこでさっそく、これも同時に試してみることにした。5月下旬にガン宣告を受けたぼくは、こうして玄米食を基本としたいくつかのメニューを用意して、とにかく「治癒への旅」に旅立ったのだった。
以上は、危険信号が点滅している体内環境を徐々に変えていこうという試みであるが、これだけではやっぱりそれなりの時間がかかるだろう。もっとも、ぼくのは乳首の脇にできたガンであり、日常生活に別に支障があるわけでもなかったから、時間がかかったとしてもさほど大きな問題はない。しかしほとんど末期に近い「3b期」と診断されて「遠隔転移」が心配されているのだから、心配してくれている家族や周りの人たちのためにも、少しでも早く効果的に体内環境を変えていきたいとも思った。
そこでその効果を高めるために、整体指圧をやってみようと思い立った。というのもぼくの日常は、取材で出かける以外はパソコンの前に座っていることが多く、いつのまにか姿勢がおかしくなっていることが多かったし、腰にかなり負担がかかっているとも思っていたからである。背骨が歪むと神経系にも支障が生じ、その結果、臓器や体の機能にも影響が及ぶ。これを正すには体内環境を整えることだけでは限界がある。そう考え、どこかにいい整体治療院あったら、この際ぜひ通ってみたいと思ったのである。
整体指圧に関しては、かつて不思議な人のやっかいになったことがある。その人小原弘爾さんは、交通事故で全身マヒという酷い状態に陥ってしまったものの、看護する人の手を借りて体を起こしてもらい、背骨に体重をかけながら柱の角に丁寧に押し付け続けた結果、見事に健康を回復したという強者だった。つまり、背骨を柱の角を使って矯正することで神経を回復させ、ついに普通の暮らしができるまでに健康回帰したのだ。
そんな小原さんは、「元気になれたのもすべて神仏のおかげ」と考えたらしく、その後北海道神宮で奉仕するようになった。その小原さんが札幌にいたときに、ぼくは体調がおかしくなるたび背骨の矯正をやってもらっていたのである。
小原さんが足や背骨に手をかけると、まず大きな生あくびがいくつも出る。それにつられる格好で鼻水や涙がどんどん誘い出され、さらには咳や汗、ときには腸に溜まっていたガスなども連発する。それはまるで、体内に深く押し込められていじけていたエネルギーが、あらゆる出口を求めて噴き出してくるかのようであった。そして蓄積されていたものがいったん外に出されてしまうや、気分がすっきりして、体もぐんと軽くなる。小原さん流の気功整体は、体の悪い部分(患部)を治そうとするのではなく、足や背骨を矯正することによって、体内に蓄積された歪んだエネルギー(邪気)を外に吐き出させるものだった。
小原さんのその技術はやがて東京でも評判になったらしく、東京の知人から呼ばれて数年後に引っ越していった。そして東京を中心に多くの人々を手がけるようになるが、そのなかにはたくさんの医師たちも混じっていた。要するに、現代医学ではどうしようもない病気に苦しむ医師たちが、なんと小原さんの手にかかって元気になっていったのだ。この事実は、背骨の矯正だけでもかなりの効果があることをはっきりと物語っている。それを知っていただけに、ぼくも札幌で誰かいい人を見つけて整体指圧をやってもらおうと思ったのである。
というわけで、ガン宣告を受けたあと、さっそく友人の写真家に電話を入れた。友人から「面白い人がいるよ」と、以前聞いたことがあったからだった。整体指圧は施す人によって効果が違ってくるから、治療院や人を選ぶ必要がある。そしてそれには、確かな人を紹介してもらうのがいちばんだ。そんなわけで友人に相談してみたのだったが、友人はぼくがガン宣告を受けたことを知って驚きながらも、自らが通っている治療院を快く紹介してくれた。
●「足もみ整体」
「善は急げ」ということで、さっそくその治療院を訪ねてみることにしたところ、友人もいっしょに同行してくれた。地下鉄円山公園駅のすぐ近く、個性的でしゃれたビルの2階にその治療院はあった。広々とした室内には治療用の大きな椅子4セットと、整体用の個室等がレイアウトされていて、そこでは4人が黙々と足もみや整体などにいそしんでいた。
友人が同伴しての紹介ということもあってか、ぼくに対してはこの治療院の創設者、鈴木弘勝さんがまず対応してくれた。その看板「鈴足法治療院」の「鈴足」は、創設者の名前に由来する。しかしその流れは、台湾に発した「若石健康法」にしっかりと根ざすものだった。若石とは、スイス生まれのカソリック神父、ジョセフ・オイグスターの中国名で、この健康法はジョセフ神父が中国古来の医療法を引き継いで新しく開発したものという。なのに「鈴足法」と称するのは、若石健康法を治療の軸としながらも、鈴木さん独特の気功術や体皮治療等がそれにプラスされていたからである。
「若石健康法」の特徴の一つは「新観趾法」で、これは足と脚部を見ただけでその人の健康状態を即座に判断するものである。実際、鈴木さんは黙ってぼくの足を触りながら、足に現れ出た兆候を克明にチェックし、紙に印刷された足の図にどんどん赤ペンで記入していった。そして全部チェックし終わった後で話してくれた健康状態を聞いたとき、そのあまりもの的確さにぼくはすっかり度肝を抜かれてしまった。さらに驚いたのは、「足は体の窓・全身の縮図」と言われるが、乳ガン部分に対応する足の甲の部分が病的な色を帯びてむくんでいたことである。またその足の甲や乳ガン部分とつながっているくるぶし上位も、やはり楕円を描いて半ば壊死状態になっていた。なんと乳ガンの異常状態がそのまま正直に足に現れ出ていたのである。この一例だけをとっても、体の臓器や機能がいかに緻密に巧みにつながり合い、全身の健康状態がいかに鮮やかにそのまま足に現れ出ているかがはっきりと分かった。
足による診断が終わったあと、さっそく足もみが始まった。まず左足から入念に鈴木さんが指や手を使って押していく。体の異常とつながっているポイントを押されると、悲鳴を上げたくなるくらいに痛い。しかし変に悲鳴を上げては大人げないと思い、痛さを「痛快さ」に昇華して、頭のてっぺんから天空に向けて吐き出すようにイメージした。
足もみが終わったあと、右足上部の乳ガンに対応する部分がそこだけ鮮明に赤くなり、小さなブツブツがいっぱい現れた。またくるぶしの上位部分にもちゃんと変化が現れていた。そのぶん乳ガンにもそれなりの刺激が伝わり効果もあったのであろう。そのあと「鈴足法」独特の体皮治療と整体、気功等々が施され、2時間以上にも及ぶ最初の治療が終了した。